お別れの時間
楽しい時間はあっという間で、ワイングラスを片付けるためキッチンにいたら、ドアノッカーの音が響いてきた。
フィリプが迎えにきた。
マトウシュが出迎えてくれて、フィリプはそのまま玄関で待っているという。
昨晩から今朝にかけての気まずい気持ちと、懐かしい《時計工房 ノヴァーク》にずっといたい気持ちをなんとか切り替えて、片付けられた作業場で職人と見習いたちに別れの挨拶をする。
クリシュトフに小声で《お別れが寂しいなら泣いてもいいのよ》と言って揶揄ったら無視されたりした。
作業場を出て玄関に行こうとしたところで、アデーラに呼び止められる。
「ディアナさん、忘れるところだったわ」
そう言って、アデーラはディアナに一通の手紙を差し出してくる。
「おととい届いたのよ。転送をお願いしてもよかったのだけど、今日直接お会いするから、渡しちゃおう、と思って」
シンプルな白い封筒を受け取って、あて名を見ると、《ディアナ・ノヴァーク様》宛てだった。
住所はここになっている。
少なくとも、ディアナ・ノヴァークに手紙を書く人なんていない。
ディアナの知り合いは、ディアナ・ノヴァークが字を読めないのを知っているから。
けれども、封筒の裏面の差出人を見て納得する。
「わざわざありがとうございます」
ディアナはあとで開けようと思って、手紙をハンドバッグにしまう。
「いえ、なにか力になれることがあったらいつでも言ってね」
アデーラの心配そうな顔に、ディアナは微笑みを返す。
「ありがとうございます。また来てもいいですか?」
「もちろん。いつでも待ってるわ」
アデーラとハグをしてから、玄関に向かうと、マトウシュとフィリプが談笑していた。
「あ、ディアナ」
子犬が尻尾を振っているのを彷彿とさせるフィリプの笑顔に、ディアナは会釈を返した。
「お迎え、ありがとうございます、旦那様」
やっと目を見て話せるようになった。
朝の気まずさを振り切れた。
「ううん、大したことない。忘れ物はない?」
「大丈夫です、ありません」
ディアナは、玄関を背に立つフィリプの横に並んだ。
こんな風に、ここから《帰る》のは初めてだ。
見慣れたはずの玄関ホールと、そこに続く廊下と作業場。
職人と見習いたちと、アデーラも見送りに出てきてくれた。
「ディアナさん、また来てくださいね」
と、シモンが言う。
もちろんよ、とディアナも返す。
マトウシュやアデーラにも、いつでもおいで、と言われて、ぜひと微笑んだ。
見習いたちは相変わらず、どうもフィリプには近づこうとしない。
けれども、職人二人は、彼らにしては比較的、和やかに話をしていた。
よかった、とディアナはほっと息をつく。
「ディアナ、そろそろお暇しようか」
ペシュニカ夫妻と軽く話していたら、フィリプに声を掛けられる。
はい、旦那様、と返事をして、ディアナはちょっとだけ姿勢を正した。
「今日はありがとうございました。久しぶりにみんなに会えてうれしかった」
うちにもいつでも遊びにきてね、と言いたいけれど、フィリプの手前、ちょっと言いづらい。
それをくみ取ってくれた、というわけでもないのだろうけれど、フィリプがディアナのことばの先を引き受けて続けた。
「皆さんも、いつでも我が家にいらしてください。妻とお待ちしています」
妻、と言われて、一瞬自分のことだと認識できなかった。
遅れて認識して、自分の顔が赤くなるのを感じつつ、ディアナも、ぜひ、とフィリプに追従する。
帰りがたくて別れがたくて、なんども《また来てね》の言葉を応酬してから、フィリプと一緒に玄関を出る。
この前、ディディしかいなかったときはあっという間にドアを閉められたのに、と思い出してちょっと笑いながら、フィリプのエスコートで自動車の助手席に乗り込んで、発進するまで玄関の前にいるみんなに車窓から手を振っていた。
車が走り出してもなお、工房が見える間は互いに手を振り続ける。
角を曲がって工房が見えなくなってから、夕方の18番街の街並みを走る自動車のなか、ディアナは姿勢を正して前を向いた。
また次の投稿まで時間が空くと思いますが、気長にお待ちください…!
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