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アルブレヒト・ペトラーチェク

「やあ、おはよう、ディアナ」


 グランドホテルのディアナの部屋に、朗らかな挨拶とともに1人の男性が入ってきた。


 ディアナは、丁寧に礼をして出迎える。


「おはようございます、アルブレヒト様。

結婚のご挨拶が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます」


 ソファに座ったアルブレヒトは、構わないよ、と軽く手を振った。


「それに関しては君のせいではないからね。

さあ楽にしてくれ」


 促されて、ディアナもソファに腰掛ける。


 昨晩、モニカからアルブレヒトの来訪を聞いて仰天した。

 モニカによると、ディアナが外出中だと聞くとそれならまた明日の午前中のうちに来ると言って帰っていったとのことだった。

 その予告通り、アルブレヒトはやってきた。


 パーティーやらで挨拶を交わしたことはあるが、結婚以来初めての対面だった。


 挨拶をしたいとディアナが言っても会えなかった相手。

 用件の検討はおおよそついている。


 フィリプと別れろ、ということだろう。


 ここ数日の精神的な忙しなさに加えて、今日のこのアルブレヒトの来訪にディアナは白目をむきそうだった。

 

「息子から君のことはよく聞いているよ。

こちらの方面に少し用事があったんだが、君がフィリプと離れてこちらにきていると聞いて寄ってみることにした。

迷惑だったかな?」


 ディアナは、とんでもない、と首を横に振った。

 

 アルブレヒトは、流石親子だけあってフィリプとよく似ていた。

 フィリプと同じ、ふわふわした髪に、男性にしては若干小柄で、犬のような雰囲気の顔立ち。

 話ぶりは、飄々としていて、つかみどころがなく、若干胡散臭い。

 けれども、年を重ねているせいか、それとも本人の性格なのか、顔は笑顔でも目の奥に光がない。

 ディアナはなんとなく蛇を連想した。

 

 手のひらに汗が滲むのを、握りこんだハンカチでそっと誤魔化した。


 モニカがアルブレヒトに紅茶を出したのをきっかけに彼の眼光がより一層鋭くなった気がした。


「悪いが、私もそれほど時間がなくてね。早速本題に入らせてもらう。

息子には再三伝えたんだが、全く聞こうとしない。だから君と話に来たんだ」


 アルブレヒトは懐から一枚の紙とペンを取り出してディアナに見えるようテーブルに置いた。


「そこに好きな数字を書き込んでいい。

代わりに、息子と離婚して王都のあの家にはもう戻らないでくれ」

 

 やはりそうか。

 ディアナは全身から血の気が引くような気がした。

 震える手に力を込めて、ぎゅっと目を瞑ってから、じっとアルブレヒトを見据えた。


「どうしてでしょう、アルブレヒト様」


 答えは分かりきっている。

 ディアナがフィリプに相応しい女じゃないから。

 でもディアナは、はいそうですか、と引き下がれるほど、フィリプに対して何の気持ちもないわけではなくなっていた。


 アルブレヒトは、にこやかな笑顔をほとんど崩さないまま、ふっと鼻で笑った。


「わかっているでしょう」


 ディアナは唇を噛んだ。


「あれは私のことを嫌っているようだが、そうは言っても私は父親だからね。人並みに息子には関心を寄せている。

息子は、子どものころから金に困ったことはない。

私という父に、離れて暮らしてはいたが母親もいた。使用人も十分いた。

寄宿学校のころから誰もがうらやむような学才があった。

大学だって首席で卒業して、いまや王国一の商社で副社長。ゆくゆくは社長の座が約束されたようなものだ。

そんなフィリプにあとひとつ、足りないものがある。わかるかい?」


 優しいトーンではあるが、『わからない』とは言わせない圧迫感があった。

 ディアナは、唾を飲みこむ。


「血筋、でしょうか」


「そうだ。あれの母親は貴族の出身だが、歴史の浅い家系で何の役にも立たなかった」


 アルブレヒトは心底悔しそうに顔を歪めた。

 

 『あれの母親』というのはこの人の妻だろうに、とディアナは思ったが口には出さなかった。


「だからね、ディアナ。

私はフィリプに貴族のお嬢さんと結婚してほしいと思っているんだ。

考えても見てごらん、貴族と結婚すれば、フィリプはこれまでよりずっと政治や経済に影響力が持てる。頭のいいあいつが政治の世界に入っていったら、王国はもっともっと良くなる」


 熱っぽく語るアルブレヒトは、やはりフィリプに似ていた。


「あいつだって商社の仕事だけでなく政治や経済の世界で、人間のためになることがしたいと思っているだろうね。

ディアナだって、それはわかっているだろう?」


 またも、『わからない』とは言えない問いかけ。


 ディアナには、フィリプがどれほどすごい男なのかはよくわかっていない。

 けれども、市庁舎で憲法のことを語ったときや王立大学の図書館で『人間が好きだ』と語ったときを思い出すと、アルブレヒトの言うことに納得せざるを得なかった。


 けれども、ディアナは頷けない。

 頷いてしまったら最後、王都には戻れなくなってしまいそうだから。


「聞くところによると、君は借金のために結婚したらしいじゃないか。

それなら今度は私が金を出す。この小切手じゃなくて、生活していけるだけの金額を毎月送るというのでも構わない」


 アルブレヒトは駄々を捏ねている子供を宥めるような調子で言った。


 ひどい侮辱だ。

 金のために結婚できるなら金のために離婚だってできるだろう、というわけだ。

 怒りたいのにうまく怒れない。

 実際そういう結婚だ。


 離婚して、アルブレヒトの言うような貴族のお嬢さんと再婚する方がきっとフィリプのためになるんだろう。

 その方がフィリプ本人の能力がもっともっと活かせるだろうし、フィリプも、そのお嬢さんも、もしかしたら王国全体も、もっともっと幸せになれるかもしれない。


 ここでディアナがアルブレヒトの言うことに従って、王都に戻らなかったらフィリプはきっと悲しんでくれる。

 とてもとても悲しんでくれるだろう。


 でもそれも、彼の長い長い人生を考えたら、ほんの短い間のことだろう。

 忙しい仕事があり新しい家族がいる生活が始まればディアナのことなどすぐに忘れるに違いない。


 そう思えば、フィリプのことを考えれば、ディアナがここでアルブレヒトの言うことを聞く方がいいのかもしれない。


 生活していけるだけのお金はくれるというし、しばらくそれに甘えてどこかで仕事を見つけて1人で生きていくのもいいのかもしれない。


 でも、本当にそれでいいの?

 グスタフのこともまだ分かっていないのに。

 旦那様と話したいこと、見たいもの、行きたい場所、たくさんあるのに。


 本当にいいの?


 ディアナは、アルブレヒトの置いたペンをいつのまにか握っていた。

 しかし、ディアナは何も言えず、何も動けずにいた。


 判断の遅いディアナに焦れたのか、アルブレヒトははーっとため息をついた。

 ソファにもたれて、足を組み、この部屋に来て初めて笑顔を消した。


「それにしても、あいつは変なところで愚かなところがある。

研究を続けたいと言ったり、結婚相手は自分で決めたいと言ったり…」


 アルブレヒトは目元を手で覆って項垂れた。

 しかしすぐに顔を上げた。一瞬前の項垂れた様子が嘘のように笑顔になっていた。


「まあ、少し考えるといい。

ここには観光に来たんだろう。君には時間がある。明日また来よう」


 立ちあがろうとするアルブレヒトをディアナは止めた。


「アルブレヒト様。愚か、とはどういう意味でしょうか」


 アルブレヒトは片眉を上げた。


「それはなにかな?

言葉の意味を聞いているのか、それとも私の発言の意図を聞いているのかい?」


「後者です、アルブレヒト様。

ご自身でも仰ったように、旦那様は、優秀な方です。素晴らしい方です。

それなのに、愚か、とは一体どういうお考えですか?」


 ディアナはしゃんと背筋を伸ばして対面のアルブレヒトを見据えた。

 長く沈黙していたディアナが喋り出したことでアルブレヒトは多少驚いた様子だった。

 けれども、反対にディアナの意図を探るように顎を上げて見下ろしてきた。


「そのままの意味だよ、ディアナ。

あれはとても優秀だ。賢い。要領もいい。

だからこそ、今はペトラーチェク家と商社のため、ゆくゆくは王国全体の利益のため、人間全体の利益のために尽くすべきだ。

そうすべきだということを本人もよく分かっているだろうに、研究がしたい、だの、好きな女と結婚したい、だの、まったく」


 心の底から呆れているようでアルブレヒトはやれやれと肩をすくめた。


「そんなことは瑣末だ。

フィリプがやるべきは、研究であれば優秀な者がより成果を上げられるように資金援助を計画すること。

結婚であれば、より力を増すために適切な家の娘さんと結婚すること。

それがわからないフィリプではあるまいに、反抗心からわがままを言うふりをして私を困らせてくる。

そういうところを愚かだと言ったんだ。

これで分かったかな?」


 ディアナは首を横に振った。


「アルブレヒト様、私は学がありません。ですから、アルブレヒト様の高尚なお考えはさっぱりわかりません」


 アルブレヒトは、そうかい、と微笑んだだけで何も言わなかった。


 その笑顔も、雰囲気も、フィリプとよく似ている。

 

 だからこそ腹が立つ。


「けれど、旦那様が、いえ、フィリプ様が、フィリプ様自身の幸せを望むことを、私は愚かだとは思いません。

アルブレヒト様の仰り通りにフィリプ様が生きれば、みんな幸せかもしれない。でも、それじゃあフィリプ様はどうなるんですか。

フィリプ様が幸せじゃないのに、人間が幸せだなんて、そんなの、絶対おかしいです。

ほんとうの人間の幸せが誰かの犠牲の上に成り立つなんてこと、絶対にありえない…!」


 ディアナは、顔がほてっているのを感じた。

 体も熱い。目頭も熱い。


 自分の親に自分の幸せを願われないなんて、ディアナは想像したこともなかった。


 フィリプはこれまでどんな思いだったろう。

 2人でダンスを踊った夜に落ち込んでいたフィリプが脳裏に蘇っていた。

 すぐにでも会いに行ってフィリプを抱きしめたかった。


 そんな思いで、アルブレヒトを睨みつけながらことばを放った。


 それなのに、アルブレヒトは、笑顔のまま。


「言いたいことはそれだけかい、ディアナ?」


「まだ、まだありますけど…!」


 思いはあるのにまとまらないディアナが次の言葉を探す間にアルブレヒトは手でディアナを制止した。


「僕は、君と功利主義について議論する気はない。

ただフィリプと離婚する気があるのかないのか、それだけ教えてくれ」


「あ、あるわけないじゃありませんか!

私はフィリプ様と絶対に幸せになります!」


 ディアナは、アルブレヒトの物言いも態度も気に入らなくて、腹が立って、それなのに自分が対抗できる方法が『離婚しない』と宣言するしかないことが悔しかった。

 悔しさのあまり、テーブルを叩きながら立ち上がった。


 その状態で、アルブレヒトとディアナは睨み合った。

 目を逸らしたら負けだと思ったディアナは目に力を込めた。


 先に目を逸らしたのはアルブレヒトで、笑顔で立ち上がった。


「全く、最近はどうも不愉快なことが続くな。

今日はこれで失礼するよ。君よりはフィリプのほうがまだ話が通じる」


「ええ!私は、絶対にフィリプ様と離婚したりしませんからっ…!」


 ディアナはほとんど叫ぶようにそう言った。

 

 アルブレヒトは、目をすぅっと細めてディアナを眺める。

 小切手を回収して、それでは、と部屋を出て行った。

 丁寧にドアを閉めていく、その所作にすらディアナはむかついた。


「お、奥様、奥様、大丈夫ですか?」


 腹立ちまぎれに地団駄を踏むディアナにモニカが遠慮がちに声をかけてくる。


「ええ!ええ、私は大丈夫よ!

聖水、聖水まきましょ、モニカ!まったく、フィリプ様のお父上があんな人だなんてっ!!」


 落ち着いてください、とモニカがディアナを強引にソファに座らせてきた。

 コップを口に当てられて、水まで飲まされる。

 

「奥様、大丈夫ですか?」


 一杯分の水を飲ませてきたあと、モニカはなお心配そうに、遠慮がちに尋ねてくる。

 強引さとのギャップにディアナはだいぶ冷静になって、ええ、と頷いた。


「ありがとう、モニカ。おかげで落ち着いたわ…」


 よかった、とモニカはにんまり笑った。

 

 モニカに改めて紅茶を淹れてもらいながら、ディアナが気を落ち着けていると、また部屋に来客があった。

 アルブレヒトが戻ってきたのかと思ったディアナは、今度こそぎゃふんと言わせてやると意気込んだが、


「ディアナさん、フィリプさんからお手紙よ」


やってきたのは真剣な顔をしたヘレナだった。

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