ディアナ、お願いをしてみる
「ねえ、フィリプさん。ディアナさんと二人で旅行に行ってもいいかしら」
フィリプが帰宅するのをディアナとヘレナは玄関で待ち受けていた。
そして、帰宅したとたん、挨拶もなく、ヘレナの一言。
フィリプは、《え?》と動きを止め、だんだんと首を傾げ、眉を寄せ、ちょっと悩んで、口を開く。
「だめ。事情によるけど」
《だめ》に心が折れそうになるディアナだが、付け足された言葉になんとか持ち直す。
でも、とりあえずは。
「旦那様、おかえりなさいませ」
フィリプがコートを脱ぐのを手伝うべく、少し手を広げた。
それを見たフィリプは何を勘違いしたのか、顔を赤くする。
思っていた反応と違うので、ディアナは、おや?と首を傾げる。
「ただいま、ディアナ。今日も可愛い。ハグは、嬉しいけど、ちょっと待ってね」
手を広げたのを、ハグ待ちと勘違いされたらしい。
そんなつもりないのに!
「違います!ただ、コートを脱ぐのに、手がいるかと思って……」
びっくりして、恥ずかしくて、声が上ずった。
それがまた恥ずかしくて、だんだんトーンが落ちてしまう。
ディアナの訂正に、フィリプもますます顔を赤くする。
慌てて、コートを脱いで、自分でそれを手に持った。
「あ、ああ!そういうことか…。そうだよね。ごめん、ちょっと調子乗った」
へらっと笑う子犬顔。
強く否定しすぎた、とちょっと胸が痛くなる。
《ごめんなさい》と口に出すより早く、咳払いが聞こえてきた。
ヘレナである。
「ご夫婦仲睦まじくて結構ですこと」
怒っている風は全くないけれど、話を勧めましょう、という強い意志を感じる笑顔に、ディアナは、つい姿勢を正した。
フィリプも、まだ少し顔は赤いが、
「いらっしゃい、ヘレナさん」
と言いながら、自身も咳払いをして姿勢を正した。
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「なるほどね。グスタフさんの持ち物を取りに、警察署に行くってことか」
ヘレナと3人、夕食を摂りながらディアナはフィリプに事情を説明した。
「ヘレナさんも一緒に行ってくれるんでしょう?」
「ええ。せっかくラダイアまで行くなら、そのままユームレーも回ってきたいわ。さっきそう話していたのよ。ねえ、ディアナさん?」
さっき二人で話していたときより、話が大きくなっている!
さっきは、《ラダイアの観光》だったのに!
ラダイアからユームレーって、さらに半日はかかるのでは!?
ディアナは《え?》とフリーズしてから、フィリプに見えない側でウインクをしてくるヘレナに、とりあえず従った。
「え、ええ……。はい。そう、ですね」
つい言いよどんだ。
フィリプの視線が痛い。
「……ずるい。僕だって、ディアナと旅行に行きたいのに」
フィリプの視線はヘレナに移った。
ヘレナは、行けばいいじゃない、とあっさりフィリプを受け流す。
案の定、自分との旅行を羨ましがってくれるフィリプに、ディアナは落ち着かないような感覚を覚える。
嬉しいような、苦しいような。
「……だめ。僕より先に、ディアナとユームレー旅行なんて羨ましすぎる。だめ」
「あら。それなら私とディアナさんが旅行に行くより前に、行ってきなさいよ、二人で」
フィリプとヘレナが軽口の応酬を繰り返すので、口をはさむタイミングのないディアナは、にこにこ微笑んでそのやり取りを眺めていた。
ふと気が付く。
フィリプが《自分との旅行を羨ましがっている》と自分が考えていることに。
普通《ユームレー旅行を羨ましがっている》と考えるところなのに!
体が熱くなるほど恥ずかしい。
思いあがっている。
うぬぼれている。
ディアナは口元に手を当てたけれど、この思い上がりを誰にも気づかれたくなくて、すぐにその手をグラスに伸ばして動揺を誤魔化した。
フィリプとヘレナは、ユームレー旅行の是非について平行線の応酬を続けていて、ディアナの様子に気づいていないようだ。
よかった、とディアナはほっと息をつく。
フィリプがディアナとの旅行を羨ましがっているというのは間違いではないだろう、とディアナ自身わかっている。
でも、まだ彼の想いを受け入れられない状態で、フィリプの思いを分かっているなんてひけらかすようなこと、ディアナには恥ずかしくてできなかった。
自分は、フィリプを待たせるような、格上の女ではない。
けれども、ディアナは、グスタフのことと向き合わなければならないのだ。
「そうねえ。それじゃ、ラダイア観光はどうしかしら。せっかくラダイアまで行って警察署だけっていうのはもったいないと思うのよ」
少し自分の世界に入っていたディアナが、ふと意識を会話に向けたのは、ヘレナのその提案が耳に入ったときだった。
フィリプは目を閉じて、眉を寄せて、難しい顔で考え込んでいる。
ディアナとしては、最悪観光はできなくてもいいのだが、ラダイアに行けないのは困る。
ヘレナがディアナからも頼むよう、視線で合図してきたので、ディアナは頷いた。
「あの、旦那様。ラダイアに行かせてください。グスタフの遺品を引き取りに行くような家族は、私しかいないんです」
ディアナがしゃべっている途中から、フィリプは目を開けて、焦ったように何度も頷いていた。
「わかってる。大丈夫。警察署に行くのは全然問題ないよ。大丈夫」
ディアナはほっと息を吐いた。
よかった。
それさえ認められれば、ディアナとしては不満はない。
「ありがとうございます」
ディアナの礼に、フィリプは、そんな大したことじゃないんだけど、と苦笑した。
「問題は、僕とまだ旅行に行っていないのに、ヘレナさんと観光まですることだよ」
フィリプは恨めし気にヘレナを見る。
「あら。でも、ディアナさんだって、せっかくラダイアまで行くなら少しくらい観光したいわよね?
フィリプさんと結婚してからずっと勉強漬けなんだし、羽を伸ばしたいでしょう?」
ヘレナは涼しい顔でディアナにそう振ってきた。
旦那様に悪いかしら、とは思いつつも、条件反射的につい頷く。
頷いてしまったので、今から否定したりして誤魔化しても仕方がない。
ディアナはフィリプを見つめた。
「旦那様、お願いします」
誠心誠意お願いしてみたら、フィリプは天を仰ぎ始めた。
「ディアナにそんなお願いされたら、叶えてあげたくなっちゃうじゃないか……」
ぱっと表情を輝かせたヘレナと顔を見合わせてから、ディアナはフィリプに、それなら、と話しかける。
「それなら、旦那様。ラダイアに行ってもいいですか? 観光してきてもいいんですか?」
フィリプは、はーっと息を吐いてから、ディアナに微笑みを向ける。
「そうだね。気を付けて、楽しんで行ってきて」
ヘレナと二人、小さく歓声を上げた。
「それで、いつ行くの?」
ちょっと恨めし気な様子を残しつつも、フィリプは行く前提での話を切り出した。
「そう、それをあなたと相談したかったのよ。どこに泊まるかも」
フィリプの様子と対照的にヘレナは非常に上機嫌だ。
ディアナも、とても嬉しい。
旅行なんて初めてだ。
それに、グスタフの愛用品がやっと手元に戻ってくる。
グスタフも、警察署に保管されているよりディアナが持っている方が嬉しいだろう。
旅行のことなんてディアナには全く分からない。
フィリプとヘレナが、あーでもないこーでもないと言いあうのをにこにこ聞きながら、食事を進めた。




