さわっちゃった
店内を、足音を立てないようにして二人は歩く。
「読みたい本があったら、いくらでも言ってね」
というフィリプに、仮に遠慮したとしても押し切られるだけだということはわかっているので、ディアナは、はい、と頷いた。
初めて書店というものに足を踏み入れたディアナは、きょろきょろとあたりを見回してみる。
本の表紙や背表紙に書かれたタイトルは、読めるものと読めないものが混在している。
助詞がちょっとだけわかる本もあれば、絵本のような子ども向けのものでタイトルがすべて理解できるものもある。
それと、表紙の色がきれいか、きれいじゃないかはわかる。
自分の背丈よりも高い本棚にたくさんの本が詰め込まれて売られている様に、ディアナは胸が高鳴るのを感じた。
今はまだわからないけれど、もう少し字が読めるようになればここにある本、みんな読めるようになるかしら。
勉強なんて、と思っていたディアナではあったが、《じしょ》と読めた喜びは、勉強に対するディアナの気持ちを前向きにさせた。
なによりも年末のパーティーに向けて、教養を身につけねばならないのだ。
やらなければならない義務感が先行していたけれども、前向きになったディアナはちょっとだけ気持ちが軽くなった。
パーティーのことを考えていたせいか、表紙に「マナー」と書かれた本が目に入る。
《になるためのマナー》と書かれているのは読めたけれど、何になるためのマナーなのかわからなくてその表音文字をじっと見つめる。
知らないのだから見つめたところわかるわけでもない。
けれども、ちょっと足を止めて見つめたせいか、フィリプが、ん?と彼女の視線の先を追う。
「これ?」
とフィリプは少しだけ頭上に手を伸ばして本を取ってくれた。
表紙を見せるように陳列されていたからか、ディアナがどの本に興味を持ったのかがすぐにばれてしまった。
ちょっと恥ずかしくて、目をつむって頷く。
「表紙、読めたの?」
フィリプの優しい声にディアナは首を横に振った。
「《マナー》と書いてあるのは、なんとか…」
フィリプはふふっと笑って、小声でささやくようにタイトルを読み上げる。
「淑女になるためのマナー」
なるほど、《しゅくじょ》って読むのね、とディアナは目を開けて、フィリプが持つ本の表紙を見る。
柔らかな桃色の表紙に、くすんだ緑色でタイトルが書かれているかわいらしい装丁の本で、確かに淑女になりたい層に受けが良さそうではある。
「たしかに、食事のマナーとか気にしていたもんね。ディアナのマナーが悪いなんて思ったこともないけれど、不安なら教師でも探そうか」
そう言いながら、フィリプが本棚に《淑女になるためのマナー》を戻そうとするので、ディアナはとっさにその手首をつかんでしまった。
「えっ?」
「旦那様、私、その本、その本が欲しいです」
ディアナは、教師を一人雇うのにいくらかかるのか具体的には知らないが、おそらく本一冊の値段よりはずっとずっと高いだろうことは予想が付いた。
ヘレナだってつけてもらっているのに、この上さらにもう一人なんて申し訳なさすぎる。
ディアナはそう考えて、フィリプの手首をつかんでとっさに止めたのだった。
「お願いします、旦那様」
言いながら、ディアナがフィリプの顔を見ると、彼の顔は真っ赤になっていた。
どうしたのかしら?
ディアナはちょっと首を傾げたけれども、すぐに自分が彼の手首をつかんだせいだということに気づく。
慌てて手を放した。
「ごめんなさい、旦那様!」
ちょっと高い声を出してしまって、周りの客に白い目で見られた。
とっさに口元を抑えて、周りに向けて礼を繰り返すと、ほかの客もそれ以上なにをするでもなく、各々の買い物に戻る。
これは《淑女になるためのマナー》が必要だわ、とちょっとおどけて考えて、ディアナは気を落ち着かせた。
「こちらこそ、ごめん。ちょっとびっくりしちゃって」
フィリプはおでこをかきながら、もぞもぞと謝る。
前髪をぐしぐしいじるのが落ち着かないときの彼の癖なのだろうが、お出かけのために髪を撫でつけているからいじる前髪がない。
フィリプは、おでこをさわりながら俯いて、赤い顔をディアナから隠した。
自分からはあんなにスキンシップをしたりキスをしたりしてくるのに、ディアナの方からちょっと触れただけでこんなに照れるなんて、なんだか不公平だと、ディアナは唇を尖らせた。
それに互いに手袋をしているというのに。
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結局、フィリプは辞書と《淑女になるためのマナー》を購入することにしたらしく、赤い顔のまま、店員にその2冊を預けた。
普段のフィリプであれば、同種のより良い本を探すよう提案したりしたのだろうが、今の彼にその余裕はなかった。
店員に本を預けると、僕の見たい本も見ていい?とフィリプはちょっと眉尻を下げてディアナに言う。
落ち着いたらしく顔はもう赤くない。
ディアナは、断る理由もなく、もちろんですと頷いて、フィリプに付き従って歩き始めた。
小説や絵本のコーナーなら、読めるタイトルもあったけれど、フィリプが見ている本棚の本のタイトルは、ディアナにはさっぱりわからない。
けれども、フィリプが独り言のようにささやく本の解説には耳を傾けた。
あれは代数学の本で最近ものすごく注目されているらしいよ、とか、あっちは政治学の本でちょっと過激だからおすすめしない、とか、これは僕の大学の先生が書いた本で魔法工学の分野を一歩前に進めたといっても過言じゃない、とか、フィリプはよほど楽しいようで、ディアナの方に顔を寄せながら話し続ける。
ディアナは、すべてに、ふんふんと頷いていたけれど、実のところ夫の話の2割も分かっていなかった。 それでも、フィリプが楽しそうでなによりである。
忙しい中のせっかくの休日なのに、ディアナを《デート》と称して連れ出して楽しませてくれているのだ。
ほとんどわからない話でも、にこにこ笑って頷くくらいでしか彼をねぎらえないので、フィリプのささやきにひたすら相槌を打った。
そうこうしながら、フィリプは、これでしょ、これでしょ、と両手で抱えきれなくなるほどの本を本棚から手に取り、店員に渡して会計にうつる。
本、特に専門書は、高価だ。
それなのに、値段を見ることもためらうこともなく買おうとする様子に、ディアナは、ひえっと声を上げそうになった。
お金持ちのお買い物ってやっぱり怖いわ、とこっそり口に手を当てて息をのんだのだった。




