フィリプ・ペトラーチェク
ディアナとグスタフが、フィリプ・ペトラーチェクに初めて会ったのは、《ペトラーチェク商事》が主催したパーティーだった。
《ペトラーチェク商事》は年に一度、取引のある企業の社長や客を招いてパーティーを開催する。
結婚以降、パーティーにはグスタフとディアナのふたりで出席してきた。
当時工房長だったルドルフは、華やかな社交など大嫌いだったので、息子の結婚を機に体よく息子夫婦に押し付けたのだった。
初めて出席した年、ディアナはパーティーなどもちろん初めてだったために、大いに戸惑った。
なにしろ、一緒に出席した夫も、気が利くタイプではない。
《商事》のメインホールで人の波に押され、夫とはぐれ、どうしていいかわからずに壁の花に徹していた。
華やかなパーティー会場内で行きかう人々を見るでもなく見ながら、夫を探す。
「マドモアゼル、華やかな場所はお嫌いですか?」
そのキザな声掛けがまさか自分に話しかけているとは思わず、ディアナは真正面から話しかけてきていた男性を一度思い切り無視した。
まさか無視されるとは思わなかったらしい男性は戸惑いを隠しきれない笑顔で、もう一度キザに話しかけてきた。
「黒髪のお嬢さん、壁の花もいいけれど、よければお話ししませんか?」
近くを見渡すと、黒髪の女性は自分しかいないし、なにより男性は思い切り自分を見て話しかけてきているので、話しかけられているのは自分だということにディアナはやっと気が付いた。
「あ…。ごめんなさい、こうした場に、慣れていなくて」
緊張しいのディアナは、慣れない場で、見ず知らずの男性に粗相したことで泣きそうなほど恥ずかしくなっていた。
しかし、男性は、穏やかに笑って首を横に振る。
「お気になさらないでください、マドモアゼル」
それまで年の若い男性といえば、夫であるグスタフか、工房にいる職人、見習いくらいしか知らなかったディアナは、その男性のスマートさに、軽いカルチャーショックを受けた。
「マドモアゼル、失礼ながらお名前をうかがっても?
あなたのような美しい髪の女性に一度でも会っていれば忘れることはないと思うのに、思い出せない。きっとあなたにお会いしたことはないと思うのですが。」
ディアナは、歯の浮くようなセリフで口説かれても、背筋が寒くなるとか、吹き出してしまうとか、そういうタイプの女性ではなかった。
既婚者だし、不倫なんて考えたこともないけれど、男性にそんな風に褒められたらうれしくなってしまうほどには乙女の心を持っていた。
グスタフのことは愛していたが、幼馴染同士、手近な男女でくっついた感のある結婚なので、ロマンティックな恋愛へのあこがれは結婚してなお、やまなかったのだ。
「ディアナ・ノヴァークといいます。あの、こうした場の作法がわからなくて……。お名前を、お伺いしてもいいですか?」
緊張しながら言うと、男性は穏やかに微笑んでうなずく。
「ええ。フィリプ・ペトラーチェクと申します。ここの副社長を務めています」
「ええっ? やだ、私、全然、知らなくて、ごめんなさい……」
さすがに主催者側のトップ2を知らないというのは礼を失したことだろう。
とっさに謝ると、フィリプは首を横に振る。
「いえ、お気になさらずに。お会いしたことないのですから当然です。
しかし、ノヴァーク様ということは、《時計工房》の方ですね?
おかしいな、たしか娘さんはいらっしゃらないと思っていたんだけどな……」
フィリプは、頭のなかの貴族名鑑でも捲るかのように首を傾げる。
彼は自分の記憶に自信があるのか、少々悔しそうではあったが、ディアナとしては、《ペトラーチェク商事》の副社長が、《ノヴァーク》を知っていて、しかも家族構成まである程度把握しているということに目を丸くした。
「よくご存じなんですね……。ええっと、私、《工房》の跡継ぎの妻で……」
「妻? ああ、大変失礼いたしました。マドモアゼル、ではなく、マダムですね」
ディアナにはその異国風の呼びかけの意味はよく分からなかったが、どういう意味か尋ねるのも不調法だろうと思ってあいまいにうなずいた。
「それなら、今日は、跡継ぎの、たしかグスタフさんといらしたんですか?」
既婚者だと明かした途端に、フィリプの態度は気さくなものになった。
《未婚のお嬢さん》を口説くときだけ歯の浮くようなセリフを吐くらしい。
ディアナとしては、キザな話し方をされるとフィリプがしゃべるたびにいちいち照れてしまうので、こちらのほうがありがたかった。
「は、はい。そうなんですけれど、はぐれてしまって」
「ああ、だから壁の花に」
フィリプは、合点がいったようにうなずいた。
「それは、ぜひグスタフさんにもお会いしたいな。きっとグスタフさんも奥さんを探してらっしゃるでしょうから、動かずにいるほうが会えるかもしれませんね」
「はい、そう思ってここで。でも、夫は、とても口下手で…。見ていないと心配なんです」
パーティーへの参加を押し付けられてから、グスタフはずっと嫌がっていた。
自分は口下手だから、はなやかな社交の場にでても失敗することが目に見えているとグスタフは不安を吐露した。
だから、今頃どこかでお偉いさんに話しかけられでもしてあたふたしているのではないかと心配なのだ。
「パーティーの社交というのも慣れが必要ですからね……。奥さんはいかがです? お楽しみいただけていますか?」
「はい。ご招待くださり、ありがとうございます。とても楽しんでいます。」
ディアナの回答は心からの本心だった。
彼女は、上流階級というものに常日頃からあこがれを抱いていた。
優雅で、高貴で、美しい人々の生活ってどんなかしらと、よく夢想する。
そんな人々の社交が垣間見えるこのパーティーを心待ちにしていたほどだった。
初めての参加で緊張はするものの、嫌いではない。
うまくこなせないが、帰りたい気持ちでいっぱいにはならない。
ディアナの回答に、フィリプはそうですか、と穏やかに微笑んだ。
「それならよかった。どうぞ、当家のパーティーを楽しんでいってください。ああ、ちょうどこちらにいらっしゃるのはグスタフさんでは?」
フィリプにいわれて彼の視線の先を見ると、確かにグスタフだった。
向かい側の壁から人の波を押し分けるようにして、向かってくる。
こころなしか、げっそりとやつれているようだった。
「たしかに、そうです。グスタフだわ。」
ディアナが小さく手を振ると、グスタフが目礼で返し、合流した。
相当疲れたようで、ディアナの横にいるフィリプに合流してから気づいたようだった。
「そちらは?」
グスタフはディアナに不愛想に尋ねる。
「あ、ええっと、《ペトラーチェク商事》の副社長の、フィリプ・ペトラーチェク様。ペトラーチェク様、夫のグスタフ・ノヴァークです」
ディアナはいつも以上に不愛想なグスタフに、フィリプを怒らせやしないかと内心ハラハラしていた。
しかし、幸い、フィリプは先ほどまでと同様、穏やかな笑みを浮かべたままグスタフに手を差し出す。
「さっき、あなたのことを奥さんからうかがっていまして。お目にかかれてよかった」
「こちらこそ」
グスタフも手を差し出して握手がなされる。
ディアナは、フィリプに、夫が不愛想でごめんなさいと謝りたくて仕方がなかった。
しかし、グスタフは、自分で不愛想だという分にはいいのに、他人に不愛想だといわれるのを非常に嫌う男だとディアナは知っている。
この場で、ディアナがフィリプに謝罪などしようものなら今以上に不愛想になるだけなのだ。
ディアナの心配は、一応杞憂に終わった。
フィリプがまたにこやかに話を始めたのだ。
「《時計工房 ノヴァーク》の方とは一度お会いしてみたかったんです。そちらの時計は、長く使っていても狂いがない。それにデザインも洗練されていて、私も個人的に使用しているんです」
フィリプは、ほら、と懐中時計を取り出した。
グスタフはフィリプの持つそれを少しずつ顔の角度を変えながらそれを見てうなずく。
「そう言っていただけると、うれしいです。これは、俺、えっと、いや、私が、加工したものです」
ディアナは内心、ほっとしていた。
時計の話ならグスタフはいくらでも話せるし、さっきまでの不愛想さが少し軽減したから。
「本当ですか。それはうれしい。
いくつか懐中時計は持っているんですが、これはここぞという日に使うと決めるくらい気に入っているんです。
いろんなパーティーで、センスがいいと褒められるのでつい。
あとは、もう少し装飾の少ない、これと同じ大きさのも持っているんですが、そっちを日常使いにしていて。
それにしても、うれしいなぁ、《ノヴァーク》の職人さんに会えるなんて!」
ディアナは、上流階級にあこがれてはいるものの、そういう人たちはみんな近寄りがたく、ツンと澄ましているのだと思っていた。
しかし、王国最大の総合商社である《ペトラーチェク商事》の副社長は、その柔らかそうな栗色の髪の毛や男性にしては小柄な体躯のせいか、どこか人懐っこい子犬のような印象をディアナに与えた。
それに、あの不愛想なグスタフが、初対面であるにも関わらず、フィリプには微笑みを見せたのである。
初めて参加したパーティー以降、フィリプは時折《時計工房 ノヴァーク》を訪れてはグスタフと話をしていくようになった。
ディアナは、二人が何を話していたのかはよく知らない。デザインのアドバイスを受けたり、加工技術を説明したりしているところはみたことがある。
そうした訪問のたびにフィリプはディアナにも土産話をしてくれた。
王室のパーティーに経済界の若い世代として招かれた話とか、海外に販路を拡大しにいった話とか。
今となっては、ディアナはフィリプと会話するだけであれば、そう緊張することもないのだ。
それでも、ディアナにとって《ペトラーチェク商事》副社長のフィリプ・ペトラーチェクはいまだに殿上人だった。もともと住む世界の違う人なのだから。