例えばシンデレラの継姉がかぐや姫を読んだような話
「エレナー!」
屋敷中に響き渡る声でアマンダは叫んだ。
「はい!ただいま!」
元気に駆けていくエレナをハンナは横目で眺める。
(あの子も大変ねえ)
このウィルズ家の屋敷に住むのはアマンダとその三人の娘たちだ。アマンダは5年前に再婚で二人の子どもを連れてやってきた。それが長女のナタリーと次女のハンナ。そして2年前に亡くなったアマンダの夫と前妻の娘がエレナだ。
エレナは子供の頃から端正な顔立ちをしていたが、それを妬んだアマンダによって、屋敷の掃除ばかりさせられてすっかり煤だらけの娘になっていた。
ところが当のエレナは掃除が好きらしく、煤にまみれながらも生き生きと生活していた。
「私、図書館に行ってくる」
ハンナは立ち上がり、執務室に篭っている姉のナタリーに声をかける。
「また?少しはこっちを手伝おうとか思わないの?」
ナタリーはこの家の財産管理を一手に引き受けていて、いつも帳簿と睨めっこをしている。
「だって、お姉ちゃん間違えるとブチキレるじゃん。帰りになんか甘いもの買ってくるよ」
そう言ってヒラヒラと手を振りながら、ハンナは執務室を後にした。
(うーん、今日は何の本を読もうかな)
ハンナが好きなのは異国の物語だ。最近は東洋のものにハマっていて、あらかた読み尽くしてしまった。
(これは随分古そうなんだよね。表紙削れてるし…)
あまりに古そうで今まで忌避していた本を手に取り、ハンナはしばらく考えたが、読むことに決めた。
30分後、「これだー!」と大声で叫んだせいでハンナは図書館を追い出されたのだった。
***
「お母さん!お姉ちゃん!一稼ぎしよう!」
バタンと大きな音でドアを開けてただいまもなしにそう告げたハンナに二人は呆れた顔をする。
「なんです、騒々しい」
「外から帰ったらまず手を洗いなさい」
ナタリーのお説教の気配を感じたのでハンナは大人しく手を洗ってから今度は静かに部屋に入り、優雅にソファに腰掛けた。
「エレナを使って一儲けするのよ」
突然のハンナの言葉に二人は目を瞬かせた。
「ちょっと、さすがに人身売買は…」
「真っ先にその発想が出てくるお姉ちゃんちょっと怖いよ」
ハンナは実の姉にちょっと引いた。
「他所に奉公に出させるのかしら?賛成よ」
「それも違う」
アマンダの相変わらずエレナを嫌っている様子にこの作戦が上手くいくのかハンナは心配になった。
「あのね、図書館で異国の物語を読んだの。美しい庶民の女性の噂を聞きつけた貴族たちが次々に求婚しに来るの。でも、その女性は貴族たちに自分が望んだ物を持ってきた人と結婚するっていうのよ。それで貴族たちはあの手この手で宝を手に入れて持ってこようとする…まあ、他にも王様に求婚されたり色々あるんだけど省略するね。要するに、美人と結婚するためなら男は金品を差し出すってことよ!」
アマンダが眉を吊り上げた。
「それが、あの煤まみれのエレナと何の関係があるのかしら?」
「煤さえ落とせばあの子は国一番の美人よ」
ハンナの率直な物言いにナタリーはアマンダが噴火するのではないかとハラハラする。
「それは分からないわよ。私たちは国中の女性なんて見たことないんだし」
「でも少なくとも去年の舞踏会でエレナより綺麗な顔の子はいなかったよ」
それについては同意見だったので、ナタリーは言葉を詰まらせた。
「お姉ちゃん、最近はうちの家計厳しいんでしょ?お母さんだって昔みたいに新しいドレス着たいでしょ?エレナだって、国中からいい男が集まって結婚相手選べるんだからWin-Winじゃん」
ハンナの言葉にナタリーとアマンダは考え込む。
(確かに、もうお父様の残してくれた遺産もだいぶ少なくなってるし、これ以上使用人の数は減らせないし、ハンナとエレナの結婚資金も捻出しなきゃいけない。お金は欲しい)
(そうね。最近は古いドレスの使い回しで、社交界に顔を出す気も失せていたもの)
「分かった。お母さんがいいなら私は賛成よ」
「好きになさい。あの子に掃除をさせるのはやめてあげるわ」
ツンと顎を上げて傲慢に告げる母に苦笑しながらハンナはガッツポーズをした。
***
「っていう物語をね、我が家で再現しようと思うの」
「ハンナがその綺麗な女の人役?」
エレナに計画の話をすると、コテンと首を傾げて明後日なことを言い出した。
「なわけないでしょ。この家で美人って言葉に当てはまるのはエレナだけだよ」
「え?!私は無理だよ!可愛くないし…」
「あんたの不幸なところはその顔面を正しく評価する審美眼を持ち合わせて無いところだね」
エレナは割と本気で自分は可愛くないと思い込んでいる子だった。
「ハンナってたまに喋り方が大仰だよね。本読む人ってみんなそうなの?」
「話がズレた!とにかく、今からお風呂入るよ!」
ハンナはそう言うとエレナをズルズルと浴室へ引きずっていく。
エレナとハンナは意外と仲がいい。ハンナはかなりドライな性格なので、エレナが掃除ばかりさせられていることに口は出さなかったが、積極的にエレナを虐めようとも思わなかった。食事も忘れて掃除に没頭するエレナに食事を持って行ったり、街で買ったおやつを持っていったりして休憩ついでに食べさせるのは、誰に命じられたわけでも無いが自分の役目だとハンナは思っていた。
「ええ!いいよ自分でできるよ」
「いいから!全身ピカピカに磨いてやるわよー」
「キャハハハハッ」
家中にエレナの悲鳴が響き渡る。
「楽しそうねえ…」
執務室で帳簿を睨んでいたナタリーは、凝り固まった肩をほぐしながら苦笑した。
一時間後、煤と垢をすっかり落とされたエレナは輝かんばかりの美しい少女になっていた。
サラサラの蜂蜜色の髪は高級シャンプーによってほんのりと甘い香りを纏い、煤を落とした肌は陶器のように白く艶めいている。
「こ、これは予想以上だ…」
ハンナはポカンと口を開ける。
「なんか落ち着かないよ」
ナタリーのドレスを着せられたエレナはソワソワと体を動かす。
「こんなのまだ序の口。これから徹底的に高嶺の花になってもらうからね」
「へ?」
展開についていけないエレナは目を白黒させた。
次の日から、エレナを誰もが憧れる高嶺の花にするための計画が始まった。
まず、上品な所作と礼儀作法、一般的な教養をナタリーが教える。
そしてアマンダのお下がりのドレスを流行を調べ尽くしたハンナが今風かつエレナに似合うようにリメイク。さらに町中の美容グッズを買い漁り、エレナを磨き続けた。
最後に、これは予想外のことだったのだが、アマンダがエレナにダンスを教えた。アマンダはダンスの名手だったのでエレナはめきめきと上達していった。
この国では社交界シーズンの幕開けに3日間王宮で舞踏会が開かれる。そこでエレナをお披露目し、国中の噂の的にするのが、ハンナの作戦だ。
そのために、社交シーズンの一ヶ月前から『ウィルズ家の末の娘は国一番の美少女だ』という噂を流した。ウィルズ家は大した影響力のない家柄だが、幸いにもハンナは侯爵家の令嬢と仲が良かったので、噂はあっという間に国中の貴族に伝わった。
「ウィルズ夫人とナタリー嬢、ハンナ嬢!」
そして舞踏会当日、会場に現れたのは夫人と上の娘二人だけだった。
『あら?末の子は?』『なんだよ、期待してたのにあのパッとしない令嬢たちだけかよ』『本当は大したことないから逃げたのよ』
人々はチラリとウィルズ家の三人を見ながら囁く。
「ちょっと、ハンナ。貴女が言ってた天使のようなエレナはどこに行ったのよ」
グイッとハンナの腕を引いたのは、噂を流すのに一役買ってくれた侯爵家の娘ビビアンである。
「まあまあ、ちょっと待ってて。主役は遅れてやってくるんだから」
王家主催の舞踏会で自分の妹を主役と宣う図々しさにビビアンは呆れつつも、ハンナがそこまで言うのだからと期待を膨らませた。
そして、舞踏会も中盤に差し掛かり、人々が中弛み始めた頃、一人の天使が会場に降り立った。
艶やかな蜂蜜色の髪をを際立たせる淡い水色のドレスを身に纏い、立ち姿は気品に溢れている。瞬きをすれば長いまつ毛に縁取られた翡翠の瞳に人々は釘付けになり、歩けばその軽やかな足取りに翼が生えているのかと錯覚する。
その天使がフワリと微笑みを浮かべてハンナに近づいた。ハンナは主張しすぎない笑みを顔に乗せて、ゆっくりと口を開く。
「ビビアン様、紹介しますね。こちらが私の妹のエレナです」
エレナは妖精が踊るように優雅なカーテシーを披露した。
「エレナ・ロウ・ウィルズです。どうぞよろしくお願いします」
この瞬間、エレナは今シーズンの注目の的になった。
***
「ワッハッハ、豊作豊作!」
「ちょっと、下品よ」
大口を開けて笑うハンナをナタリーは注意したが、そのナタリーの口元にも笑みが浮かんでいた。
ウィルズの居間には大量の花束とプレゼントの箱が積み上がっていた。
「すごいわね。有名デザイナーのドレスに最高級の宝飾品まで…気に入ったものがあったら、明日の舞踏会に付けていったら?」
「このお菓子、すごく美味しいです!」
エレナはどうも花より団子らしい。
「子爵に伯爵、うわ、侯爵家からも手紙来てる」
届いた手紙を確認していたハンナは目を丸くする。
「舞踏会で踊ったのは数人だけだったのに」
エレナは首を傾げる。
「それだけエレナが美しかったってことよ」
ナタリーは昨晩のエレナの美しさを思い出してうっとりとしながら言う。
「でも、王子が最初の挨拶で帰っちゃって残念。殿下と踊れば話題性抜群だったのに」
ハンナの不遜な言葉にエレナはかぶりを振った。
「殿下と踊るなんて無理だよ。足を踏んだら打首にされちゃう」
「そんな訳ないでしょ」
ナタリーは苦笑した。
「まあ、無理に身分の高い人ばかりと踊れとは言わないけど、誰とでもホイホイ踊っちゃダメだよ。高嶺の花感出した方が男共は躍起になる」
ハンナに言われた通り、エレナは2日目は3人、3日目は2人だけと踊った。
ハンナの目論見通り、男性陣はエレナに振り向いてもらおうと奮起し、ウィルズ家にはプレゼントと招待状が山のように届いた。その中からエレナの希望を聞きつつハンナが厳選したパーティに参加したエレナの美しさは国中の話題になり、ついに社交シーズンの終わりのパーティでは王子と踊った。
「いやー、女は見られると綺麗になるって本当だね。エレナ前にも増して美人になった」
この社交シーズンでがっぽり稼いだハンナはご機嫌である。
「こんなに安心して冬を迎えられるのは何年振りかしら…エレナのおかげね」
ナタリーも嬉しそうに微笑む。
「ううん、みんなが色々してくれたからだよ」
かつての煤まみれの姿が想像できないほど美しい姿でエレナは嬉しそうに答えた。
三人がのんびりとお茶をしていると玄関の呼び鈴が鳴り、慌てた様子で執事が部屋に入ってきた。
「お、王宮からお客さまです」
三人は顔を見合わせる。
王宮からの使者は王子からの手紙を届けるために来たらしい。宛名はもちろんエレナだ。
「殿下が、この屋敷に来るって…」
「えええ!」
震える手で手紙を読んだエレナの言葉にハンナが目を丸くする。
「返事かかなきゃ!いつにする?!明日?!」
「落ち着いて。殿下をお迎えするならそれなりの準備をしないと…」
ナタリーがエレナの方を見るとエレナは顔を青くしている。
「どうしたの?顔が真っ青よ」
「なんでも、ないの…私…」
ただならぬエレナの様子にハンナは原因は手紙だろうと思った。
「これ、読んでいい?」
エレナは頷いて手紙を渡し、二人は手紙に目を通したがおかしなところは何もない。『ゆっくり話がしたいから家を訪問してもいいか』という趣旨の手紙だった。
「とにかくお断りするのは失礼だから、お母さんが風邪ということにして、訪問日時を先延ばしにしましょう」
ナタリーの言葉に2人は頷いた。
使者が帰った後、ハンナが入れたハーブティーを飲んだエレナは少し落ち着いた。
「何があったか話してくれる?」
ナタリーが優しくエレナに問うがエレナは黙ってかぶりを振った。
「もしかして、舞踏会で足を踏んだ?それで怒りにくるとけ思ってるの?」
ハンナの言葉にもエレナは首を振る。ナタリーとハンナは困り果てて顔を見合わせた。
「好きな男でもできたんでしょう?」
突然室内にアマンダが入ってきたので三人は飛び上がって驚いた。アマンダはエレナがあまりに貴族たちから誉めそやされるのが気に入らず、ずっと部屋に閉じこもっていたからである。
「お母さん…どこから聞いてました?」
「執事から事のあらましは全て聞きました」
アマンダは真っ直ぐエレナを見つめた。
「殿下からの好意が困るということはそういうことでしょう。話してみなさい」
エレナは恐る恐る口を開く。
エレナの話によると相手は貴族でもなく一般庶民らしい。家に届いたプレゼントの中でエレナが一番喜んでいたのはお菓子だった。そのことを耳にした貴族の一人はエレナの好きな菓子屋の職人を邸宅に招き、出来立てのお菓子をエレナに振る舞った。その時に偶然エレナは菓子職人のダイスに会ったらしい。
「実はね、まだ私が掃除ばかりしていた頃にダイスに会ったことがあるの。彼鍋を焦がして親方に怒られて困ってて、その時私がお鍋を綺麗にしてあげたの」
ダイスはその時のことを覚えていたらしく、貴族の屋敷で偶然会った時に『あの時の鍋の人ですか?』とエレナに尋ねた。
「私、それが嬉しくて。見た目が変わったら知らない人が急に優しくなって、それが少し怖くて…だから、本当の私の姿を知ってて話しかけてくれる人がいて救われたの」
エレナの言葉にハンナは少し反省した。エレナをそんな状況に追い込んだのはハンナだからだ。
それからエレナはわざと煤まみれになってダイスに合うようになり、2人の間には恋が芽生えたらしい。
「彼は修行が終わったら国に帰るんだって。だから、私も今年の社交シーズンで頑張って育ててくれた皆に恩返しが出来たら、ダイスについて行こうと思ってたの」
そこまで言ってエレナは言葉を詰まらせた。
「でも、自惚れかもしれないけど、王子様に結婚を申し込まれて行方をくらませたりしたら、皆に迷惑がかかっちゃう」
たしかに、そうなるとウィルズ家は大ダメージを負う。もしかしたら、罪人として捕らえられてしまうかもしれない。
ナタリーとハンナが言葉に困っていると、アマンダがピシャリと言い放った。
「お前は本当に馬鹿ね。他の人に気持ちがあるのに殿下のところに嫁ぐ方が失礼に決まってるでしょう。愛を押し通す気概を見せなさい」
おおーとハンナは拍手をする。
(そういえば、お母さんは結構恋愛主義だったんだっけ。エレナのお父様と再婚した時もお母さんの方がベタ惚れだったような…)
アマンダのエレナへの当たりが強かったのは、エレナの父がいつまでも前妻を想っていることに嫉妬していたせいでもあったのだ。
「そうね。この家のために頑張ってくれたエレナが好きな人を諦める必要なんてないわ」
ナタリーがエレナの手をとって優しく言った。
「エレナがここまで注目されるように仕向けたのは私だから、責任持って私が何とかしてみせるよ」
ハンナは決意を固めた。
***
翌日の昼下がり、ハンナはエレナの両親が眠る墓に来ていた。
「エレナのお父様、お母様。エレナに迷惑をかけたのは本当に反省しています。だからどうか私に知恵をお授け下さい…」
一晩考えても全く良い考えが浮かばなかったので、とりあえず祈ってみようと思った訳である。
『悩める少女よ。私が力を貸しましょう』
突然頭に声が響いてきて、ハンナは顔を上げて辺りを見回すが、周りには何もいない。
「え、幽霊…?」
『こちらです。墓標の右側を見なさい』
そう言われて視線を下に落としたハンナは驚いて叫ぶ。
「なんかちっさいオッサンいる!」
墓標の横にいたのは、5インチほどの背丈のシルクハットに背広姿で立派なカイゼル髭を蓄えた紳士だった。
『オッサンって…君、貴族の令嬢だよね?』
「うわー、口動かしてるのになんか頭に声が響いてくる!怖い」
『私の声量じゃ君の耳に届かないからね。ほら、ちょっと君の手のひらに乗せてみなさい』
パニックになったハンナはとりあえず紳士を掌の上に乗せた。
「初めまして。私は困っている良い子の願いを叶えるための妖精だ。君を助けるために現れたんだよ」
今度は小さいながらもちゃんと紳士の声がハンナの鼓膜を揺らした。
「は、はあ。ハンナです」
紳士がしっかりとシルクハットを脱いで挨拶してくれたのでとりあえずハンナも名乗る。
「あの、私を助けるって私あんまり良い子じゃないと思うんですけど」
姉の手伝いもせずフラフラして、美人の義妹をダシに国中の男性からプレゼントを集めて稼ごうとした上に、その義妹に迷惑をかけている最中である。
「それはそうだね」
紳士はアッサリと頷いた。
「君が本当に心清らかなら娘だったら私ではなくもっと力の強い妖精が出てきたはずだ。私にはカボチャの馬車もガラスの靴も用意できないからね」
「靴擦れしそうなのでそんなもの要りませんけど」
ハンナの言葉にも紳士は「ロマンがないなあ」と肩をすくめた。
「でも簡単な魔法なら使える。さて、君は私に何を望む?」
紳士はステッキをくるりと回してハンナの鼻先をつついた。
「うーん…王子の記憶消せます?」
「そういう薬は作れるけど、飲ませるのは君の仕事になるねえ」
(無理だ…!)
そんなことしたら暗殺未遂容疑で処刑待ったなしである。目をつぶって眉間を揉みほぐしながらハンナは頭を悩ませた。
(っていうかこの人本当に妖精なのかなあ。妖精って墓場に現れる?普通花の妖精とか月の妖精とかそういう…そういえば、あの本に出てきた美女は月から来たんだっけ)
「あっ」
ひとつ思いついたハンナが目を開けると目の前には翡翠の羽を持った小さな女の子の妖精がふわふわ踊っていた。
「そうそう!妖精ってこういうイメージ」
「君が失礼な事を考えていたから幻を作ってみたんだよ」
紳士がフンと鼻を鳴らして言う。
「幻?」
ハンナが妖精を触ろうとすると、ハンナの指は妖精の体を通り抜けてしまった。
「実体があるものを作れるのは相当力の強い妖精だけだからね。だがまあこの程度の幻なら造作もない」
「ってことは、もっと大きい幻も作れますか?自在に動かしたりは?」
ハンナの質問に紳士は胸を張って答えた。
「もちろんできるとも」
ハンナは目を輝かせた。
「妖精様!どうか私に力を貸して下さい!」
***
この国の王子であるセドリックは優秀で聡明だともっぱらの評判である。
だから、このような質問をすることは珍しい。
「これはどのような意味だろうか?」
王子の側近であるアルバートは困り顔で答える。
「恐らくそのままの意味かと」
王子を困惑させていたのはウィルズ家から届いた手紙である。
「『エレナ・ロウ・ウィルズは月からやってきた妖精だったので、月へ帰ることになりました』ってそんな馬鹿な…」
「あの、セドリック様は訪問の理由をちゃんとご説明なさりましたか?もしかしたら何か勘違いをなさっているのではないでしょうか」
「まだ決定したわけでもないのに、手紙に書けるわけないだろう。それに何をどう勘違いしたら月に帰るなんてデタラメを言い出す気になるんだ」
セドリックはため息をつく。
「それが、全くの嘘というわけでもなさそうですよ。エレナ殿が月の妖精に攫われると言ってウィルズ家では大勢の護衛を雇っているそうです。それに、エレナ殿に熱を上げている貴族も有志で騎士を派遣しているとか」
アルバートの言葉にセドリックは目を丸くした。
「正気か?」
「妖精と会ったことのある者は多いですから。しかし、そこまでするということは、エレナ殿が月から来たという確固たる根拠をウィルズ家にはあるのではないでしょうか」
セドリックはしばらく考え込む。
手紙には次の満月にエレナは月に帰ると書いてあった。
「次の満月はいつだ?」
そして、満月の夜。セドリックは数人の護衛のみを伴ってこっそりとウィルズ家へ向かった。
アルバートが言っていた通り、ウィルズ家の周りには大勢の護衛が配備されている。その護衛たちがにわかに騒がしくなったと思ったら、屋敷のバルコニーにエレナが現れた。
薄い布を重ねた不思議なドレスを身に纏ったエレナは哀しげに月を見つめる。その視線につられて人々が月を見上げると、月がぼんやりと揺らめいて次々と人影が見え始める。
「おい!空から人が降りてくるぞ!」
空から舞い降りてきたのはエレナが着ているドレスに良く似た服を纏った女性たちで、どの女性も美しかったが表情がなく、とても冷たい目をしていた。
(あれが、月の妖精なのか?)
セドリックはポカンと口を開けた。
「さあ、姫。帰りましょう。ここは貴女がいて良い世界ではありません」
先頭の女性はバルコニーの高さまで降りてくるとエレナに向かってそう言った。
「待って。帰る前にお母様たちに挨拶をさせて」
エレナがそう言うとバルコニーにウィルズ夫人と娘たちが現れる。
「まさか、本当に貴女が人間では無かったなんて。行ってしまうのですね」
夫人の言葉にエレナは頷いた。
「お母様、お姉様方、今までありがとう。きっと元気で暮らしてね」
エレナの言葉に娘二人が泣き出した。
「さあ、行きましょう」
月の妖精がエレナの手を掴む。
「待て!エレナは私のものだ!」
バルコニーの下で侯爵家の子息が叫ぶ。
「弓兵隊!矢を放て!」
子息の号令に合わせて一斉に矢が放たれ、ウィルズ夫人たちは慌てて家の中に逃げ込む。しかし、肝心の月の妖精には一切当たっていない。
「みなさん、さようなら」
ふんわりと夜空に浮かび上がったエレナは哀しげに微笑むと、一度も地上を振り返ることなく空に登って行ってしまった。
***
屋敷の中でハンナとナタリーは腰を抜かして座り込んでいた。
「まさか、矢を放ってくるなんて」
「だから、護衛まで雇う必要ないって言ったじゃない!」
「目撃者は多い方がいいかと思って…」
二人の様子を見たアマンダは呆れたように口を開く。
「もう私の役割は終わりでいいですね?」
「あ、はい。お母さん、協力してくれてありがとう」
アマンダはくるりと踵を返すとスタスタと歩き出してしまう。
「ありゃー、これはご機嫌取りに新しいドレスでも注文した方がいいかな」
ハンナの言葉にナタリーは微笑んでかぶりを振る。
「大丈夫だと思うわ。お母さん少し笑ってたもの」
ハンナは目を丸くしてから吹き出した。
「ところでお嬢さん方。私の仕事はこれでおしまいでいいのかな?」
二人の足元にテクテクと小さな紳士が歩いてくる。
「ありがとうございました!妖精様」
エレナが月に帰ったことにするという突拍子もない案を実現させた立役者に二人は頭を下げた。
「まあ、私もかなり楽しめたからね。困ったらまた真剣に祈ってみるといい…ナタリー嬢の元には私より力の強い妖精が現れると思うよ」
「え、それって…」
ナタリーが聞き返した時には妖精は消えてしまっていた。
「最後のどう言う意味だろう」
「単に私よりナタリーの方がいい子って意味じゃない?」
ハンナは拗ねて口を尖らせた。クスリとナタリーは笑う。
「一番いい子なのはエレナよ」
今朝早くにエレナは想い人と一緒に彼の母国へと旅立って行った。
(あの幸せそうな顔は一生忘れないだろうな…)
ハンナがそんな事を考えていると執事が真っ青な顔をして部屋に駆け込んできた。
「大変です!で、殿下が、セドリック殿下がおいでになられました!」
「「ええ?!」」
ハンナの計画ではこの騒ぎが殿下に伝わって、手紙の内容は嘘じゃないと思わせる予定だったのだが、王子は実際にウィルズ家までやってきてしまったらしい。
「大変な時に申し訳ない。護衛の一人が月の妖精に驚いて腰を抜かしたついでに、ぬかるみに足を取られて顔から転んでしまったんだ…」
間抜けな護衛がいたものである。
鼻血を出して気絶している護衛の手当てをしながら笑いそうになったハンナをナタリーが肘で突いて諌める。
「セドリック殿下、ご覧になったかもしれませんがエレナはもう…」
アマンダは沈痛な面持ちでセドリックにそう告げる。
(お母さん、女優になれるよ)
ハンナは変なところで感心してしまった。
「ああ、見ていた。娘が遠くに行ってしまって夫人もさぞお辛いでしょう。彼女は気品も教養もあって、ダンスも上手くて本当にご立派な令嬢だった」
セドリックの言葉にアマンダは「勿体無いお言葉です」と頭を下げる。
「実は、エレナ嬢にお会いしたかったのもその気品を高く買わせてもらったからなんだ」
(そんな露骨にエレナばっかり褒めたらお母さんの機嫌が…)
ハンナの心配は的中しているらしく、アマンダは口元に微笑みを浮かべているが凶悪なオーラが見え隠れし始めている。
「知っているとは思うが、私には妹がいて」
「へ?」
思わず声が出てしまったハンナは慌てて口を押さえる。幸い、セドリックには聞こえていないらしい。
「妹は元気な、本当に元気な子で…それは悪いことではないのだが、元気すぎて一国の王女としての気品が育たなくて困っているんだ」
ガバッとセドリックは勢いよく頭を下げる。
「どうかエレナ嬢の家庭教師を紹介して貰えないだろうか?あそこまで立派な令嬢を育て上げられた一流の教師なら妹もなんとかなるはずだ!」
ウィルズ家の三人は顔を見合わせた。
「礼儀作法と教養は私が…」
「ダンスは私が教えました」
恐る恐るナタリーが手を上げ、アマンダがそれに続く。
(私は何も教えてません!)
もちろん声には出せないので、ハンナは笑って誤魔化した。
***
「いらっしゃいませ!」
とある国、とある町の菓子屋には今日も大勢の客が詰めかけていた。その店は、異国で修行をしてきた腕のいい店主の作る菓子と可愛らしい看板娘が有名だった。
「エレナちゃん、貴女の母国の王子様が結婚するらしいわよ」
「え、そうなんですか!」
エレナと呼ばれた看板娘は目を丸くする。
「ほら、これ」
客がエレナに見せた新聞には『セドリック王子結婚!相手は王女の家庭教師』と書いてある。
「王宮にお仕えして、そのまま結婚なんでロマンチックよね〜」
別の客も話に入ってきた。
「でも、この相手の女の人そんなに綺麗じゃないって噂よ」
話を聞きながら新聞を読んでいたエレナは王子妃の名前を見た瞬間、「あっ!」と小さく声を上げた。
「ええ、じゃあどうして見初められたのかしら?」
不満げな女性客にエレナは笑って答えた。
「きっと、しっかり者で気品あふれる方だったからですよ。あと不可能を可能にする面白い妹がいたのかも」
お客たちはエレナの答えに顔を見合わせる。
エレナは微笑みながら新聞を見つめる。ふと、下の方の広告に目が行った。
『異国にて大人気のハウツー本を完全翻訳!
【最速でできる淑女の磨き方 ハンナ・ウィルズ著】』
ゴホッとエレナは吹き出した。
「エレナー!焼き上がった菓子取りに来てくれ」
「はあい!ただいま」
笑いを抑えられないままエレナは厨房へ向かう。
これからの未来にも、きっとたくさんの幸せが訪れるだろうという予感を抱いて。
「めでたしめでたし」とエレナを見守っていたが、ついに出番のなかった妖精のお婆さんは苦笑しながら呟いた。




