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 確かに、エフェソスの港町らしい開放的な空気に洗われた地元の青年たちは、気のいい男が多かったが、アテナイのオリーブ園で得られたような知己ほどの人材は、望むべくもなかった。エフェソスの人たちのように、屈託も拘泥もなく、井の中を三界と生きられたらと、どんなにへロストラトスは願ったことだろう。


 とはいえ、いくら地元の青年たちと毛色が違うからといって、全く交流がないわけでもなかった。根が寂しがり屋の性分であるヘロストラトスは、招宴の声がかかればたいていは、素気はなくとも異存もなく応じていた。つい2週間ほど前も、年若の牧童エヴァンゲロスの家での饗宴に招かれた。

 

 エヴァンゲロスの家は、へロストラトスの家と同じく代々の市民農牧家であったが、祖父の代からのいわゆる成り上がりで、非常に栄えていた。エヴァンゲロスの屋敷はヘロストラトスの家の2倍の広さがあり、仕えている奴隷の数は3倍だった。


 宴には、同じ牧童はもちろん、遊女の類もおり、屋敷の広い居間を、過剰な人口密度にするほどの客人が招かれていた。伊達なイオニア男たちの着用するローブは、白色、黄色、紫色、すみれ色、緋色、オレンジ色、エメラルドグリーンと色とりどりで、誰も肩口でさらしたブロンズの肌とのコントラストを誇示していた。


 男たちでさえそんな具合だから、いわんや女たちの纏うペルシア産の風変わりなショールは、一見金属的な風合いだが、ヒダのでき方とその凸部分が返す光の加減によっては七色の色彩を呈し、天界の雲海の波光のきらめきを思わせた。


 ヘロストラトスは、其処彼処で始まっている会話の輪に、自分から進んで入って行こうとは思わなかった。が、あまり孤立してかえって目だってしまい、あぶれているのかと声をかけられるような、同情的なお節介を焼かれるのはもっと望まなかった。


 あまり人からは話しかけられないが、かといって座の端はぎりぎり占めている、いつもの絶妙な位置取りをしながら水で割ったワインをちびちび飲んでいた。酒は強くもなかったが、弱くはなかった。


 が、近頃飲酒そのものに対して、晩餐の度に聞こし召さなければならないものかと、いつのまにか効用よりも義務感の方が勝ってきているのを感じ、些か嫌気が差してしばらくは控えていた。


 素面のときは決してひとと議論しないヘロストラトスであったが、多少酩酊してくると気が緩むのか、オリーブの学園仕込みの雄弁さの片鱗を見せることも時々はあった。周りの人間からは、ヘロストラトスは酔っているときの方がよっぽど愉快だと思われていた。


「ヘロストラトス先覚!」


 宴の主催者であるエヴァンゲロスが、高めの良く通る声で話しかけてきた。美形といってもよい、目鼻立ちのはっきりした青年である。それに比べるとヘロストラトスは、ずいぶん奥まった瞳をしており、思考の切れとは反比例して、最悪ぼんやりしていると人から印象を持たれることさえあった。


 もともと鼻咽喉があまり丈夫ではなく、声の方も内向的な性質をしているので、張り上げて喋ることは少なかった。したがって、エヴァンゲロスの声の射程距離から話しかけられると、宴の喧騒の中、同じ距離まで声を返すのには少し骨が折れた。


「あちらで少々議論になっていることがあって、ぜひ先覚のご意見を伺いたいのですが……」


 そう言うと嫌に真剣な目つきになって、エヴァンゲロスはヘロストラトスをまっすぐ見すえた。少し離れていても主張するこの涼しい目もとには、男であるヘロストラトスも一瞬どきりとさせられた。


「先覚は、万物の起源は何にあるとお考えですか?」


 エヴァンゲロスにも、イオニアが誇る古の学都ミレトスへの遊学経験があり、同じく哲学を学んだため、へロストラトスのことを多少の愛嬌をこめて『先覚』と呼んでいた。


 それで意気投合する方向に向かえばよかったが、へロストラトスはアテナイの最高学府での学歴から、エヴァンゲロスを卑下こそしないまでも同列とは思わなかったし、エヴァンゲロスの方でも、八方美人的な親しみを込めていただけだったから、あまり二人の間柄は深まってはいかなかった。


 エヴァンゲロスの発した質問は、当時のポリス青年たちにとっては挨拶のようなものだったが、気軽く発せられる割には激論に転じやすく、宴の席で、いったい幾つの諍いを起こす原因となってきたかは知れなかった。へロストラトスは、先覚などとだけは勘弁してくれ、という刹那の苛つきで、自然と眉間に皺が寄るのを感じたが、一応抑えたつもりで答えた。


「それが何かは確とはしないが、事物を構成する、何か最小限の共通因子が存在することは、まず間違いないだろうね」


 この回答には、エヴァンゲロスはどこか物足りなさそうな顔をした。


 ヘロストラトスは、自分の声のテリトリーに入るようにと距離を縮めながら続けた。


「逆にエヴァンゲロス、君は何だと思うんだい?」


 へロストラトスにしてみれば、全くの義務感と多少の親切心から発した質問だった。が、エヴァンゲロスは我が意を得たりと、顔を喜色に輝かせて答えた。


「ミレトス学派の系統を任じる身としては、『水』と言うべき所なんでしょうが、僕の考えは幼少から少しも変わりません。もちろん『火』に決まってます! なぜなら……」


 エヴァンゲロスの良く通る声に、周りの何人かがぴくりと反応し、耳をそばだてたのが感じられた。たちまち、ほくほくした顔で皆がエヴァンゲロスを囲んで輪になった。


 ヘロストラトスは、その輪の境界線付近まで後退すると、内心また始まったかと薄ら寒さを感じながら、エヴァンゲロスの持説を傾聴せざるを得ないかたちになっていた。


 ”万物は流転し限りない闘争状態にある”と説いたのは、地元エフェソス出身の大哲学者であった。彼は世界を『火』に喩えてとらえていた。孤高の思想家でもあったため、特に結社するまでには至らなかったが、エフェソスの青年で、何らかの意味で自分が彼の弟子だと思わない者はなかった。


 しかし、こういった起源論自体、今日なお重要ではあるが、アテナイの哲学界本流ではすでに過去の題目となっていた。いい加減高説をぶった所で、エヴァンゲロスは気持が昂ぶってきたのか、一座に向かって呼びかけた。


「みなさん、ここで愛すべき故郷のために乾杯しましょういつもの掛け声で!」


 杯を高く掲げると、なお一層声を高らかに張り上げた。


「エフェソスに過ぎたるものが二つある、火の哲学に……」


「アルテミス神殿!!」


 と、エヴァンゲロスの上の句に対して一同が下の句を唱和した。


 その日すでに十数回目の乾杯であった。


 有頂天のエヴァンゲロスを尻目にへロストラトスは、意識の表層では酔いが回っているのに、逆に芯の方からは急激に覚醒していくのを感じた。エヴァンゲロスこそ、考えうる田舎の帝国の王侯青年の代表的存在であった。


 そもそも、へロストラトスの実家の家業が傾き始めたのは、同業であるエヴァンゲロスの父、大エヴァンゲロスが、自分の家の流儀に有利になるような取り決めを、なかば強引に成立させてしまったことの煽りを受けたからであった。そのことについては、エヴァンゲロスの家を恨んだりするのは見当違いだと思ったし、むしろどちらかと言うと、自家を不甲斐なく思う気持ちがヘロストラトスにはよほど強かった。


 とはいえ、楽観的で、独善的で、自分の境遇に満足していて、ブレのないエヴァンゲロスに対しては、接しているときにはそうでもないが、少し距離を取ったり、後々考えたりすると、何となく卑屈な嫌悪感を禁じ得なかった。


 そもそも、エヴァンゲロスの家にこんなにも勢いがあるのは、大エヴァンゲロスの父、老エヴァンゲロスの神話的な偉業のためであった。さかのぼること数十年前、当代アルテミス神殿建立の話が持ち上がった当時のことである。資材の大理石をどこで調達するかが、エフェソス市民の間で死活問題になった。

 

 そんな時に、ピクソダルという牧童が、偶然による羊同士の争いから、大理石の埋蔵場所をエフェソス近郊で発見した。牧童は、朗報をもたらす者、という意の名前『エヴァンゲロス』を公式に与えられ、人々から一目置かれて大いに実業でも成功をおさめた。


 ピクソダルこそは老エヴァンゲロスであり、エヴァンゲロスの名前は、代々その家の嫡子に引き継がれることになっていた。エヴァンゲロスの名は最も有名なエフェソス市民の名前の一つである。犬先生の言った通り、確かに、羊を生んだからといって殿堂は建たないが、殿堂を生んだ羊飼いの名は、後世まで語り継がれることが確約されていた。


 ならば逆に、殿堂を完膚なきまでに蹂躙したとしても、やはりその者の名は残るのだろうか……、そう、例えばここらで有難がられる『火』によって。ぼんやりとヘロストラトスは考えた。宴の中へロストラトスは、傍から見ればいかにも酔い心地で、他愛もない会話に相槌を打っているだけのような態だったが、頭の芯はさらに覚醒してきていた。思いつきは徐徐にはっきりと意識され、宴がたけなわになっていくのに合わせて先鋭化され、意志にまで醸成された。


 宴も終わり、へロストラトスは別れの挨拶をするため、メデューサの頭髪の蛇のうちの2匹のように贔屓の遊女と絡み合っている、エヴァンゲロスに近づいて告げた。


「やはり、求めるしかないようだ……君の言う『火』にね」


 遊女をそっちのけにし、満足げにエヴァンゲロスは抱擁を求めてきた。

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