宿泊券を片手に。
電車を降りると、夏のアスファルトの匂いがした。
「あっちぃ~~」
当たり前だろ夏だもの、とでも返事をしてくれたのか、セミがどこかでジジジと短く鳴いた。
あいにく、麦わら帽子に夏らしいワンピースなんて出で立ちでは来ていない。そんな夏少女なコーデを持っているほど私に可愛げはないし、第一、仕事では動きやすい格好が一番だからね。
デニムにTシャツ、髪は暑いのでポニーテールに。手でひさしを作って周囲を見渡すと、自宅に帽子を忘れたことに気付いて溜息が出た。
周辺の家々は屋根が低く、空は広い。
都市圏に住む私からすれば十分に牧歌的なのだけど、ここが地域でも指折りの大きな駅らしいのは本当だった。
何本もホームが連なっていて、都会から来る長い電車と、田舎に出て行くであろう短い編成の車両が並ぶ。
この駅から先は、地平線まで続く田畑や、遠く望む山々や、色んな方向に向かってローカル線が伸びているのだ。
そして私はここからどうすればいいのかという、最大の難関にぶち当たる。
本当に迎えなんて来るのだろうか……?
何はなくとも日陰を目指そうと駅舎の方へ歩いたら、額から汗が吹き出し、『あのバカ部長め…』とつぶやけば、昨日の部長のニヒルな笑顔がフラッシュバックした。
「では旅費については百歩譲りましょう。……それで? 行き方が分からないでお馴染みの旅館にどうやって行けっていうんですか!?」
「怒らないでくれ、そーゆー話を探求するメディアだろう? 我々は」
「調べようがないものはメディアになりません!」
まぁまぁ、と私のことを手で制した編集長は、ニヒルな笑顔で封筒をひらひらと掲げた。
なんかあるなら早く出せばいいのに!
こういう演出めいた態度がムカつくのだ!
「で? なんですか、それ」
「その、行き方がわからない『不機嫌な恋人旅館』の招待状だよ」
「…まさか? 本物ですか?」
不機嫌な恋人旅館。
都市伝説としては中堅くらいの、聞かなくもない話だ。
まあ、都市伝説だから当たり前なのだけど、現実味があるのか、ないのか、判然としない内容で、それにもかかわらず根強く語られる。
なんでも、年頃の恋仲の男女どちらかに、ある日突然、封筒が届くという。
開けてみると温泉旅館のチケットが二枚。
写真の印刷された紙には、山間に立つ古式ゆかしい木造旅館、山の幸が並んだ夕食、沢を見下ろす落ち着いた部屋が写る。そして一文だけ添えられた招待状が入っていて……。
『――地方の――駅に大切な人とお越しください。気が赴くままに、好きなホームでお待ち頂ければお迎えに上がります』と記されているのだ。
いつ来いとも書かれていないし、わからないことを問い合わせようにも旅館の電話番号はおろか、所在地も書いていない。
一般的にいって悪戯にしか思えない内容だ。
しかし中には物好きもいる。何かのミステリーツアーに当選したのだと燥ぐカップルは、手紙の通り、唯一の手掛かりであるその駅を訪れてしまう。
すると不思議なことに迎えの電車が到着し、温泉旅館へ連れていってくれるのだ。
ここまででも十分にミステリーだけど、話の本質はそのあと。
カップルは滞在中に必ず、別れてしまうか、今まで以上の愛を誓うことになるか、その後の関係を左右する試練に見舞われる。
大喧嘩ののちに別れた男女が不機嫌にこの話を周囲に漏らす、というネットの書き込みから『不機嫌な恋人旅館』という通り名がついたのだった。
「そういう話でしたね」
「さすがだ静馬くん。そしてその手紙が、今まさにここにあるという訳だ!」
部長から受け取った封筒を開けると、おおむね見聞きする通りの内容物。
ネットでは諸説あったり、伏せられていることがほとんどだけど、迎えが来るという駅も手元の紙には書かれていて、それも、聞かない駅ではなかった。
「××駅って……○○地方ですよね。足取りのつかめない都市伝説の割には、やや現実的というか」
「逆に言えばそこが現世との境目になっているのかもしれないな。きっと一種のパワ―スポットに違いない。別れさせたり、愛が深まったり、その超常的なパワーの正体は何か!? そして招待状の目的とは……!」
「あれ。ちょっと待ってください」
部長のオカルトスイッチが入れる前に制止したかったこともあるけれど、よく考えればおかしいのだ。
「なんだね」
「色々おかしいですよ。だって、これは部長宛に届いたんですよね? そうしたら部長が彼女さんと行かなきゃいけないのでは?」
「いや、それ静馬くん宛だよ。部のポストへ届いてたのだ」
封筒を真っ先に開けてしまったが、改めて表面を見ると、静馬様と書いてある。
「なるほど、それじゃあ私が行かないと、いけな………って、勝手に開けたのか!!!」
「ごめんピ」
「何がごめんピだ、バカ!! それに私、恋人いないし!」
「僕もいないが」
「聞いてないですそんなこと!」
「だからほら、恋人が居そうな新人の佐藤君に行ってもらおうとしたんだけど、辞めちゃったしね……?」
「私宛の招待状を横流ししたあげく、新人ちゃんを巻き込んで、本当に彼氏と別れちゃったら、どうするつもりだったんです!?」
「まあまあ、招待状はキミの手元にちゃんと渡ったし、せっかく招待されたんだからさ。ね? お願いっピ!」
ということで、まさか、まさかの、私宛の招待状だったのだ。
炎天下をようやく屋根のある場所に入って溜息をつくと、再び招待状を広げた。
見聞きしてきた『不機嫌な恋人旅館』と違う点は二つある。
まず、ペアチケットが1枚しか入っていない点だ。
冷静に考えると、一人招待すればその恋人も自動的にくっ付いてくるのだから、チケットの枚数は2枚である必要はない。
ただし従来の噂と違うのは確かだ。
くわえて、私に恋人はいない。
恋人がいない人にも届くというのは、通称:恋人旅館としてどうなのだろうか。
ダミーで誰か連れて行こうにも。
うーん、どうせなら好きな人かぁ……まあ今更だし、おいておこう、かな。
それにしても……。
“気が赴くままに、好きなホームでお待ち頂ければお迎えに上がります”
いつ来るかもわからない、顔も知らない宿泊客を、待ち合わせ場所も設定せずに迎えに来られる。いったいどういう原理?
それとも何か? もしかしてウチのような弱小タブロイド紙を笑いものにするための、誰かの悪戯?
と思って顔を上げると。
ここまで乗ってきたものとは違う、一両編成の……妙に古めかしい電車が目の前に止まっていた。
「え?」
鉄道には詳しくないけれど、旧型の電車が今も元気に走っている路線というのは観光記事で時々見かける。ただ目の前にある光景はそういう話ではない。
その電車は、素人目にも旧型というより「昔の電車」なのだ。
こんな電車、さっきまで止まっていただろうか? という違和感もあって、ついに私は思考が停止する。
動きを止めていると、視野の端から初老の鉄道員が現れた。
「静馬様、ようこそいらっしゃいました」
「……え????」
「まもなく発車となりますので、ご乗車になってお待ちください」
「あの、りょ、旅館……にいく電車で…すか?」
「左様でございます。お待ちしておりました。さあさ、外は暑いですから中へ」
促されるままに足を踏み出すと、鉄道員はニコリと笑って運転席の方へ歩いて行った。
この電車、乗って大丈夫だろうか。
よくわからないことに巻き込まれるのは不安である。しかしそれ以上に、板についてきたオカルト記者の冒険心が雄叫びを上げ、私は車内に踏み入った。
床は木の板張り、西洋の汽車を思わせるランプのような車内灯、バネの反発が強そうな座席のクッションが目に入る。
やはり古い車両を観光用にリバイバルで復活させたものとか?
それにしても行楽シーズンといって差し支えないのに、車内には先ほどの鉄道員以外、誰もいない。
いささか乱暴な空気圧の音でドアが閉まると、カランカラン、という重厚な鐘の音が鳴って、電車が動き始めた。
私はこれから、どこに連れていかれるのだろう。