フィリプの悪友と乾杯
「なにはともあれ、結婚おめでとう」
ステージではそろそろショーが始まるらしく、劇場内はそわそわした空気でいっぱいだが、一階席に比べて二階席は観客が少なく、雑談に興じる者が多い。
三人はサーブされたスパークリングワインで乾杯をした。
「ありがとう。もう毎日幸せでいっぱいだよ」
フィリプのとろけたような声音に、ディアナはいたたまれなくなって、ちょっと俯いた。
「そりゃ、君はそうだろうな。ディアナさんはどうですか」
イヴァンに話を振られて、ディアナは顔を上げる。とっさに答えが出なくて、曖昧に、ええ、と微笑んだ。
そんなディアナの様子を見て、イヴァンは、くつくつと喉の奥を鳴らしながら笑った。
「本人を前にしちゃ答えづらい質問ですね。忘れてください」
ディアナは、すみません、とつい謝るけれど、謝ったことがそのまま質問への答えになっていることに気づいて、口元を手で覆った。
「いや、うん、わかっているんだけどね。うん……」
ちょっと落ち込んだような様子のフィリプに、ディアナは、慌てた。
「あ、あの、旦那様、違うんです。急でしたから、その…。もちろん、幸せです、私。でも、どういっていいのか…。幸せって、わからなくて…」
必死に言い募るけれど、言えば言うほど、嘘っぽくなるような自分の言葉にディアナはますます取り乱した。
幸せなのも嘘じゃないけれど、幸せかどうかわからないのも嘘じゃない。
フィリプは、眉尻を下げて笑って、大丈夫だよ、と言うけれど、ディアナの言いたいことの半分も伝わっている気がしなくて、ちょっと泣きそうな気持ちになりながら、言い募るのをやめた。
「それにしても、フィリプ、《旦那様》と呼ばれているのか。似合わないな」
イヴァンは、ちょっとまずいことを聞いてしまったと思ったのか、咳払いをして話題を変えてくる。
それに対して、フィリプは、そうなんだよ!と悲痛に声を上げた。
「僕としては、名前で呼んでほしいんだけどね」
フィリプは恨みがましく、ディアナを横目で睨む。
《旦那様》呼びを変える気のないディアナは、誤魔化すべく、愛想笑いを浮かべる。
「でもヘレナ先生は、私の立場だったらそうなるとおっしゃってくださいました」
虎の威を借る狐。
ヘレナの威を借るディアナ。
実際、フィリプには有効だったようで、彼は押し黙ってため息を吐く。
「先生、というと、なにか授業でも?」
イヴァンは、ディアナの発言の《先生》の部分に引っかかったようで、ディアナにそう尋ねてくる。
けれども、ディアナが答えるより早くフィリプが口を開いた。
「うん。文字とか、魔法とか、家庭教師を頼んでいるんだ」
「文字。というと、失礼ですが、ディアナさんは文字を?」
イヴァンは、相当驚いているのか、切れ長の目を見開いて呟くように尋ねる。
そりゃ驚くわよね、とディアナは苦笑した。
《ペトラーチェク商事》の副社長の妻が文字を読めないだなんて、と自虐的に笑いつつ、ディアナは頷いた。
「ええ。でも、少しずつ読めるようになってきました」
ディアナの答えに、イヴァンは、そうですか、と頷いて、それからまた口を開く。
「確か、ディアナさんは、《時計工房 ノヴァーク》の工房長の、奥様でいらっしゃったとか。不勉強で申し訳ないのですが、あのあたりの識字率はそう高くないのでしょうか」
《不勉強》なのは明らかにディアナの方だ。
その証拠に《識字率》がなんなのかわからないディアナは、助けを求めてフィリプを見る。
フィリプは、仕方ないな、という風に笑って、妻に耳打ちするように声をひそめた。
イヴァンに聞こえないように、というよりは友人同士のちょっとしたいたずらのような雰囲気だ。
「悪いね、ディアナ。イヴァンは貴族の出身だからさ、そういうことが気になって仕方ないらしいんだ。どうか答えてあげて。18番街のあたりの人はみんな字が読めないのかってイヴァンは聞いている」
ディアナはひえっと小さく悲鳴をあげた。
そうだろうとは思っていたものの、実際にイヴァンが貴族だと聞いてしまえば、より緊張してしまう。
ディアナは、震えながら、言葉を選びに選んで、考えに考えて、答える。
「みんなではなくて、男性のほとんどは読み書きができると思います。女性は、なんとも…。読める人も、読めない人も、珍しくなくて」
ディアナの答えに、イヴァンはちょっと悩まし気に目をつむって考え込んで、それから微笑んで口を開く。
「ありがとう。すみません、ディアナさん、こんな場で。つい職業病が」
ちょっと照れたようにほほをかくイヴァンに、ディアナは、美形はこういう表情でも絵になるのね、と感心した。
「ほんとだよ」
と、フィリプは笑って、イヴァンを小突くふりをする。
イヴァンとフィリプは軽口を応酬して、スパークリングワインを追加した。
飲むペースが二人ともずいぶん早いのね、とディアナは内心心配しつつも、何も言わない。
二人とも、そんな心配をされるような年じゃないだろう。と思ったけれども、ディアナは、イヴァンの年を知らない。
フィリプの件を猛烈に悔いているディアナは早いところ確認しておこう、と考えて、男二人の会話の切れ目をなんとか狙って尋ねてみた。
「おふたりは、どちらでご一緒だったんです?」
敬語は正しかったかしら、とか、さまざまに気にかかることはあるけれども、いよいよショーが始まった劇場内の熱気に影響されて、ディアナは細かいことはどうでもよくなってきていた。
フィリプとイヴァンは顔を見合わせる。
「どこだった? 学園通りのカフェ?」
「いや、ここじゃなかったか? それか、市庁舎の方の、ワインの品ぞろえが良いあの店じゃないか?」
「それはない。あの店は、僕が君に紹介した店だ」
「それを言ったら学園通りのカフェもない。あれは俺が君を連れて行った」
次から次へと、アルコールを提供する店が候補として挙げられて、ディアナはちょっと面食らった。
「もしかして、お二人は、お酒友達でいらっしゃるんですか」
男二人は、笑って頷いた。
「そうだね。どこが最初かは忘れたけど、いろんなところで居合わせたもんで、気づいたら仲良くなっていた」
「お互い酒を飲んでいる状態で会っているから、どこで会ったとか、そういうことは結構あやふやだけれど、仲良くやってますよ」
フィリプもイヴァンもちょっといたずらっぽい笑顔を浮かべて言った。
思ったよりもろくでもないきっかけでの出会いで、ディアナはちょっと貴族へのあこがれが崩れるのを感じた。
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それから、三人は他愛のない世間話に興じつつ、ショーも楽しみ、男二人は大いにお酒も楽しんだ。
イヴァンは、自分がディアナと同い年であることや、外交官という仕事の話、社交界の話など、お酒が入っているのも相まってかよくしゃべった。
そのクールな美しさには似合わない饒舌な語りぶりにディアナはちょっと戸惑いつつも、なかなか楽しい時間を過ごした。
ディアナが口を挟める話は少なく、基本的に聞き役に回っていた。
けれども、ディアナが話し手に少しだけ回れた話もあった。
王都内の観光名所の話になり、ディアナは、何気なく市庁舎の話を持ち出したのだ。
「水曜日に、家庭教師の先生に市庁舎に連れて行ってもらいました。王朝の交代の歴史を学ぶために、見学に行ったんです」
結婚の際にも行った市庁舎だったが、ヘレナの詳しい解説付きでめぐる市庁舎は、それはそれで楽しかった。
フィリプは、ディアナの話ににこにこ相槌を打ち、イヴァンは目を輝かせて話をつなげる。
「ああ、市庁舎。クジェルカ朝の時代の宮殿ですね。いかがでしたか」
「勉強になることが多かったです。不勉強なもので、私、国の歴史なんてさっぱり知らなくて。《王朝歴》が《クジェルカ朝》から《パストルニャーク朝》に代わって何年、っていう意味だっていうのも、初めて知ったんです」
先ほどイヴァンがした《不勉強》という言い方を真似していってみると、イヴァンもフィリプも、しみじみといった様子で頷いた。
「ディアナは頑張っているよ。文字を読み始めてまだ2週間なのに、歴史の勉強まで」
「本当に。家庭教師の先生も、フィリプもいることだし、あまり意味はないかもしれませんが、俺もいつでも力を貸しますので」
まさかイヴァンにまでそういわれるとは思っていなかったディアナは、恐縮して、とにかくお礼を伝える。
恐縮して気まずいので、ディアナはなんとか話題を変えようと、習ったことを必死に思い返しながら口を開く。
「あ、ああ、でも、子どものころ、クジェルカ卿が脱走したというニュースの意味がよくわからなかったんですけど、数年越しで謎が解けた気分でした」
ペシュニカ夫妻も、クジェルカ卿が脱走したというニュースを気にかけていた。
現王朝のパストルニャーク家と争ったクジェルカ家の子孫は、王家の監視体制のもとに置かれていたが、ディアナが子どものころ、そのクジェルカ卿が脱走したというのは大きなニュースとなっていたのだ。
そのニュースの記憶はあったけれども、意味はさっぱり分かっていなかった。
ディアナは、クジェルカ朝の数々の悪行を授業で習って、そんな家の子孫が脱走しただなんて、と震撼した。
ディアナの言葉に、イヴァンもフィリプも、ちょっと笑った。
「勉強すると、そういうことが結構あるでしょう」
ディアナは、確かに、とはっとして頷く。
「旦那様がおっしゃっていた、勉強は楽しいってこういうこと、ですか?」
ディアナの問いに、フィリプは笑って、そうそう、と言った。
文字や魔法陣を学んだことで、今までなんとなく受け入れていたことも、意味が分かるようになったこともある。
今まで知らなかったつながりや背景が少しだけわかるようになった。
ディアナは、お酒で気分が良くなっているのも相まって、すごいすごい、と繰り返す。
フィリプもまた、お酒で高揚しているのか、ディアナがちょっとはしゃぐのに合わせて、そうだね、そうだね、とにこにこ言う。
「友人の奥方が、良い人そうで安心したよ」
と、ペトラーチェク夫妻を見ながら、イヴァンはからっと笑って、ワインを数本追加したのだった。
3人での会話シーンにめちゃめちゃてこずりました。




