ショーの終わりと馬車のなか
ショーも終盤に差し掛かるころ、フィリプは《手を洗ってくる》と言って中座した。
饒舌なイヴァンはよく喋ってくれるため、沈黙が気まずいということはない。
けれども、貴族のイヴァンと二人きりにされてディアナはものすごく緊張していた。お酒を飲んでいなかったら逃げ出していたかもしれないほどに。
早く旦那様戻ってきてくれないかしら、と願いつつも、イヴァンの話に相槌を打つ。
「ディアナさん」
ふと、イヴァンが真剣なまなざしでディアナに呼びかけた。
「なんでしょう?」
今まで雑談に興じていたイヴァンの雰囲気とは違っていて、ディアナは《何か粗相を!?》とハラハラしながら返事をする。
ディアナの心配とは裏腹に、イヴァンは、騒がしい劇場内で、少しディアナの方に身を乗り出して、内緒の話をするように小声で言う。
ディアナはつられて彼の方に耳を寄せた。
「フィリプは、ずっとあなたに片思いをしていたんです。酔っぱらうと、いつも既婚者のあなたと結婚できないことを嘆いていた。彼と結婚するのは、あなたにとって不本意だったかもしれませんが、フィリプはずっと望んでいたんです。あなたが感じる幸せに俺は口出しできません。だから、そうと知っておいていただくだけでいいんです。でも、フィリプの友人として、あなたに彼の想いを無下にされるのは、少しつらい」
そう言って、イヴァンは眉尻を下げて笑った。
「俺が言ったということはフィリプに内緒にしておいてください。余計なことを、ときっと怒るから」
ディアナは、言われた内容をほとんど理解できていなかった。
一旦思考を放棄して、難しいことは、ひとまずお酒が抜けてから考えることにしよう。
ディアナは、わかりました、と微笑んでみせた。
「なんで僕がいない少しの間にこんなに二人の距離が近くなっているのかな」
と、フィリプがディアナの隣の席に戻ってきた。
ちょっと不機嫌に眉を寄せているから、ディアナはつい大げさなくらいのけぞってしまう。
「別に大したことじゃない。騒がしいから聞こえるようにちょっと近づいていただけだ」
イヴァンは、両手を軽く挙げて、飄々と答える。
「へえ、なんの話をしてたの?」
フィリプにいぶかしげな視線を向けられたイヴァンは、さらっと流れるように嘘を吐く。
「ここで演奏されている音楽は、どうして魔法が発動しないのか、とディアナさんがおっしゃるから、発動していないのではなくて気づいていないだけだ、と話していた」
少々酔っぱらっているディアナは、イヴァンが嘘を吐いた目的にさっぱり気づかず、
「えっ、そうなんですか」
と声を上げた。
声を上げてから、口を手で覆う。
けれども、フィリプの怪訝そうに寄った眉間のしわは一層深くなった。
「違うらしいね?」
イヴァンは何も言わずに肩をすくめた。
ごめんなさい、とディアナは内心謝罪する。
「お、お答えを聞くより先に、旦那様が戻っていらしたから、答えを付け足してくださっただけなんです」
苦しい言い訳かしら、と思いながらも、フィリプに微笑みを向けた。
お酒が入っているせいで、少しだけ気が大きくなっているディアナは、イヴァンにも、ね?と視線を向ける。
「ああ、そうだな。ディアナさんのおっしゃる通り」
ディアナがいったん覆してしまったけれども、彼の言い訳をなんとか引き継げた。
イヴァンも、なんということもない風に、さらりと頷いてディアナの言い訳に乗る。
フィリプは、イヴァンとディアナ、それぞれをいぶかしげに見つつも、最終的にはため息を吐いた。
「やっぱり、ディアナをイヴァンに紹介したのは失敗だったかな」
フィリプの不機嫌そうな呟きに、ディアナは、なんだか誤解された気がして、唇を尖らせた。
勝手に妻の不貞を疑って、自分の友人にまでケチをつけるような男に、訂正してやる義理はない、とディアナは強気に考えた。
ディアナは、そういう貞淑さのある女だと自負している。
少なくとも、夫以外の相手に胸を高鳴らせたことなんてないのだ。
まだ少し恨みがましそうなフィリプを無視して、ディアナはイヴァンに話を振った。
「あの、先ほどの、ここでの音楽の話、お聞かせくださいますか? 魔法の効果に気づいていないだけってどういうことでしょう?」
ディアナがフィリプになんのフォローもしなかったことにイヴァンは多少驚いたようで、《え、ええ》とぎこちなく笑った。
「鑑賞用の音楽やダンス音楽は、《みんなが幸せになるように》や《楽しい気持ちになるように》などの、そういう曖昧な意味の魔法陣を演奏しているんです。ですから、魔法として発動はしていますが、我々のようにお酒を飲みながら聞く人も多いですし、音楽はただでさえ気分が高揚しますからね。そういう意味で、発動していても気づかないんです。どちらかといえば、魔法というよりおまじないに近いでしょうか」
へえ、とディアナは目を丸くした。
音楽にそんな効果があったとは。
「新年に宮廷楽団が演奏会を開くのも、《この一年の王国が、幸福で満たされますように》というおまじないをかける意味でして。オーケストラで長い曲を演奏するので、王国一年分の幸福を招来できるんですよ」
イヴァンは、本当にそう信じているというような、真剣なまなざしで言った。
美形の、熱を帯びた視線に、ディアナは天使のお告げを聞いたような気分になりつつ、《初めて知りました》と相槌を打った。
けれども、イヴァンは、すぐに表情を緩めて、笑っていった。
「まあ、そうだといいな、という話です。もし本当に、オーケストラの演奏にそこまでの効果があるとしたら、王国にお酒も麻薬も要らないでしょう」
それってどういうこと?と聞こうと、ディアナが口を開くより先に、フィリプが軽く手を挙げた。
「イヴァン、今日は楽しかった。ショーも終わるし、そろそろお開きにしよう」
一階のステージを見ると、出演者がお辞儀をしている。
カーテンコールも含めればまだショーは続くのだが、完全に終わってからだとメインエントランスや馬車乗り場は人でごった返してしまう。
フィリプはそれを懸念しているのか、そわそわした様子でイヴァンに提案した。
「そうだな。ディアナさん、今日は会えて楽しかった。またお会いできると嬉しいです」
イヴァンもその提案に賛成して、ディアナにウインクをした。
キザすぎて、思わず硬直してしまった。
社交辞令に社交辞令で返せるほど、ディアナは淑女ではなかったため、ぎこちなく微笑みはしたものの特に言えることがない。
ええ、とか、はい、とか曖昧に頷いて、誤魔化す。
「やっぱり、君にディアナを紹介するんじゃなかった!」
フィリプは悲痛に声をあげ、イヴァンは楽しげに両手を挙げる。
やっぱり、旦那様は誤解しているわ、とディアナは眉を寄せた。
ディアナはそんな女じゃないというのに。
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帰る馬車のなかで、フィリプはちょっと酔っているせいか、いつにもまして饒舌だった。
普段であれば、ディアナが理解できているかどうかを気にしながら話すのに、今日ステージで演奏されていた音楽にどういう魔法的効果があったのかを、甘くとろけるような声でただただ話し続けていた。
ディアナもディアナで、普段であれば、分からないなりに、相槌を打ったり、質問をしたりするのだけれど、酔っぱらったのと慣れない場所で疲れたのとで非常に眠くなっていた。
そこに、フィリプの、聞いている方が眠くなる声で、よく分からない話をされ続けているからなおさら眠くなる。
うつらうつらとしているところに、《ディアナ、眠いの?》と話しかけられて、遠慮も何もなく、曖昧に頷く。
《家まで眠っていていいよ》というフィリプの声を待つまでもなく、ディアナはほとんど眠りに落ちていた。
まっすぐ座って目を閉じる。
馬車のなかということもあって、座ったままだと寝づらい。
少しして、ディアナの左の肩をフィリプが抱き寄せた。
《もたれていいよ》とフィリプが言うので、ディアナは遠慮なく彼の肩に頭をのせる。
やっぱり、こんな風に胸が高鳴るのは、夫に対してだけなのに。
ディアナは、そう思いながらも夫の誤解を解くようなことを何も言わずにいた。
今はとにかく眠かった。