君と一緒に過ごしていきたい
フィリプは、平日に帰ってくるのと同じくらいの時間に帰宅した。
ずいぶん疲れたような、うんざりしたような様子で、表情が常になくげっそりしていた。
それでも《お夕食は召し上がりますか?》とサシャが話しかければ、《食べる。準備をお願い》と笑顔で答えるし、ディアナが《おかえりなさい》と話しかければ、《ただいま》と頬にキスをする。
ちょっと元気がなさそうだけれど、体調が悪いわけではなさそう、と、ディアナは、フィリプを観察していた。
けれども、夕食後、フィリプは珍しく《お酒を飲もうかな》と、ウイスキーボトルを棚から取り出した。
結婚してから、フィリプが自宅でお酒を飲むなんてなかったから、ディアナはちょっと驚いた。
リビングルームで、ウイスキーを飲むフィリプの隣で、ディアナは、彼に何があったのか聞くに聞けずに、そわそわしながら本を読むしぐさをしていた。
視線は全く本を見ていないのに、ページをめくるディアナを見て、フィリプは苦笑する。
「どうかしたの?」
アルコールのせいか、フィリプの目元はちょっとだけ赤い。
ディアナは、それはこちらのセリフだ、と思いつつ、言葉を選びながら口を開く。
「旦那様の、お元気がないように見えて。どうなさったのかしら、と思って……」
表面上、普段と変わらないように振舞うということは、あんまり触れられたくないことなのかもしれない。
そう思って、ディアナはおずおずと尋ねた。
フィリプは、眉尻を下げて笑う。
「そうだよね。《どうかしたの》は僕が言うことじゃないか」
まったくそのとおり、とディアナはつい頷きそうになるけれど、失礼な気がして必死にこらえる。
フィリプは、ウイスキーをいれたグラスをローテーブルに置いて、膝の上に重ねたディアナの手に自分の手を重ねて、ちょっと握った。
ああ、これは真剣な話ね、とディアナは察して、フィリプの顔を見る。
けれども、フィリプの視線は二人の手にあるので、視線が合うことはない。
「隠しておいて、他から漏れるよりは、と思って話すね。今日、父に呼ばれて実家に行ってきた」
「ご実家に?」
それならそうと言っておいてくれればよかったのに、とディアナは思った。
結婚する前も、してからも、ディアナは夫の父に挨拶をしていない。
一度くらいお会いしなければ筋が通らない。
ちょっと唇を尖らせたけれども、フィリプの沈んだ様子に、ディアナは気持ちを切り替えて先を促した。
「お父様はなんておっしゃっていらしたんですか?」
励ますつもりで、ディアナはフィリプの手をぎゅっと握る。
フィリプは、一度唇を噛んで、それから口を開いた。
「……前も言ったと思うんだけど、僕は両親とそんなに仲が良くない。彼らは僕のやることなすこと気に入らないんだ。だから、君との結婚も、なんのかんのと言ってきている」
ディアナは、まあそうだろうな、と思いつつ、頷いた。
自分のようなどこの馬の骨か分からない女との結婚なんて、なんのかんのという方が普通だろう。
「ご挨拶だけでもできればいいんですけど……」
ディアナは遠回しに《挨拶の場をセッティングしてくれ》とお願いしてみた。
けれども、フィリプは、いや、と首を横に振る。
「そもそもね、僕は大学に入るときに親と約束をしているんだ」
ディアナは、話の変化にちょっと首を傾げながら、頷いて先を促した。
「ヘレナさんの前ではああ言ったけど、僕は研究者になりたかった。それを諦めて、商事を継ぐ代わりに、将来結婚する相手は自分で決める。父とは大学に入る前にそう約束したんだ。大学までは自由に過ごしていいけどっていうことでね」
フィリプは、顔をあげて笑った。
「そういう約束だから、本当は父が僕の結婚相手に口を出す資格はないんだよ。僕は、商事を継ぐつもりで今仕事をしているんだから。
それなのに、あの人は、仕事中とか休日とか関係なく、仕事のふりして僕を呼び出しては見合いを勧めてくる。今日も、仕事の話だと思って行ったら、どこだかのご令嬢の肖像画とかをさんざん見せられてね。もう結婚したって言っても聞く耳を持たない。
一度は《分かった》と言わせたんだけどね」
そう言って、フィリプは、ため息を吐きながら、また顔を伏せた。
ディアナが思っていたよりも、フィリプの父の《反対》の意思表示は強かった。
まさか、結婚している息子に見合いを勧めているとは。
話を聞きながら、ディアナは、フィリプの書斎から借りた《魔法工学の基礎》を思い出していた。
あんなにぼろぼろになるまで読み込んで、大学時代に相当勉強していたことが、ディアナにも分かった。
そもそも、フィリプは、3年も飛び級するほど頭のいい人なのだ。
そんな人があれほど勉強して、それでも、研究の道に行くのを諦めるというのは、自分の才能を捨てるようなものじゃないか。
「……どうしてそこまで、結婚にこだわっていらしたんですか?」
上流階級の方々の間では、政略結婚なんていうものがあると聞くし、庶民でも、ディアナとグスタフのように、年の近い適当な相手と適当にくっつくなんてよくあることだ。
結婚相手にそうまでこだわるのは、ちょっとだけ異質に見えた。
手をぎゅっと握って尋ねると、フィリプは、困ったように眉を寄せながら笑った。
「そうだな、やっぱり不仲な両親を見て育ったからかな。愛のある家庭にあこがれる」
ちょっとくさいことを言ったせいか、フィリプは照れたように目を伏せる。
彼の父は一代で財を成した成功者の一方、子爵家のご令嬢だった妻を冷遇しているらしいということをディアナは思い浮かべながら、そうですか、と頷いた。
「僕は大好きだって思える人と結婚したかった。
ディアナ、だからね、僕は、君と結婚できて本当に幸せなんだ。君は不本意だったろうけど、いつか、僕と結婚して幸せだったって思ってもらえるよう、頑張るから」
フィリプは、ディアナの右手を掬いあげるように持ち上げて、その手の甲にキスをする。
「……愛してるよ、ディアナ」
ディアナにすら、ほとんど聞かせる気がないようなささやき。
ディアナは思わず、右手を引いた。
いけない。
鼓動が、速くなっているのを自分でも感じる。
反射的に手を引いてしまってから、ディアナははっとしてフィリプを見た。
彼の赤い目元が、アルコールのせいだと思いたい。
彼の揺れる瞳が、ディアナの拒絶のせいだと思いたくない。
「ごめんね、嫌だったね」
嫌ではない。
嫌ではないから、ダメなのに。
ディアナは、うまく言葉にできなくて、ただ黙って首を横に振った。
フィリプの優しい微笑みに、なんていえばいいのか、ディアナには分からない。
優しい両親に愛されて育ったディアナには、仲の悪い家族というものが想像できなかった。
《愛のある家庭にあこがれる》と言ったのに、妻であるディアナはフィリプのその思いを受け入れることができなかった。
ディアナはまだ、グスタフが死んだことを受け入れられていない。
ディアナは、ディアナ・ノヴァークのまま、ここにいる。
そんなことが、ぐるぐると渦を巻くように、ディアナの心を圧迫した。
それでも、ディアナは、反射的に引いたまま下げていなかった右手を、フィリプの背中に伸ばした。
ディアナよりも2つも年下で、男性にしては小柄な、細い背中を、右手で撫でる。
ディアナの体温が、フィリプに伝わるように。
ゆっくり、優しく。
「ディアナ?」
瞬きをしながら、フィリプはディアナの顔を見つめる。
言うべき言葉はやっぱり分からなくて、ディアナはただフィリプの背中をなで続けた。
「……ありがとう」
ふっと笑って、フィリプは目を閉じる。
リラックスしているのかしら、と思ってディアナはほっとした。
「ディアナを連れて行くのはもう少し待っていて。今のままじゃ、あの人、君に何を言うかわからないから、僕が結婚を認めさせたら連れていく。これは、僕の意地みたいなものなんだ」
目を閉じたまま、フィリプは言った。
ディアナは、わかりました、と頷く。
もし、彼の父に挨拶できることになったときに幻滅されないように、フィリプの隣にふさわしい女性になれるように、頑張ろう。
ディアナは、唇を噛んで、もう一度頷いた。
「君と、一緒に過ごしていきたいだけなのに、どうしてあの人は邪魔するんだろう」
ため息を吐きながら、うるんだ声で、フィリプは呟く。
返答を求めていないだろうその呟きにディアナは何も言わなかった。
ソファに隣り合って座っているから膝が触れ合う。
ちょっと丸めたフィリプの背中を、ディアナは優しくなで続けた。




