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玄関にて

 フィリプが《時計工房 ノヴァーク》の玄関でドアノッカーを使うのを、ディアナは不思議な思いで見つめていた。


 ここに住んでいたころのディアナは、ここのドアノッカーを使ったことがなかった。

 鍵を持っていたから、中の人間を呼ぶ必要などなかった。


 連れが、こうしてドアノッカーを使っている。


 ディアナはもうここの住人ではないのだということを実感して、なんだか不思議な心地になったのである。


「緊張しているの?」


 中から人が出てくるのを待つ間に、からかうようにフィリプに問われる。


 彼がノックしているのをつい見つめてしまっていたから、不思議に思われたのだろう。


 ディアナは、ちょっとだけ答えに悩んで、首を横に振る。


「いえ、少し、ぼんやりしていただけです」


 フィリプは、ディアナの方に目を向けた。

 それから、そう、と頷いた。


 がちゃっと、鍵が内側から開く音が聞こえる。


「やあ、よく来たね」


 一月前に会ったきりのマトウシュ・ペシュニカが笑顔で二人を迎え入れてくれた。


「ご無沙汰しています、マトウシュさん」


 フィリプはそう言って礼をする。


 ディアナも彼に倣って、ご無沙汰しております、と挨拶をした。


 少し遅れて、アデーラも出てきて、いらっしゃいと声をかけてくれる。


 けれども、フィリプとディアナが答えるより前に、アデーラは口元に手を当てて息をのんだ。


「まあ、ディアナさん?まあ、まあ、まあ!」


 アデーラは、ディアナの全身に何度も視線を走らせた。


 見開かれた目は視線の動きがずいぶんわかりやすい。


 なんだろう、と思ってディアナは少し怯える。

 つい、フィリプの背後に少しだけ入った。


 その動きで、アデーラははっと我に返ったようで、ごめんなさいね、と取り繕うように微笑んだ。


「ディアナさんが、一月前にお会いしたときより、おきれいになってらしたから驚いてしまって」


 アデーラの言葉に、ディアナが謙遜するより早く、フィリプが口を開いた。


「そうでしょう。ディアナは本当に日々きれいになっていくんです。今日も、驚くほどかわいくて」


 フィリプがそう言って少し体を傾けるから、せっかく隠れたのにアデーラの前に全身をさらすことになった。


 ディアナはちょっとだけ居心地が悪くて、へらっと笑う。


「そんなこと、ありません。旦那様のドレスの見立てが素晴らしいからです」


 アデーラとマトウシュは、ディアナの言葉を聞いて、顔を見合わせて、それから微笑みを向けてくる。


 なんとなく、含みを感じる笑みで、ディアナはさらに落ち着かない気持ちになった。


「幸せそうでよかった」


 マトウシュの低くハリのある声に、ディアナは戸惑いつつもひとまず頷く。


「ええ、おかげさまで……」


 やっぱり落ち着かなくて、再びフィリプの陰に半身を隠した。


 それでもなお、マトウシュとアデーラの生暖かいような微笑みが向けられているので、ディアナにはもうどうしていいか分からなかった。


「さあさあ、中に入って。みんなすごく待っていたのよ」

 

 話題を変えるように、アデーラが工房の奥を示す。

 ディアナは、懐かしい面々に会いたくて、頷いて一歩踏み出すけれど、あっ、と足を止める。


「旦那様」


 ディアナを送り迎えするだけで帰ると言っていた。


 どうなさるのかしら、とディアナがフィリプの表情を見ると、穏やかに微笑んでいる。


「マトウシュさん、アデーラさん、僕はこれで失礼します」


 フィリプは紳士的にそう申し出た。


 ちょっとだけハットをあげて挨拶をする。


「なぜだい。せっかく来たんだから……」


 マトウシュは言いよどみながらそう言ってフィリプを引き留める。


 グスタフの月命日の集まりに、《楽しんでいくといい》と言うのもおかしい。

 そう考えたような言いよどみ方だった。


 けれども、フィリプは、いえ、と固辞する。


「お気遣いありがとうございます。ですが、お身内での集まりに水を差すわけにもいきません。また夕方頃、ディアナを迎えに来ます」


 フィリプはそう言って軽く礼をした。

 ディアナに、前に出るよう視線で促してくる。


 ディアナは半歩分前に出てフィリプの方を振り返る。


「でも」


 食い下がるアデーラにフィリプは、穏やかに微笑んで首を横に振る。


 正直なところ、ディアナは彼がいる場で《ノヴァーク 》の職人や見習いと話をするのは気まずいと思っている。

 だから、帰ってくれる方がありがたい。


 けれども、ホストであるマトウシュとアデーラがこうして歓迎してくれているのだから、ディアナが露骨に帰るよう促すわけにもいかない。


 そうでなくとも、ディアナの立場で《帰ってください》とはフィリプに言えるわけもない。


 実際、フィリプと職人たちが一同に会することになったとしても、楽しく過ごせるとは思う。


 しかし、想像すればするほど、ディアナはちょっと気まずい状況しか考えられなかった。


 改めて、フィリプの表情を見ると、やはり穏やかに微笑んでいる。


 彼が再び口を開こうとしたのがディアナにもわかったとき、あっ、と男性の声が響いた。


 急なことで、ディアナはびくっと身を縮こまらせる。


 それからぱっと視線をあげてみると、廊下の奥からひとりの少年がこちらを見ていた。


「ディアナさん!いらっしゃい!」


 にこにこと駆け寄ってくる少年。


 ディアナは彼が駆け寄ってきたとき、初めてその少年が一番年下の見習いの、シモンだということに気が付いた。


「まあ、シモン!」


 たったひと月会っていないだけなのに、声変わりをしている!

 

 それに、背も伸びて肩幅も広くなっている!


 目の前に来たシモンを見て、ディアナはちょっと涙ぐみそうになった。


「久しぶりね、大きくなって!」


 満面の笑みでシモンはこくこく頷く。


「ディアナさん、久しぶりですね!来てくれてうれしいです!」


 お互いに抱擁を交わしていたら、アデーラに咳ばらいをされる。


 母のしつけのようなその咳払いに、ディアナもシモンもハグを辞めて姿勢を正した。


「シモン、お客様がいらしているのに、挨拶もしないなんて何事ですか」


 シモンは、きまりが悪そうにほほをかく。


 それから、一歩下がって礼をした。


「失礼しました、ペトラーチェク様。ようこそ、おいでくださいました」


 フィリプに向かってシモンは挨拶をする。


 非常に不本意そうながらも丁寧な礼に、ディアナもフィリプもちょっと笑ってしまった。


「こちらこそ、お招きありがとう」


 最後にシモンに会ったとき、ディアナがフィリプと結婚する件で非常に不機嫌だった。

 それは未だに解消されていないらしく、フィリプに対する態度はとげとげしい。


 フィリプが気分を害さないか心配ではあったが、10代前半のシモンの多少の無礼に目くじらを立てるほど、フィリプは不寛容ではなかったらしい。


 弟のようなシモンが、不機嫌そうではあるもののきちんと作法に則った礼をしているのを見て、かわいらしくてやはり笑える。


 シモンはくすくす笑うディアナにむすっとした顔を向けるが、それでも、みんな待ってます、と工房の奥に連れて行こうと手を引く。


「待って、シモン」


 フィリプが帰るのかどうか、まだ決めていない。


 彼が帰るとしたら、見送らないわけにはいかない。


 そう思って、シモンを止めて、フィリプの様子を窺うと、フィリプは相変わらず笑顔で手を振る。


「マトウシュさん、アデーラさん。僕は、これで。また夕方に来ます」


 フィリプの言葉に、ペシュニカ夫妻は今度は引き留めなかった。


 シモンの態度を見て、これは気まずいと思ったのだろう。


「それじゃ、またあとでね、ディアナ」


 フィリプは、彼が仕事に行くときと同じように、ディアナの頬にキスをした。


「はい、旦那様。ありがとうございます」


 ひらひらと手を振ってドアを開けて帰っていくフィリプに、ディアナも手を振る。


 互いに気まずいに違いないというのはディアナの杞憂だったのだろうか、と思うほど、普段通りのフィリプだった。


 夕方迎えにきてもらったときには普通にできるよう、気持ちを切り替えておこう、とディアナは思いながら、シモンの方へ振り返る。


「シモン、案内してくれる?」


と声をかけてから、おや?と首を傾げる。


 シモンの眉間のしわが深度を増している。


 ふと視線をあげると、マトウシュとアデーラが先ほどと同じような生暖かい視線を向けてきている。


 それでやっと、ディアナは気づいた。



 ほほといえど、人前でキスされた!



 ついほほを手で覆った。顔が赤くなるのが自分でも分かる。


「……みんな待ってます」


 シモンは仏頂面のまま、ディアナの手を引いた。


 ペシュニカ夫妻はなにも言わない。

 むしろ何か言ってもらう方がディアナの気は楽になると思うのに、ただ生暖かい視線を向けてくるだけだった。


 ほほへのキスに対して誰もなにも言わない。

 

 ディアナは、それなら自分も気にしないようにしよう、と思って、ほほに当てていた手を外して、シモンの誘導に従った。

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