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無賃電車  作者: Sun
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 電車から降りることができなくなってから、既に8時間が経過していた。





 まどろむ意識の中で腕時計を確認すると、時計の短針は深夜の3時を示していた。


 思い出すように顔をあげると、ちょうど車体が揺れてコンマ一秒だけ尻が宙に浮く。

 雑誌に布を一枚巻いたような簡素な座席に着地したせいで舌を噛みそうになる。

 呆然としながら、今の状況を思い出そうとする。


「起きましたか?」


 猫を優しく撫でるような、けれどわざとらしく声色を変えてはいないと断言できる、自然な声。あまりの耳障りの良さに、思わず二度寝をしてしまいそうになる。


「ちょっとちょっと、起きてくださいよ、もう。」


 もう、と語尾にはつけているが、そこには苛立ちや怒りが一切含まれていないことがわかる。

 細かい一つ一つの会話の端々からも、彼女の包容力の高さや器の大きさを感じ取ることができる。


 カラリと、頭の中で音が鳴る。


 彼女に肩を静かに揺らされて、ゆっくりと現実世界に意識が戻ってくる。ここがどこで、今何をしているのか、一つずつ情報が整理されていく。


「眠れるなんて羨ましいです。やっぱり非常時って、余裕がある人が生き残るんだろうなって思いました。ほら、溺れたときに、慌てて助けを求めて手を上げたら余計沈むみたいな。私は多分溺れ死んじゃうタイプです。」


 彼女は両手を上げて掌を列車の天井に向けた。

 細い腕からぶら下がるピンクの花模様をした浴衣が、しだれ桜を思わせる。

 足を交互に前後に振って、バタ足をしている。下駄が床にぶつかって、軽い木の衝突音がする。


「どのくらい寝てた?」


 質問すると、「30分くらい」と回答された。

 桜色の浴衣から窓の外に目を移すと、自分と両手をあげる浴衣姿の彼女の二人だけが写っていた。外は真っ暗で、窓は鏡になっていた。

 絶えず体を震わせる車体の振動と、前後左右に働く慣性の力で、電車に乗っていることが理解できる。


 もう一度腕時計を見る。やはり3時だ。


 夏祭りの帰り、人混みを避けて最寄りから少し歩いた電車に乗った。

 車両には他に客が一人もおらず、みんなこっちに乗ればいいのにね、と話していた。

 数十分で降りるはずだった電車はなぜかどこの駅にも止まることはなく、走り続けた。電車に乗ったのが18時過ぎだったから、8時間以上電車に乗っていることになる。

 窓に顔を近づけて反射する自分の顔におでこをつけると、ぼんやりではあるが外の景色が見えた。山道を走っているようで、数メートル先は山肌になっていることに気づく。


「もう一度、探索しませんか?」


 桜色の浴衣を着た彼女が立ち上がった。

 甘い匂いが鼻腔に届く。ザクロの香水だと言っていた。


 彼女は出会い系のアプリで知り合った一つ年下の大学生である。

 なるべく失敗を避けたかったので、出会い系アプリでは割高な月々一万円のプランで交際相手を探していた。マッチングしたのは50人、実際に会ったのは20人、そして3回会ったのは彼女一人だ。

 

 彼女の名前は紫吹林檎といった。色のムラサキに風がフクでシブキ、果物のリンゴと書いて紫吹林檎である。最初はペンネームか何かかと疑ったが、本名だと言う。運転免許証も見せてもらった。

 よくよく考えれば、出会い系アプリは本名しか登録できないルールになっていたので疑うまでもなかったのだが、改めて聞くと珍しい名前だ。


「待ってよ林檎。」


 自然に名前を呼ぶ。ここ三回のデートで、お互い気軽に名前を呼び合う関係までは進展している。

 名前を呼ばれた林檎が、足を止めて振り返る。

 片足のかかとを上げて、両手は胸の前に拳を二つ。絵に書いたような見返り美人図だ。

 林檎は名前から連想されるような、可愛い少女のような顔立ちではなく、どちらかというと顔のパーツが整った綺麗な顔立ちをしている。鼻筋が通っていて線対称になっており、口と鼻の距離が近い。軍隊が整列したみたいに歯並びが綺麗で、両目は茶色。

 計算された眉の長さが顔面のバランス整え、顔全体で黄金比を作っている。


 カラリ。+1ポイント


 林檎が振り返る姿の美しさを見て、また僕の頭の中で音が鳴る。僕は出会い系アプリで出会う女性に対し、無意識にポイントを加算する癖がある。美しい容姿はもちろん、所作、言葉など、女性を形成する全ての要因に対し、ときめきを感じた場合にのみポイントは加算される。


「やっぱり誰もいないですね。」


 車両から車両へ移り、二人で歩き進む。乗車した際に、同じ車両に誰もいないことはわかっていたが、まさか全車両に誰一人人間が乗っていないとは思っていなかった。

 僕らを除き、電車には誰もいない。運転席も確認したが、車掌はいなかった。完全に無人電車である。

 

 いつまで経っても駅に止まる気配がない電車の異常性に気づいたのは、電車に乗って一時間が経過したときだった。

 二人で携帯電話を取り出したが、どちらも圏外になっていた。

 電車の中を往復したのはこれで7回目になる。

 夏祭りで散々歩いた後で、足はとっくに棒切れのようになっていた。


「だめだ、一体どうなってるんだ、この電車は。」


 ため息をついて電車のシートに腰を落とす。疲労と空腹、密室に閉じ込められ続けるストレスが足をさらに重くしているように感じた。座って足を大きく広げると、じんわりと疲労が足を包む。


「なんだか、フィクションの世界にいるみたい。」


 林檎が真っ黒の窓を眺めながら言った。

 足を揉みながら林檎の方を見ると、窓ガラスに映る林檎と目が合った。

 林檎の顔は少し疲れているように見えた。

 無理もない。電車に閉じ込められてから8時間以上経っているのだ。

 窓ガラス越しに目が合ったことに気づいた林檎は慌てて目を逸らした。

 

「どういうこと?」


 尋ねると林檎は振り返ってこちらを見た。

 相変わらず振り返る姿が画になっている。

 さっき一瞬見えた表情は見間違えだろう。

 林檎の作る表情は完璧だった。もしここが江戸時代だったら、見返り美人図のモデルは絶対に彼女だったに違いない。


「私、SFとか結構好きでよく見るんです。だから、もしかしたらここは現実世界ではなくて、SFの世界に迷い込んだんじゃないかって。」


 林檎は言い訳するように説明を付け加える。

 話しながら、少しずつ声が小さくなっていく。言い終わる頃には、完全に俯いていた。


「ごめんなさい、変ですよね。変な妄想する女だって思いましたよね。」


「いや、そんなことないよ。」


 林檎を慰めようと立ち上がる。

 そのとき、視界の隅、網棚に何か荷物が置いてあることに気がついた。




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