ディアナ、腹痛に苦しむ
週明けの月曜日、ディアナは朝から体調が良くなかった。
腹痛がひどい。
なんとかいつもどおり起きて、キッチンまで行ったところで、サシャに顔色が悪いと指摘されて、ベッドに戻された。
ベッドに戻されたところで、寝ていたフィリプが起きた。
「ディアナ、どうしたの?」
寝起きのかすれた声で問われるも、なんと答えてよいかディアナは迷った。
正直に答えるのはちょっと恥ずかしい。
だからといって、嘘を吐くのも過剰に心配をかけてしまう気がする。
えっと、と口ごもっていたところで、サシャが口をはさんだ。
「おとといミュージックホールに行かれた疲れが出たのかもしれません。少しお顔の色がよろしくないので、お休みになるようお勧めしたんです」
昨日は元気にピンピンしていたのだから、それは無理があるだろう、とディアナは思ったけれど、フィリプはそうは思わなかったらしい。
「えっ……」
と、顔を青白くさせ、跳ね起きて、ベッドを妻に完全に譲った。
「ごめん、気づかなくて……。そうだよね、あんなに肩もデコルテも出るドレスだったもんね。ゆっくり休んで。サシャ、なにか食べやすいものを作ってあげて……」
ディアナは、自分の顔色が今どんな風かみえていないけれど、おそらくフィリプより悪いということはないだろう、と思った。
サシャの言葉は嘘だし、仮に本当だとしても、体調不良は別にフィリプのせいじゃないので、ディアナは申し訳なさ過ぎて、ごめんなさい、と小声で謝る。
けれども、フィリプは、首を横に振って、ディアナの体調を心配し続けた。
室温の心配とか、飲み物の心配とか、タオルがいるかとか、催眠魔法で痛いの軽減させてあげたいとか、最終的には医者を呼ぼうか、とまで言い出した。
恥ずかしいし、申し訳ないし、なによりそれどころじゃない腹痛で、ディアナは困っていた。
けれども、《いいからほっといて》とも言いづらく、助けを求めてサシャを見る。
心得た、と言わんばかりにサシャは頷いて、
「若旦那様、お仕事に遅れます。それに、若奥様はお休みになりたいかと。若旦那様がそのように張りついていらしたら、気も休まりませんわ」
と、フィリプを身支度へと促した。
それもそうか、とフィリプは眉尻の下がった顔のまま、身支度を始めるべく、衣装部屋に向かう。
寝室でサシャと二人になったディアナは、ありがとう、と礼を伝えて、ベッドで丸くなった。
ヘレナ先生の授業までに、なんとかよくなればいいのだけれど、と思いながら、ディアナは深呼吸を繰り返し、腹痛をやり過ごしたのだった。
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フィリプは、授業はお休みしてもいいからね、と何度も念を押してから出勤していったが、ディアナとしてはそうもいかない。
立派な淑女になるには、年末までにという期限ではただでさえ時間が足りないのだ。
それに、工房からきた手紙に返事を書きたい。
そのためには、ヘレナにまた書き方を教わらなければいけない。
結局、いつもよりコルセットを緩くして、楽なドレスでヘレナを待つことにした。
「……あら、ディアナさん。もしかして、体調、よくないのかしら?」
週末の様子などのちょっとした世間話のあと、すぐにヘレナに指摘されて、ディアナは、はい、と微笑んだ。
「あの、でも、大丈夫です。いつものことですから」
ディアナの答えに、ヘレナはちょっと心配そうに眉を寄せてはいるものの、そう、と頷く。
「無理しないでね。お休みしたくなったらいつでも言って」
ディアナは、ありがとうございます、と頷いた。
ちょっとの間、心配そうにヘレナはディアナの顔を見つめていたけれど、突然ちょっと笑う。
「その顔色だと、フィリプさん、相当心配したでしょう」
そんなに顔色、ひどいかしら、と思いつつ、ディアナは、そうですね、と苦笑する。
「それはもう、私より旦那様が心配になるくらいに。お医者様を呼ぼうか、とか、催眠魔法をかけたい、とか、大げさなほど心配してくださいました」
「目に浮かぶようだわ」
ヘレナは、くすくす笑った。ディアナもつられて笑う。
朝はそれどころじゃなかったけれど、今にして思うと彼の焦り方はちょっとコミカルだった。
二人でひとしきり笑ったあと、ヘレナは笑いをおさめながら思い返すように言った。
「それにしても、催眠魔法ね。確かに、彼、よく自分にかけているものね」
「そうなんですか」
たしかに、まだ結婚して1か月も経っていないディアナですら、一度自分にかけているところを見たことがあるのだから、年単位の付き合いがあるヘレナが何度も見たことがあってもおかしくない。
「ええ。論文の締め切りが近くて徹夜が続いたときでしょう、それで論文を提出して飲みに行って二日酔いで授業を受ける羽目になったときでしょう、卒業式で工学部首席の挨拶をしていたときでしょう。思い返すと結構あるわね」
指折り数えるヘレナに、ディアナは首を傾げた。
「そういうときに、どういう催眠魔法を使っていらしたんですか?」
先日催眠魔法についてフィリプが教えてくれたけれど、まだまだ分からないことが多い。
ディアナの問いに、ヘレナは、そうねえ、と頬に人差し指をあてて視線を上に向けた。
「徹夜が続いたときと、二日酔いのときは、頭痛を軽減させていたんだと思うわ。挨拶をしたときは、緊張を軽減させていたんだと思う。実は私も催眠魔法についてはよく知らないのよ」
ヘレナはちょっと恥ずかしそうに目を伏せる。
ヘレナ先生も知らないくらい催眠魔法って難しい魔法なのね、とディアナは目を丸くした。
ついでに、フィリプが締め切りに追われたり、お酒を飲みすぎたりするような一面があることにも驚いた。
「そんなことに、旦那様は催眠魔法を……」
徹夜なんてしたことないし、二日酔いになるほど飲んだこともない上に、大勢の前で挨拶なんかもしたことがないディアナにとって、その辛さは想像するしかないが、正直なところ、そんなくだらない理由で、催眠魔法を使うというのは、なんだかもったいない気がする。
別に減るものじゃないからいいのかもしれないけれど。
ふと、ディアナの部屋のドアがノックされて、サシャが入ってきた。
「お飲み物を、お持ちいたしました」
まずいわ、とディアナはちょっと焦った。
サシャがハーブティーを淹れている間、ヘレナは、話を続ける。
「私も周りも、よく言ったわ。でも、やるべきことを前に頭痛くらいで本領発揮できないのは悔しいとか言って、催眠魔法で誤魔化していたのよ。そんなこと言うくらいなら、そもそも飲みすぎたりしなきゃいいんだけどね」
サシャは、フィリプが催眠魔法を使うことをよく思っていない。
先日のジャガイモの入ったオムレツのとき、フィリプはサシャに催眠魔法を使っていることがばれないように注意を払っていた。
でも、ヘレナはそれを知らない。
ディアナはサシャが視線を向けていないタイミングで、ヘレナに向けて人差し指を唇に当てる。
正直、ヘレナの話は何も聞いていなかった。
ヘレナは、え?と首を傾げつつも、頷いて、話題を変えてくれた。
今日の授業では手紙を書きましょう、とか、ドレスが素敵ね、とか。
ばれていないかしら、とディアナはちらりとサシャに視線を向ける。
「若奥様、いかがなさいましたか」
サシャの表情は、ディアナにはよくわからない。
けれども、ひとまず気づかれなかったということだろう。
それか、知らないふりをしてくれている。
ディアナが、なんでもないの、と愛想笑いをして、飲み物の礼を言うと、サシャは一礼して去っていった。
ふぅとため息を吐いてから、ディアナは、サシャに催眠魔法のことは秘密なのだとヘレナに説明した。
合点がいったようでヘレナは大いに笑う。
「フィリプさん、目的のためには手段選ばないところあるから。それにしても、ジャガイモの入ったオムレツのために催眠魔法を使うなんて、すごく贅沢な使い方だわ」
ジャガイモの入ったオムレツについては、フィリプの名誉のために伏せてあげた方が良かったかもしれない。
ヘレナが笑っているのを聞きながらディアナはちょっと後悔した。




