あなたとダンスを
しばらくそうして過ごした後、フィリプはいつも通りしゃんと背筋を伸ばした。
ディアナは右手を膝の上に戻す。
「情けないところ見せちゃったね」
赤い目元でフィリプは笑う。
ディアナは、何も言わずに首を横に振った。
「さて、ディアナ。気分を変えてダンスでも踊ろう」
フィリプは立ち上がりながら言った。
唐突な提案に、ディアナはつい吹き出してしまう。
「ダンスですか?」
「うん。ディアナ、踊れる?」
フィリプが手を差し伸べるから、ディアナはその手を取って立ち上がった。
「簡単なステップなら。でもあんまり得意じゃないんです」
フィリプは、楽し気に笑いながらディアナの空いている方の手も取る。
急に元気になったフィリプにディアナは戸惑いつつも、ついつられて笑顔になった。
「実は、僕も。パーティーで踊るのに困らないくらいには踊れるけど」
こんなに楽しそうにダンスに誘ったくせに。
ディアナは、それもまた可笑しくて、大いに笑った。
応接室にいこう、とフィリプが言う。
1、2、3、とフィリプが拍を取りながら軽くステップを踏むので、ディアナも彼に合わせてステップを踏む。
きちんとホールドを組んでいるわけでもなく、ダンスが得意というわけでもない二人で、笑って踊りながら、廊下を移動した。
フィリプは応接室のドアを開けた。
どちらともなく、二人は中に入る。
街灯か、月明かりか、外から差し込む光で、カーテンの閉められていない応接室は、ぼんやり明るかった。
ワルツの、一番簡単なステップのルーティーン。
二人でワルツを踊るのに、応接室は十分な広さだった。
応接室中をでたらめに回って踊る。
拍もでたらめになって、ステップもでたらめになって、だんだんとダンスの様相を呈さなくなっていくが、二人はただ楽しんでいた。
ディアナはきゃーきゃー笑いながら、フィリプも息切れするほど笑いながら、応接室中を駆け回るように踊る。
自分たちのダンスのでたらめさでまた笑えてくる。
空元気の笑顔と、それにつられての笑顔だったのに、二人で数分踊っているだけで、腹筋が痛くなるほど笑った。
フィリプが息切れしながら応接室のソファに倒れこむようにして座るので、腕を組んでいるディアナも引きずられるようにソファに倒れこんだ。
「あー、疲れた!」
けらけら笑いながら、フィリプが声をあげる。
「あら、もうですか?」
ディアナも笑いながらフィリプをからかう。
少し息は上がったものの、疲れを感じるほどではない。
やっぱり机に向かうことの多いお仕事だから体力ないのかしら、とディアナは思った。
「情けないなぁ。鍛えよう」
フィリプは額に手を当てて笑いながら言う。
そうしてください、とディアナは頷いた。
―――――――――――――――――――
少しの間、ソファで休憩したのち、フィリプはピアノの譜面台に楽譜をセットする。
マジックツールのピアノは、自動的にセットされた楽譜通りの演奏を始めた。
音楽を聞くことになさったのね、とディアナはぼんやり彼の動向を眺めていた。
窓から差し込む光のみの応接室に、ゆったりとした音楽が流れる。
流れる小川のような、澄んだ美しさを感じるメロディに、ディアナはソファに座ったまま聞き入る。
初めて聞く曲で、なんとも切ない響き。
王宮や貴族の屋敷での舞踏会を、ディアナは夢想する。
こういう曲に合わせて踊った男女が互いに恋に落ちるのね。
きらびやかな宮廷に思いを馳せるディアナはフィリプが部屋の真ん中に移動していたことに気づかなかった。
十分広い空間に立って、彼はディアナに手招きをする。
なにかしら、と首を傾げると、フィリプはホールドを組むように両手を挙げた。
「もう一回、今度はちゃんと踊ろう」
さっき疲れたとおっしゃっていたのに、とディアナは苦笑しながら立ち上がって、微笑むフィリプに歩み寄る。
フィリプの左手に自分の右手を合わせ、彼の右の二の腕のあたりに左手をのせる。
彼の右手が背に回されたのを感じて、ディアナは顔を上げた。
身長はそう変わらないと思っていたけれど、実際に向かい合って立ってみるとフィリプの方が少し高い。
触れている二の腕も、思っていたよりしっかりしていて、男性らしい。
手を背に回されているためか、抱きしめられているのに近い感覚になる。
先ほどは、ただ手を繋いでいたに過ぎなかったから、こんなに距離が近くなかった。
それに、走り回るようなステップと適当なリズムの取り方だったから、しっとりした音楽が流れている今とではまるで雰囲気が違う。
心臓が、痛いくらい、どきどきしている。
触れ合っている手のひら、彼の手が触れている背中、空間が開いているとはいえ十分に近い胸。
そのどこかから、ディアナの心臓の鼓動が、フィリプに伝わっているかもしれない。
そう思っていても、彼のリードに従うために視線を合わせる。
アルコールも抜けたのか、もう目元は赤くない。
薄暗い中でも、フィリプの輝く瞳はよく見えた。
彼の重心の移動を感じて、右足を踏み出して、そのままステップを踏む。
曲に合わせて、ゆったりとしたダンス。
フィリプのリードは分かりやすくて、ディアナには踊りやすく感じられた。
得意ではないとおっしゃっていたのに、とディアナは内心彼を責める。
そうでもしないと、フィリプのことを好きだと自覚してしまいそうだった。
ついこの間まで、上流階級の殿上人で、住む世界の違う人だと思っていた相手なのに、一緒に暮らして、彼の気配りや人柄や、弱さに触れているうちに、どうしようもなく惹かれていた。
今、踊りながら、ディアナをリードしようと必死に考えているらしい彼の視線さえも、魅力的に見える。
フィリプが自分を妻に望んだなんて何かの冗談だと思って戸惑っていたのに、それが真実ならこの上なく幸せだ。
それでも、ディアナは、その思いを素直に認められなかった。
グスタフと生涯を共にすると神に誓ったのに、彼が死んだからって、その誓いをなかったことにはできなかった。
自動演奏が終わり、フィリプとディアナは一言も交わさないままダンスを終える。
気が抜けたのか、フィリプはちょっとため息を吐いた。
「ありがとう、ディアナ。楽しかった。いい気分転換になったよ」
先ほどまでの落ち込んだ様子はなく、フィリプはからっと笑って、ディアナの手を離した。
「はい、私も」
ディアナも、組んでいた手をゆっくりと下げて微笑む。
けれども、フィリプは微笑んだまま、何も言わずに動かない。
あら?と思いながら、ディアナも彼に合わせて何も言わずに、立っていた。
ふと、フィリプの右手が、頬に触れる。
この触れ方、前にも。
ディアナは、先日の図書館でのことを思い出す。
彼の右手が顎に下りるまでの間に、ディアナはそっと目を閉じた。
それはほとんど無意識の動きだった。
けれども、フィリプの右手がディアナの顎に下りてから、少しの間があって、それから手は離された。
こつ、と靴音がして、フィリプがピアノの方へ動いたのを感じてから、ディアナは目を開ける。
フィリプは、ピアノの譜面台の上に乗せていた楽譜を片付けていた。
今までにないフィリプの振る舞いに、ディアナは、どうしていいか分からない。
「ごめんね、ディアナ。さっき、手の甲に」
フィリプは、ディアナの方を見ずに、何でもないかのようにそう言った。
それでも、その先は続かない。
薄暗い中では、フィリプが唇を噛んでいるようにも見える。
一瞬なんのことかわからなかったけれど、ディアナはすぐに思い至る。
先ほど、リビングのソファで、ディアナはフィリプが手の甲にキスしたのを振り払った。
それで、今も、ディアナが嫌がると思って、途中でやめたにちがいない。
「ごめんなさい、旦那様…!嫌とか、そういうことじゃなくて…!」
ディアナの女性にしては低い声での叫びは、ファブリックの多い応接間では吸収されてそれほど響かない。
ピアノの片付けを終えたフィリプは、ディアナの言に曖昧に微笑みながら、ドアに向かっていく。
「明日は工房に行く日だよね。送り迎えはするから」
フィリプがドアを開ける。廊下の照明が眩しくてディアナは目を瞬いた。
「今日は先に寝るね。おやすみ」
ディアナの返答を待たずにフィリプは廊下に出ていく。
ディアナは、自分を置いていく年下の夫に、何も言えなかった。
心配したモニカが様子を見に来るまで、ディアナは応接間の床でへたり込んでしまっていた。
生活が急に忙しくなってしまいまして、投稿がずいぶん久しぶりになってしまいました。
おそらくしばらくはこんな感じの投稿ペースが続きますので気長にお付き合いくださいませ。




