フィリプの求婚
「…まどろっこしい言い方がよくありませんね。僕の妻になりませんか」
ディアナは、きれいな奥様に《ディアナ、ちょっと手伝って》と呼ばれて《はーい》と返事をする自分まで妄想していたので、《僕の妻になりませんか》ということばの意味がとっさにはわからなかった。
いや、仮に妄想していなくとも、わからなかっただろう。
《妻》ってなに? 《妻》ってあの妻? ペトラーチェク様の、妻?
とっさにはわからなかったし、考えてもわからなかった。
結果、聞き間違えたに違いないと思い、ディアナは少しの間沈黙したのをごまかすように微笑んで、首をかしげる。
「ごめんなさい、ペトラーチェク様。私、聞き間違えたみたいで。もう一度、おっしゃっていただけませんか?」
フィリプは、ええ、とうなずいて、微笑む。
「僕の妻になりませんか」
まったくわからない。ディアナの混乱は収まらない。
「ええっと、あの、つま…? すみません、私、ものを知らなくて…。妻、ってもしかして、別の意味があるのでしょうか?」
ディアナは恥を忍んで尋ねるけれど、フィリプは首をかしげて笑った。
「いいえ、おそらく、あなたがご存じの意味と、僕が言っている《妻》の意味は一緒でしょうね。僕と結婚しませんか、ディアナさん」
絶句した。
ディアナは、フィリプの真意を探ろうと彼の瞳をじっと見つめるけれど、商売人の真意などただの未亡人に見抜けるわけがない。根競べのように互いに見つめあう。
意外にも、先に根負けしたのはフィリプのほうだった。
フィリプは視線をそらして、テーブルに置いてあった書類の数字を再び示す。
「もしディアナさんが僕と結婚すると、この場で、答えてくだされば、グスタフさんにお貸ししたお金についてはなかったことにしましょう。失礼ですが、そうやすやすと払える額ではないでしょう?」
フィリプの提案はディアナにとって、非常に魅力的だった。
ただでさえ生活していく術がない上に、借金を返すとなると仕事を選んでいられない。かといって、娼婦になるほどの覚悟はさすがに持っていなかった。
そこにフィリプの提案は、非常に魅力的である。魅力的過ぎて、怪しいほどに。
フィリプの胡散臭い微笑みがより一層胡散臭く見えた。
「…私にとっては、とてもありがたいお話ですけれど、ペトラーチェク様は、どうしてそんなことをおっしゃるんです? ペトラーチェク様にはなんの益も、ないように思いますけど」
怪しむあまり、ストレートな物言いになりすぎた、と少し悔やむ。しかし、言ってしまったものは仕方がない。
ディアナはフィリプのどんな些細な表情の変化も見逃すまいとして、じっと彼の顔を見つめる。
フィリプは、そんなディアナと視線を合わせて、子犬のように満面の笑みを作った。
「あなたのことが好きだからです、ディアナさん」
あまりに突拍子もない言葉だったために、鼻にしわが寄ったのが自分でもわかるほど、ディアナは怪訝な顔をする。
「冗談はいいですから…」
フィリプとは険悪な仲だとかいうわけではないが、ディアナにとっては夫の取引先にすぎない。
上流階級の殿上人という意味であこがれの人ではあるが、そこに色恋の関係はないし、なによりディアナは既婚者だ。夫を亡くしているといえど、まだ三日目。
そのうえ、ディアナがフィリプを恋愛対象として見ていない。
それ以上に、上流階級に属するフィリプは普段から魅力的な女性を多く見ているだろうに、ディアナを好きになることなどありえない。
言葉にはしなかったものの、嘘をつくなという強い非難の意をこめてフィリプを睨みつける。
少しの間、にらみ合うようにして見つめあうと、フィリプは観念したというように両手を小さく上げて、愉快そうに笑った。
「本音をいうと、僕は早いところ結婚をしなければならない。こういう立場ですから、早く身を固めろという周囲からの圧がね」
それはディアナにも想像できる。跡継ぎを作らなければならない圧力は《時計工房》の工房長とは比べ物にならないほどのものだろう。
ディアナは神妙にうなずいた。
「けれども、僕は、あまり結婚というものに興味がない。適当な相手と適当に結婚しても、その方を大切にする自信も時間もあまりない。
それじゃ、あまりにお相手の女性が可哀そうでしょう?」
フィリプの、眉を寄せた笑みにディアナは曖昧にうなずく。
「実を言うと、僕の両親みたいな結婚をしたくないんです。僕の母は父に恋焦がれているけれど、父は跡継ぎを作るためだけに結婚したので、母を顧みない。
さすがにそれはあんまりじゃありませんか」
フィリプの両親の不仲さは有名な話だった。
《ペトラーチェク商事》のパーティーにしか参加したことのないディアナでさえ聞いたことのある話なのだから、上流階級では相当有名な話なのだろう。
ペトラーチェク夫人は、温泉地スズレルで療養という名目のもと、別居生活を強いられているという。
子爵令嬢だった夫人が押しかけて成立した結婚だったが、《ペトラーチェク商事》の社長は結婚に乗り気ではなかった。貴族との縁を作るため結婚したものの、その後ないがしろにされる娘のために何か言えるほど子爵も力がなかったのである。
噂がどこまで本当なのか、ディアナはあまり興味がなかった。どちらにしろ、ディアナには遠い世界の話だったから。
けれども、当の息子であるフィリプがいうのだからある程度は本当なのだろう。
両親の仲が良い家庭で育ったディアナには、その苦労がわかるとはいいがたい。慰めになるような言葉は思いつかなかった。
ディアナの答えまでいれるつもりだったけど、長くなったので切ります。