第二章 1 とある家庭で
よろしくおねがいします
杉浦美咲は特別美人でない代わりに可愛さがある。
が、身長も低い方だし、スタイルがいいとは言い難く、どちらかと言えば痩せ過ぎて咳でも連発しようものなら病人と間違えられそうなくらい肌の色も青白い。
そんな容姿もあってか特別愛想良いというところもなく自然と目立つような立場ではなくなり、そうなると人との付き合いも自然と無くなっていった。
ただ、笑った時、少し俯き加減になり恥ずかしそうに相手から目を逸らすが、その笑顔を覗き込んで見ると満面の笑みを湛えている。
まるで幼児が愛する者にあやされている時のように。
その笑顔を見た者なら必ず惚れ惚れとするであろう。
然し当の本人は其の魅力に気付いていない。
父親との関係は最悪であった。
それ以上に母親との関係の方が悪かった。
父親は一人では何も出来ないような気の小さい男であったが、何か気に入らない事が起きると急に怒鳴り出し、暴力を振るうこともあった。
彼女がまだ幼稚園にも入園していないくらいに幼い時、父親に暴力を振るわれた事があった。
怒鳴り散らされて泣き叫んでいる幼児に苛立ち、右足の蹴りを見事に決めて、幼児の肋骨を2本へし折ることに成功した。
母親は其れを止めるどころか、何事も無かったように黙々と内職をこなしていた。
幼児は驚きと痛さのあまり声も立てる事ができず、ただ止めどなく涙を流していた。やがて幼児は泣き疲れて、そのまま畳の上に蹲るようにして寝入ってしまう。
どうしてこんなことになってしまうのだろう。
どうしてだか解らない、幼い子に解る筈もない、大人にでさえも解る筈のないことなのだから。
朦朧としてきた意識は何が起こったのかさえ解らなくなっていき、其のか細い心まで疲れ切ってしまい、泣き疲れて、寝入ってしまった。
翌日、彼女は家の外で、一人で遊んでいる、胸の痛みを堪えながら。
家の中には居たくない、何か悪い事をしてしまうかもしれない。
何もしていなくとも悪さが向こうから勝手にやって来るように思える。
この頃から彼女は、自分の存在そのものが悪い事のように思うようになって行く。
其の翌日も一人で遊んでいた。
痛みは引かない。
近所のお爺さんに貰ったチョークでアスファルトに絵を描いている。
歳の近い近所の子供が誘っても一緒には遊ばない
胸の痛みが増すからだ。
流石にそんな幼い少女を見ていて、何かおかしい、と思う人が現れた。
当然のことである。
既に彼女の家は毎晩のように怒鳴り声が聞こえることで評判になっていたのだから。勇気のある近所のおばさんが彼女の家へ行き、病院へ連れて行くように、と促してくれた。
たまたま近所で専門が整形外科の開業医は彼女の母親に、どうしてもっと早く連れて来られなかったのか、彼女の変化に気付かなかったのか、などと話をした。
おかげで少女は母親に散々怒られることになった。
お前の所為で医者に嫌味を言われた、というのが母親の言い分である。
此の母親の口癖は、バチ当たり、である。
悪いことをすれば必ず天罰が下るそうである。
然し、此の母親の場合の悪い事とは自分にとっての悪いことであり、世間の其れと等しいとは限らない。
此の教育のおかげで、現在の彼女、杉浦沙織は嫌な事があると自分が悪いことをしたからだと心の何処かで信じるようになった。
彼女が大きくなっても此の家庭の状況は変わらなかった。但し、一つだけ大きな変化があった事を除けば。
彼女は進学して高校生になっているが、弟は今、中学生である。彼女には一人だけ弟がいた。
弟も同じような経験をしてきたが、姉と違って気性の激しいところがあり、この家庭には早く見切りをつけて中学卒業と共に家を出る決心をしていた。
親戚など血縁関係は此の家族をとっくに見放している。
また、沙織の弟はその烈しい気性の為、近所では不良グループの仲間の一人として見られていた。
彼自身は其のようなグループに属していた訳ではないが、やっていることは余り変わらなかったと言えるであろう。
だからと言って此処で、その罪の一つ一つを列記しようとは思わない。
ただ、その弟のおかげで父親の暴力は徐々に減っていった。
もしも姉が父親に暴力を振るわれようものなら、一目散に弟が突進してきて父親に体当たりをぶつける。
たかが中学生の体当たりなど大人にとってはたいしたこともないかもしれないが、毎回息子の体当たりを喰らわされては、そう簡単に娘に暴力を振るう気も失せていく。勿論、初めて体当たりをぶつけた時には流石に父親も「何をやってるんだ、この野郎!」と言いながら散々に蹴り倒す。
然し此の弟、めげない。
何よりも近所では不良グループに属していると噂されているだけあって、父親としては息子が肌身離さず持っている電工ナイフが気になる。
やれるものならやってみろ、とは思っているが、万が一の発作的突発事故が起こってはたまったものではない。
息子は息子で脅しのためであり実際に使おうとは微塵も思っていない。
兎に角、彼女は弟の体当たりのおかげで暴力からは徐々に解放されていくことになった。
怒鳴り声は変わらない。
ありがとうございました