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 紀元前356年7月某日、後にギリシアを制覇し、ペルシアの王を倒し、エジプトではファラオと呼ばれ、遠くインドまで遠征したマケドニアの大王が、産声をあげたとされる夜の出来事であった。


 この、来たるべきヘレニズム世界の覇王の誕生という一大事に、オリュンポスの神々も、ギリシア世界では辺境であるマケドニアの地に気を取られていたのだろうか。エーゲ海東岸の諸都市国家一帯を小アジアといったが、その中で最も繁栄していた都市国家ポリスの一つであるエフェソスにも、この夜はどこか不穏な空気が充溢していた。あるいはホメロスが語った、木馬を引き入れてしまったトロイアの破滅の夜も、このような夜であったのかもしれない。


 小アジア一帯、殊にエフェソスでは、古くから人々は狩りと豊饒の女神アルテミスを信仰してきた。言い伝えでは、お告げを受けた漁師が浜辺で魚を焼いていると、焼けた魚が草むらに飛び込み、驚いた猪が走り出て、たどり着いた場所にアルテミスに捧げる神殿が建てられた、とされる。


 “エフェソスのアルテミス神殿は、神々のただひとつの家である。ひと目見れば、ここがただの場所ではないとわかるだろう。ここでは、不死なる神の天上世界が地上に置かれているのである。巨人たち、すなわちアロエウスの子らは、天に昇ろうとして山々を積み上げ、神殿ではなくオリュンポスを築いたのだから”

 フィロン 6章1節


 アルテミス神殿は、開びゃく以来数度建て替えられてきていたが、この紀元前4世紀中葉頃に作られた社は、クノスの建築家ヘルシフロンとその子らによって完成された、その規模と美しさにおいて史上比類なき、後にはアルカイック期と称される時代の神殿建築の一大傑作として、エーゲ海中にその名を轟かせていた。


 古代ギリシアにおいて神殿は、単に儀式の執行場所、あるいは神体の礼拝所として、宗教的な役割を担っているだけではなかった。人々の神々に対する畏敬の念は、時に最高のセキュリティになり得た。どんな権力の軍勢でも、そうやすやすと神域を侵すことは出来なかった。


 庶民は、戦乱の度にその神の威光にすがって生命、財産の庇護を求めたし、たとえ軍神のごとき将軍でさえも、遠征の際は保険として、道々の神殿に戦利品を預けながら進軍した。このように神殿には、倉庫や金庫としての役割もあり、さらには、預かった金品を貸し出して利を得る機能さえもあった。

 

 人々の生活に欠かせないポリスの中心施設としての神殿、当然そこに至るための通路は都市の幹線路であった。港湾都市エフェソスでも、アルテミス神殿へと通ずる道はいくつかあったが、西おもての港湾から市街地南側の山の手を抜け、北上してピオンの丘を迂回しながら神殿に至る環状路は、エフェソス独特の暦である冬の終わりを告げるアルテミス月に、パレードが行われる目抜き通りの一本であった。

 

 特に神殿に近づいてからの1キロメートル弱の参道部分は、道の両側に柱が建ち並び、石畳が規則的に敷き詰められ、入口には大理石でできた白亜の門が輝いていた。

 

 所在無く、どこか落ち着かないこの夜に、暗闇の中、白亜の輝きも確認できない参道の門前に立ち、参道の先にそびえるであろう神殿の方向を見据えている男がいた。体型に良く馴染んだ、キトンと呼ばれる動きやすそうな貫頭衣をすっぽり被り、両の肩口を飾りの入った金属性の鋲で留めている。時おり月明かりを受けて鋲が光った。


 こんな時間までギムナシウム(注:古代ギリシアの体育施設)で汗を流していたのか、運動後に体に馴染ませる香油を持ち運ぶためのアリュバロスという小壺を、注ぎ口を皮紐でくくり、左手首に絡ませて提げていた。汗で滑るのであろうか、先ほどからしきりに、左手首の革紐を手繰り直すしぐさをくり返している。


 この時の男の顔を明かりのもとつぶさに観察したなら、夏だというのに蒼白で、ひどく憂鬱な表情からは神経質そうな内面がうかがわれたことだろう。男は暗闇の中なのに目を細め、眉間に皺を寄せていた。


――もう覚悟を決めたのだ――


 これからわが身に起こるであろう運命を思うと同時に、男は自分の陰茎の大きさが、情けないほどに最小の値を示しているであろうことを感じた。大事の前はいつもこうである。けっして縮み上がっているからではない。男の全神経が、目の前のなすべきことに極限までに集中している証左であった。


 後代までも名を残すような大事を成す、それも凶事を――男の頭の中を狂気にも似た企てが占めていた。このエフェソス市民の名をヘロストラトスといった。彼はこの夜、アルテミス神殿への放火を企てていた。

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