夕暮れのひととき
「まあ……」
螺旋階段を登ったところでディアナは立ち止まった。
下で見るのと、上で見るのとでは、同じものを見ても、影の出方が異なって、印象が変わる。
誰もいない夕方の図書館の中は、静かで、美しくて、少し切ない。
ディアナは、つい口を手で覆って言葉を失った。
フィリプはちょっと笑いながら、回廊の手すりに凭れて旧図書館を見渡す。
彼の隣に立って、ディアナも旧図書館を見渡した。
「きれいです、ここ……。旦那様、連れてきてくださって、ありがとうございます」
夫の方に鼻を向けながら、視線は図書館から離せない。
「うん、きれいだよね。僕もここ好きで、学生時代はよく来たんだ」
フィリプの甘い声が郷愁を帯びる。
ディアナは、彼の声がもっと聞きたくて、そうなんですね、と先を促した。
「また今度来たときに、ここの展示とか、本とか、ちょっと読んでみよう?古い資料が多いから貸出はないんだけど、ここで読む分には本も自由に読んでいいし、解説展示も充実しているんだ」
展示?と思って、ディアナはちょっとだけ首を伸ばして1階部分を覗く。
本棚と本棚の間に、ガラスケースのようなものが置いてあるのが見えた。
あれが展示ね。
「はい、旦那様。また、連れてきてください」
ディアナは図書館の内装を眺めたまま、微笑んで答えた。
夕方のここもきれいだけれど、昼間はきっとまた印象が異なるだろう。
ぜひ見てみたい。
展示や本が読める自信はまだないけれど、ディアナには《辞書》があるのだ。
これからなんとでもなる。なんとかしよう、とディアナは心に決める。
二人の間には言葉もなく、ただ回廊で時間が過ぎていく。
「ああ、そうだ、ディアナ。ハネムーン、どこ行きたい?」
なんの脈絡もなく、フィリプはそう口にした。
あまりの脈絡のなさに、ディアナは、え?と彼の横顔を見る。
特に変わった様子もなく、思いついたから聞いただけといったように、彼は横顔のまま肩をすくめる。
「どこ、どこ…? いえ、特に希望は…。旦那様のおすすめのところが良いです」
観光地どころか、地理もほとんど知らないディアナは、希望を問われてもわからなかった。
それに、フィリプがディアナに見せるものは、みんなきれいで素敵だ。
彼が良いと思うものは、きっとディアナも好きになれる。
「そっか」
ちょっとだけ彼のまつげが伏せられて、なにかまずいことを言ったかしら、とディアナは不安になった。
けれども、謝るにも見当がつかなくて、何も言えない。
ディアナは、彼の様子をうかがいながら、視線をまた図書館の内装に戻した。
「僕はね、ディアナ。君と、同じものが見てみたい」
フィリプの囁きに、ディアナは首を傾げた。
今も見ているのに。
フィリプは少し沈黙をしてから、また口を開く。
「こうして一緒に見ているけれど、僕とディアナじゃ、この場所に対する思い入れが違うと思うんだ。だからきっと、この場所に重ね合わせる思いが、違って、なんていうか、同じものを見ていても、気持ちを共有できている、と思えなくて」
フィリプの言いたいことを理解しようと、ディアナは夫の顔を見る。
彼の顔が赤く染まっているように見えるのは、夕日のせいだろうか。
「だから、つまり、君と、まったく知らない景色を見て、同じように感動して、同じように思い出にしたいんだ。きっとこれから先、そういう機会はいっぱいあると思うんだけど、ハネムーンから、そうしていきたい」
「えっと…?」
《つまり》と言われても、なにがどう《つまり》なのかよくわからない。
けれども、夫が言いたいことをなんとか咀嚼しようと試みる。
「えっと、だから、ハネムーンは、僕のおすすめよりも、僕もディアナも行ったことがないところに行きたいんだ。ハネムーンを僕らの最初の思い出にしよう?」
フィリプは、眉尻を下げて笑った。
1テンポ遅れて、ディアナは、フィリプの言いたいことを理解する。
「最初の思い出、ですか」
つい繰り返してしまう。
「これから一緒に生きていくんだから、最初の思い出、でしょ?」
フィリプは、手すりに凭れたままディアナに微笑みを向ける。
ディアナは、ちょっと戸惑いながら、ゆっくり頷く。
フィリプが自分に優しくしてくれていることはよく分かっていた。
尊重してくれていることもよくわかっている。
けれども、フィリプが、ディアナと生きていく、ということを考えてくれていることは、よくわかっていなかった。
時期がきたら離婚するとか、そういうことを約束していたわけではないから、どんな形であれ、確かに今後の人生を一緒に過ごしていくことになるだろう。
けれども、それを改めて意識して、ディアナはちょっと照れた。
ディアナが照れているのがフィリプにも伝わったようで、彼はおでこをかく。
「まあ、すぐにじゃなくてもいいから、ハネムーン、行きたいところ考えておいて」
フィリプの照れ隠しのような早口に、ディアナは、はい、と頷いた。
気恥ずかしくて、つい沈黙してしまうけれど、それを誤魔化したくて、ディアナは、なにか話題を、と思って口を開く。
「それにしても、きれいですね」
見えるものが違う、と言われたばかりだけれど、きっと、今見ているものが《きれい》だというのは変わらないだろう。
彼はまだおでこをかいているけれども、そうだね、と返事をした。
でも、それ以上、話を広げてくれない。
「旦那様は、本がお好きなんですか?」
なんでもいいからおしゃべりがしたいディアナは、今度はそう尋ねてみる。
彼の書斎には本がたくさんあるし、今日案内されたのは書店に図書館と本にまつわる場所ばかり。
ディアナは、夫とおなじものが見えるようになりたいという思いもあって、質問をした。
「本、本か。うん、まあ、そうだね」
おでこをかくのはもうおさまったらしく、両腕を組んで手すりに凭れるフィリプ。
「本はもちろん好きだけど、それ以上に、なんていうか、人間が好きだ」
呟くようなその言葉に、ディアナは首を傾げる。
「人間が?」
ちょっとカッコつけてしまった、と思ったのか、フィリプは照れたように眉を寄せながら目を閉じて頷く。
「うん、ちょっと言い方が分からないけど」
なぜ本から人間に話が飛ぶのか、ディアナにはわからない。
それでも、彼の考えを知りたいと思うディアナは、なんとか考えてみる。
ディアナだって、好きなひとはたくさんいる。
両親やグスタフや工房の仲間もそうだし、サシャやヘレナだって好きだ。
けれども、ディアナが好きなのは、身近な人間であって、人間ではない。
……やっぱりわからない。
「ここもそうだけど、書店も、たくさんの本がある。本は、知識だ。人間の営みの結晶だと僕は思っている。本を作る人間にも読む人間にも、人生があるんだ、と思うと、なんだか愛おしくてたまらない。うん、人間の営み。僕はそれが好きなんだと思う」
フィリプは、ちょっと眉を寄せながらそう呟く。
本人ですらよくわからないことが、彼よりもずっとずっと知識もないディアナに理解できるわけがない。
そう感じてはいるけれど、いつかは知識をつけて彼がいうことを理解できるようになりたい。
ディアナは、今は理解できなくても、フィリプが言ったことを覚えておこう、と思った。
「人間の営み、ですか」
「うん。人間が、人を愛したり、嫌ったり、エゴイスティックに主張したり、聖人のように生きたり、ごはんを食べたり、発展しようと頑張ったり、そういうすべてが、なんていうか、愛おしくない?」
フィリプは言いながら、照れたのか、ディアナに話題を投げてくる。
全く考えたこともないし、そう聞かれてもピンとこなくて、うーんとちょっと首を傾げた。
「まあ、しょせん22歳の若造が言うことだからさ、気にしないで忘れて。ディアナ、そろそろ帰ろうか」
夕焼けも赤みを増して、そろそろ暗くなってくるころだ。
フィリプは忘れてというけれど、ディアナは覚えておこう、と決めて、はい旦那様、と返事をする。
上ってきた螺旋階段に向かおう、とディアナがそちらに足を向けようとしたら、フィリプが呼び止めた。
「ディアナ、ちょっと、待って」
はい、と夫の方を振り向く。
外で夕の礼拝の時間を告げる鐘が鳴っているのが聞こえてきた。
聖堂が近くにあったから、それはもうよく聞こえる。
フィリプが、ディアナに何か言ったのが聞こえないくらいに、鐘の音は大きい。
引き留められて振り向いて、《…いい?》と語尾だけ聞こえた。
なんておっしゃったのかしら、と思いつつ、ディアナは曖昧に頷いた。
フィリプの、甘い視線に見つめられて、何とも言えず居心地が悪い。
けれども、視線が合っているのをそらすのも悪い気がして、じっと彼を見つめ続けた。
フィリプの右手が、ディアナの頬に添えられて、そのまま顎に彼の指は動いていく。
革の手袋ながら、柔らかくて、触られても嫌な気はしない。
顎に添えられた指で、ちょっとだけ上を向かされて、え?と思ったときには、唇と唇が重なっていた。
あ、旦那様は、《キス、してもいい?》とおっしゃったのね、とディアナは遅れて理解する。
それを理解してから、今度は遅れてフィリプがディアナにキスをしていることを理解した。
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旧図書館を出て、自動車に乗り、帰ることになったけれども、二人とも緊張してしまっていた。
なにも喋らず、フィリプは運転をし、ディアナは車窓から景色を眺める。
二人の家の近くの教会前まで来たとき、教会からたくさんの人が出てきた。
夕方の礼拝の終わりの時間らしい。
腰の曲がったような女性もいれば、元気に走って帰宅するのであろう子どもの姿もある。
若いカップルも見えた。
ディアナは、ふと、胸に痛みを覚える。
グスタフと、礼拝に行ったことを思い出したのだ。
特に信心深いわけでもなかったけれど、たまには二人で神の家に行った。
もう日もほとんど沈んで、薄暗くなった景色が、余計にディアナを感傷に浸らせる。
グスタフが、今の私を見たらきっと軽蔑するわ、とディアナは思った。
グスタフが死んでまだ二か月経っていないのに、年下の男性と結婚して彼の言動に胸を高鳴らせているなんて、恥知らずにもほどがある。
ディアナがフィリプと結婚することになったのは、そもそもグスタフの借金のせいだけれども、グスタフが借金をしたのだってやむをえない事情だったのだ。
だから、ディアナとしてはそのことを責めるわけにはいかない。相談してくれればよかったのに、とは思うけれど。
ディアナには、もう、自分の気持ちがよくわからなくなっていたけれど、とにもかくにも、人から恥知らずと思われるのは、避けたかった。
フィリプに胸を高鳴らせることがあっても、それは秘めておくことにしよう、とディアナは内心で決めた。
夫が恥知らずの女の夫だと謗りを受けないように。
次は16日の火曜日更新を目指します。




