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《ペトラーチェク商事》に行こう

 《時計工房 ノヴァーク》から《ペトラーチェク商事》までは、乗合馬車(バス)を乗り継いでいく。同じ王都内だからそう遠くはない。


 さまざまな工房が立ち並ぶ18番街を走る乗合馬車に、最寄りの停車場から乗り、王宮前広場に出て、メインストリートを走る馬車に乗りかえる。

 18番街を走る乗合馬車にはディアナもよく乗るのでなじみがあるが、終点である王宮前広場はなかなか来ることがない。

 最後に来たのはいつだったか、さっぱり思い出せなかった。


 久しぶりに来た王宮前広場は、ひと月ほど前に王子殿下と公爵家の令嬢が十数年の長い婚約期間を経て結婚したお祝いで、いまだにアイスクリーム売りのワゴンが出ていたり、花売りや大道芸人がそこら中にいたり、楽隊が演奏していたりと、お祭りムードだった。

 

 ディアナの記憶にある王宮前広場よりはずいぶんにぎやかで、まるで違う場所かのように感じられた。見学していきたい気持ちを必死に抑えて、王宮前広場での乗り換えを無事に済ませた。


 メインストリートを走る馬車に乗りさえすれば、ほとんどの人間は《ペトラーチェク商事》まで迷うことはないだろう。

 なにしろ《ペトラーチェク商事前》という停車場がある。


 そのうえ、停車場《ペトラーチェク商事前》はそこで降りれば、総合商社《ペトラーチェク商事》の建物がいやでも目に入る位置なのだ。

 ディアナも、初めて一人で来たけれど、王宮前広場で乗合馬車を乗り換えてからは、たどり着けるかどうかに関してはなにも心配していなかった。


 メインストリートは、中央銀行、大企業の事務所、新進気鋭のブティックや伝統的なカフェなどが立ち並ぶ通りで、王国で最も美しく商業的に栄えている2㎞と言われている。


 《ペトラーチェク商事》の本社は王宮前広場からすると終点に近い方だが、窓からきらびやかな建造物や行きかう上流階級の人々を見ているだけで、ディアナは一切退屈しなかった。

 《ペトラーチェク商事》を訪ねる緊張を、夢想することで和らげていたのである。


 そして、なんの問題もなく《ペトラーチェク商事》にたどり着く。

 しかし、問題なくここまで来られたからと言って、ディアナの緊張は消えない。

 ただただ、フィリプの言葉が社交辞令でないことを祈るばかりである。


 ディアナは、ひとまず深呼吸をして、《ペトラーチェク商事》のガラスのドアを押し開けた。

 

 パーティーで来るのと平時にくるのとでは、やはり雰囲気が異なる。

 以前にも来たことのあるロビーだが、しんと静まり返っていてディアナの緊張を増幅させた。

 それでも、受付までトランクを持っていき、そこに座る女性に声をかけた。


「あの、こんにちは。」


 こういう場合にふさわしい語彙をディアナは持っていなかった。

 なんとなく挨拶をしたけれど、言ったそばから、もっと言い方があるでしょう!と胸中で自分を叱咤する。

 

 しかし、受付の女性はディアナににこやかに微笑んだ。


「こんにちは。どのようなご用件でしょう?」


 華やかなメイクの女性に笑いかけられてディアナは少しほっとする。


「えっと、ディアナ・ノヴァークといいます……」


 『副社長のフィリプ・ペトラーチェク様にお会いしたいのですが』というより前に受付の女性は、すぐさま、はい、と言った。


「副社長からうかがっています。ただいま、副社長は会議に出ているようでして…。十分ほどお待ちいただくことになってしまうのですが、お時間、よろしいですか?」


 どうやら、本当に、受付に言っておいてくれたらしい。名乗っただけで、話が通じた。


――――――――――――


 ディアナは副社長室前の廊下で椅子に座って、入室の許可を待つ。


 5階建ての、5階に位置する副社長室に来るのに、ディアナは人生で初めてエレベーターに乗った。

 借りてきた猫のようになりながらも、内心大興奮だった。


 階段を登らなくても上の階に行けるなんて!


 しかし、案内してくれている受付の女性は慣れているのか、何でもないかのようにエレベーターに乗っていた。

 ディアナの興奮をわかってくれそうにない。

 ディアナは、浮かれた自分の子どもっぽさに恥ずかしくなり、悠然としたほほえみをなんとか取り繕って、副社長室まで案内してもらってきたのだった。


 受付の女性は、ここで入室の許可が下りるまでお待ちください、と微笑んで、自分の持ち場に戻っていってしまったため、ディアナはしんとした廊下でひとり小さく座っている。


 そろそろ十分たったかしら、と時計を確認しようとしたところで、副社長室の扉が開いた。


「お待たせしました。どうぞ」


 フィリプが内側から扉を開けて微笑んだ。

 ディアナは、ひとまず《マジで来たよ、この女…》という顔をされなかったことに安堵しつつ、トランクを持って立ち上がり、副社長室に足を踏み入れた。


「ペトラーチェク様、お時間をいただきありがとうございます。お忙しいとは思ったんですが、つい…」


 ディアナのことばに、フィリプはたいしたことないというように笑いながら手を振った。


「いえ、困ったらいらしてくださいと言ったのは、私の方ですから。ああ、どうぞ座ってください、ディアナさん」


 フィリプのすすめ通りソファに腰かけたが、昨日に引き続き再び《ディアナさん》と呼ばれたことに少し驚く。

 別に不快だったり、不満があったりするわけではないから、特になにもいうことはないが、なんの心境の変化が彼にあったのだろう、と不思議には思った。


 二言三言、世間話をしていると、彼の秘書らしき男性に紅茶をサーブされる。

 香り高く、透き通った橙色で、ディアナにも高級だということは見ただけで分かった。

 しかし、高級なことがわかってしまったために、味わおうにも味わえない。

 緊張で味がわからないのを《おいしい》と微笑んでごまかしたのだった。


「それで、ディアナさん、お困りのことはどんなことです?」


 ノヴァーク家にかなり踏み込んだ話になることを配慮してくれたのか、秘書らしき男性を退室させたうえで、フィリプは本題にとりかかろうとディアナに持ち掛けた。


 ディアナはこうした改まった場がどうにも苦手である。

 話そうと思っていたことがうまく言葉にならない。


「ええっと、いくつかご相談したいことはあるんですけど…。えっと、まず、《工房》のことをご相談したくて……」


「《時計工房》ですか。もしかして跡継ぎの問題ですか?」


 ディアナは、フィリプに言い当てられて、一瞬目を丸くした。

 しかし、代々世襲で長を務めてきたのに子がいないまま当代が死んだとなれば、どこであっても跡継ぎは問題になる。

 誰にでも予想がつくことか、とディアナは納得する。


「はい。それに、今いる職人も、見習いも、ノヴァークがいないのに《時計工房 ノヴァーク》としてやっていけるわけがない、といって辞めたいといっているんです。職人たちは技術も十分あるのに…」


 フィリプは顎に手を当てて少し考えて、微笑んだ。


「それでしたら、経営者として優秀な人を紹介しましょうか。

 ヴラディーミルさんとクリシュトフさんがいれば、まあ、なんとかなるでしょうから、経営判断と広報を間違いなくやれる工房長さえいれば、やっていけると思いますよ。

 《時計工房 ノヴァーク》の時計は、ここで絶やすには惜しいものでしょう。

 あの二人が技術を受け継いでいるのは作品をみればわかる」


 外から経営者を招くなど、ディアナは考えたこともなかった。


 時計工房の長は、工房内で最も優秀な技師でなければならないと思っていたけれども、法律でそう定められているわけではない。

 経営の腕が良い人がいれば、確かに《時計工房 ノヴァーク》はやっていけるのかもしれない。

 ディアナにとって、フィリプの提案は輝かしい希望に思えた。


「そんなことができるのですか…?」


「ええ、そうですね。職人たちと経営者の相性と腕次第ではありますが。いくつか同じように跡継ぎのいない工房や農場に経営者を紹介したこともありますが、うまくいくところが大半です。どうでしょう、そういう形での存続は?」


 輝かしい希望は、《うまくいくところが大半》というフィリプの太鼓判によって、なおさら確固たるものとなった。

 そうなると、夢想家のディアナにはバラ色の未来しか見えない。


「まあ…。それなら、ぜひ、紹介してくださいまし!

 ああ、でも、一度工房のみんなに確認してみないと…。

 ペトラーチェク様、その腕の良い経営者の方というのは、ペトラーチェク様のなかにすでに当てがあるんですか?

 ああ、いえ、もしなくてもペトラーチェク様のことですからすぐに見つけてくださるんでしょう!

 よかった、どうなることやらと思っていたのに、案外すぐ解決しそうなんですもの。

 うれしいわ。ペトラーチェク様に相談に来て本当によかった!」


 前のめりになる勢いでディアナは喜ぶ。

 フィリプは、ディアナを見つめて微笑みながら、それならよかったと、つぶやく。


「それなら、また工房のみなさんと結論を出したらご連絡いただけますか。ご連絡をいただいてから、経営者を探します」


「ええ、ええ! ありがとうございます、ペトラーチェク様!」


 ディアナは、この良い報告を持って帰ったらどんなにか工房のみんながよろこぶだろうと想像して気分が上がった。

 そのまま、トランクを持って帰ろうとして、その中身に関するもう一つの要件を思い出す。


「ペトラーチェク様、もう一件、お伺いしたいことがあります。お時間、よろしいでしょうか?」


 ディアナは冷めやらぬ興奮を落ち着けて、フィリプに尋ねる。

 彼はきょとんとしながらうなずいた。

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