グスタフの借金
ディアナはトランクから《ペトラーチェク商事》の社章が入った書類を取り出す。
「工房の書類を確認していたらこれが出てきたんですけれど、恥ずかしながら文字が読めなくて…。《ペトラーチェク商事》の社章が入っていることはわかったので、これがなんの書類なのか、お伺いできればと思い、持ってまいりました」
本来だったら、これを先に出して工房の存続について相談しようと思っていたのに、緊張からすっかり順番がおかしくなってしまった。
しかし、結果として話が良い方向に行ったからよいとしよう。
ディアナはそう考えながら、テーブルをはさんで向かいに座るフィリプに書類を渡す。
それを受け取ったフィリプはパラパラと見ながら、ディアナの話にうなずいた。
「たしかに、うちのものですね。どなたかにお見せになりました?」
書類を二人の間のテーブルに置いてフィリプはディアナの目を見つめる。
いつになく真剣なまなざしに、ディアナはそんなに重要なものだったのかしらとたじろいだ。
「いいえ、誰にも。金庫に入っていましたから、あまり人に見せない方がいいものかしらと思って。なにかの契約書でしょうか?」
ディアナの問いに、フィリプは眉を寄せて目を伏せる。
言い出しづらいことなのだろうか。
少し唇を噛んでから、フィリプは声を潜めて言った。
「実は、私、グスタフさんにお金をお貸ししていたんです」
「へ…っ!?」
つい素っ頓狂な声を上げて、それから手で口を覆う。
グスタフは、堅実で借金とは無縁だとばかり思っていた。
ディアナは、自宅にある現金と、銀行の口座にいくらあって、いくらならすぐ返せるかを思案する。
それよりも聞かなければならない。
「ごめんなさい、私、知らなくて…! あの、夫はおいくらほどお借りしていたんです…?」
どうか、すぐに返せる額であってくれ、と祈るような気持ちでディアナは尋ねる。
フィリプは再び書類を手に取って、眉を寄せたまま書類の一枚目のある数字を示した。ディアナは、フィリプが指し示したその数字に、血の気が引く。
何桁か、ぱっと見ただけではわからない。
過呼吸になりそうなのを深呼吸することで抑えながら、その数字の桁を数える。
グスタフの年収を優に三倍は超えている額だった。
「な、なんで、あのひと、こんな額の借金を…!?」
ディアナは、思わず叫んだ。
女性にしては低く、ハスキーなディアナの声は、副社長室の重厚なカーテンや毛足の長いじゅうたんにそのまま吸収される。
フィリプは、瞬き数回ほどの間、言ってもよいものかどうか迷っていたのだろう。
視線を泳がせていたが、ディアナのすがるような視線にため息をついて、おずおずと切り出した。
「たしか、一年と少し前に、ルドルフさんが亡くなったでしょう」
義父が亡くなったのは確かに一年と少し前だ。
それがどう関係するのか、ディアナはハラハラしながら相槌を打つ。
「私は、あまり直接ルドルフさんを存じ上げませんが、グスタフさんから、その、ずいぶん人生を楽しまれる方だったと聞きました」
確かに義父ルドルフは人生を楽しんでいた。言い換えれば、非常に奔放だった。
グスタフの母であり、ルドルフの唯一の妻が亡くなって以降、自身が亡くなるまでの20年ほど女性は途切れなかった。
ギャンブルもするし、たばこも吸う。友人も多く、破天荒ながら義理堅い。
明るく、楽しく、よく食べ、よく飲み、よく遊ぶ。
それをモットーに生きているひとだったけれども、不摂生な生活が祟ったのか、病に倒れて亡くなった。
グスタフはそんな父を反面教師として堅苦しく育ったものの、技術者として尊敬していたし、ディアナも明るい義父が大好きだった。
しかし、借金の話から、ルドルフが奔放だったことが言われると、ディアナも話のオチの予想がつく。
「もしかして、義父が借金を……?」
ディアナがおそるおそる尋ねると、フィリプは神妙な顔で頷いた。
ディアナは、状況はまったく変わっていないながらも、借金がもともと義父のものだったと知ってひとまず安心した。
あの、頑固で実直なグスタフがいかなる理由であれ、これだけの借金を作っていたなんて想像もできなかったけれど、義父であれば、まあ、納得はできる。
大方、恋人たちへのプレゼントか、ギャンブルで負けた支払いか、友人の連帯保証人になったか、といったところだろう。
もしかしたら全部かもしれない。
「でも、どうして、義父の借金だったのに、グスタフがペトラーチェク様にお借りすることになったんです…?」
「ルドルフさんが亡くなった際に、グスタフさんが遺産を相続なさったはずです。私がグスタフさんから伺った話では、ディアナさんはその相続について詳しくご存じないとか」
「ええ、夫はなにも言っていませんでした。義父の借金なんて」
ディアナは頷いた。
グスタフは、自分の領域に、たとえ妻だろうと入れないという頑固な面が、いや、偏屈な面があった。決して妻を軽んじているわけではないことをディアナはよくわかっていたから、グスタフが《俺がやる》といったことにはそれ以降口を出さないことにしていたのだ。遺産相続に関してもそうだった。
「ルドルフさんが最初に借りた額はそう多くないものだったそうなんですが、利子が相当なもので、グスタフさんが相続したときには、この額に」
フィリプはそう言っておずおずと書類の数字を示す。
「それで、グスタフさんはどうすればいいのか、私に相談なさって…。
親しくお付き合いしておりましたから、私のポケットマネーからお貸ししたということなんです。
これ以上利子が膨れ上がってしまっては大変ですから、ひとまず一括で借金を返せる額をお貸ししました。
私がお貸ししたお金には利子をつけないことにして」
「…ごめんなさい、私、ほんとになにも知らなくて。どうにかして、お返しします」
ディアナからすれば、天文学的な数字だ。
それを夫がお借りしたまま死んだとなると、ディアナは目の前の男性になんとしてもそのお金を返さなければいけなくなった。
「ディアナさん、余計なお世話かもしれませんが、生活の当てはあるんですか?」
フィリプの微笑みにディアナは首を横に振る。
「いえ、それも今考えておりまして…。
実家もありませんし、兄弟もいませんし。
工房でこのまま置いてもらえるのが一番なんですけど、でも、新しい工房長さんが来るなら、そういうわけにもいきませんし…」
フィリプは、そうですか、とつぶやいてから、唇を噛む。
それから商売人然とした胡散臭い笑顔を顔に浮かべて両手の指を組んだ。
ディアナからしたら、商売人然とした胡散臭い笑顔のフィリプは初対面のとき以来で、新鮮なものを見る気分だった。
「それじゃ、こういうのはどうでしょう。ディアナさん、うちにきませんか」
ディアナは、自分の身の振り方についての解決策をフィリプに求めているわけではなかった。
世間話の一環として話したつもりだったが、まさかフィリプが解決策を提示してくれるとは思っていなかったのだ。
しかし、フィリプの提案は願ってもないことだった。
「うち…。《ペトラーチェク商事》にですか?
使っていただけるならなんでもいたします!
小間使いでも、掃除婦でも!」
身を乗り出す勢いで食いつくディアナ。
フィリプは微笑んだまま首を横に振る。
「いえ、ここではなく」
「それなら、どこか関連のお仕事? 工場でも、農場でも、どこでも行きますわ」
工場も、農場も、ディアナにとって未知の世界だが、食い扶持を稼ぐあてのないディアナにとっては関係ない。
やらせてもらえるのであれば、どんな仕事でもする心持である。
「いや、そういうことじゃなく、私の家といいますか」
フィリプは、どう言うべきか考えながら、といった様子で微笑みながら否定する。
ディアナは、《私の家》という表現に、より一層食いつく。
「家政婦ですか!? 得意分野です!」
ずっと《ノヴァーク》で家政婦のように働いてきたディアナにとって、これ以上にありがたい申し出はない。
フィリプが結婚しているかどうかも知らないが、フィリプによく似た子どもをあやしながら家政婦として料理をしつつ、きれいな奥様の身支度をお手伝いする妄想が一瞬でディアナの頭の中に広がる。
しかし、ふわふわと夢想するディアナを見てフィリプは苦笑しながら言った。
「…まどろっこしい言い方がよくありませんね。僕の妻になりませんか」