《時計工房 ノヴァーク》での話し合い
翌朝、ディアナは少々寝坊した。
職人たちが酒場に行った翌朝は朝食を用意する必要がないのと、疲れがたまっていたのもあるだろう。
起きてすぐ部屋に差し込む光からして、しまった、寝坊したということにディアナは気づいた。
けれども、時計を見れば、普段の朝食の準備には間に合わないものの、工房の始業時刻の直前だったため、ディアナは跳ね起きて身支度を整え、工房に向かった。
といっても、工房長夫妻の私室は工房の2階にあるため、ただ階段を下りるのみである。
ディアナには考えなければならないことが山ほどある。
まず、新しい工房長をだれにするか。基本的に《時計工房 ノヴァーク》は代々世襲で長をつないできた。
しかし、グスタフには子どもがいない。新しい工房長を決めるには職人や見習いたちと話し合いをしなければならない。
さらに、工房長が新しくなれば、自分はどうするのか。新しい工房長も結婚すれば妻ができる。
そうなると、非常に、非常に、非常に、気まずいことになる。
いくら前代工房長の妻といえど、その工房長はもういないし、ディアナには何の後ろ盾もない。
工房に使用人としておいてもらえれば御の字だが、離れることになればどうやって生きていくのか。
子どもがいないのが幸いではあったが、それでも女一人分の食い扶持を稼いでいくことが未亡人にできるのか、ディアナはまったく考えたこともなかった。
それから、グスタフの受けていた仕事をどうするか、とか、グスタフの遺品をどうするか、とか……。
答えはでないものの、ディアナは比較的現実的な思考をしていた。
「あ、ディアナさん、おはようございます」
工房に行くと、すでに全員出勤しており、ヴラディーミルが真っ先にディアナに気づいた。
皆疲れているのは同じだろうに、自分一人寝坊してしまって申し訳ない、とディアナは罪悪感に駆られる。
「おはよう、みんな。遅れてしまって、ごめんなさいね」
「いえ、俺たち、ほとんど朝まで飲んでましたし、ディアナさんお疲れでしょうから」
職人のひとりであるクリシュトフは自嘲気味に笑った。確かに、全員酒臭い。
ディアナは、クリシュトフにつられて笑った。それでもすぐに切り替えて、全員を招集する。
「ええっと、みんなと話し合いをしたいのだけれど……。
なにからどう話せばいいのかわからないから、簡単に言うとね、この工房の今後についてなんですけれど」
ディアナは、大勢の前で話すことに慣れていない。
大勢といっても5人ではあるけれど、畏まった話をすることなんて今までほとんどなかったから、ディアナは相当緊張していた。
頭が回らず、うまく話せない。
「ああ、それについてなんですけど。」
ディアナが切り出した話題に、クリシュトフが手を挙げた。
ディアナは、自分が話す必要がなくなったことに安堵して、クリシュトフに先を促す。
「ええ。どうしたの?」
「ルドルフさんも、ロベルトさんも、グスタフさんも亡くなって、職人が俺とディディだけになっちゃいましたし、正直、《ノヴァーク》を存続していくのは厳しいです。
ルドルフさんにも、グスタフさんにもお世話になったから申し訳ないとは思うんですけど、現実的に、無理です。
俺たちここを辞めようと思っています」
ディアナは慎重に言葉を選んでいる様子ではあるけれど率直なクリシュトフの言葉に、頭を殴られたような衝撃を覚えた。
それでも平静を保って、ほかの者をみても、だれも驚いている様子はない。
「昨日、みんなで話して決めたんです。
ディディさんは、最後まで反対してましたけど、どっちにしろ一人じゃ存続できないって。
僕たちも、《ノヴァーク》にはすごくお世話になりましたけど、やっぱりノヴァークさんのいない《ノヴァーク》じゃ、どうにも……。
あ、ディアナさんも、ノヴァークさんですけど、えっと、それはやっぱり別で……」
一番年若の見習いであるシモンが、決して《ノヴァーク》がいやで離れるわけではないことを必死にアピールしてくるが、ディアナにとってあまり慰めにはならなかった。
ディアナは確かに工房の今後を案じてはいたが、それはあくまでもどうやって経営していくか、という観点であって、まさか従業員が全員辞めると言い出すとは思っていなかった。
従業員が全員辞めてしまうのであれば、それは工房を畳むことだ。
しかし、父ロベルトがここの職人で、幼いころからここで暮らしてきたディアナにとって、《時計工房 ノヴァーク》は故郷だ。
義父や夫が死んだからといってあっさりと工房を畳む決断はディアナにはできない。
「俺はやっぱり続けたいですけどね。
残った人間のなかじゃ俺が一番長くここにいますから、工房を畳むことに前向きになれるわけないんですけど。
現実的に考えて無理なんです。
俺とクリシュトフじゃ、どう考えても《ノヴァーク》の看板を背負いきれませんよ。
技術な面ならまだしも、経営とか無理ですから」
ヴラディーミルは、不機嫌そうに眉を寄せながらではあるものの、ディアナにとって良い方に向くことは言わなかった。
ほかの見習い二人も苦渋の決断であったことを口々にディアナに説明する。
ディアナは比較的現実的な今後の方針を考えていたつもりだったが、現実は思っていたよりも厳しかった。
ただの使用人から、工房長の妻になって未だ3年のディアナに、この状況での正しい道筋など見えるわけがなかった。
考えても栓のないことだが、せめて父であるロベルトがまだいてくれたらと思わずにはいられなかった。
グスタフの父であるルドルフよりも年嵩で職人歴の長かった父がここにいてくれたら、もしかしたらノヴァークのいない《ノヴァーク》となっても、工房を存続できたかもしれない。
半年前にここで事故死してしまったけれど、あの父さえいてくれれば、と思ってディアナは唇を噛んだ。
それでも、ここに父はいないし、義父のルドルフも、夫のグスタフもいない。ノヴァークの名を持つディアナがなんとかしなくてはいけない。
「みんなの考えはわかりました。確かに、難しいわよね…。
でも、すぐに結論を出すわけにはいきません。少し、考えさせてください。ああ、それと」
ディアナは、一度視線を伏せ、また上げる。
「今入っている注文だけは、なんとしても仕上げてほしい。
もし、ほんとうに、工房を畳むことになったら、《ノヴァーク》の最後の作品になるわけだから」
辞めたいという相手に向かって、仕事をしろというのは無謀だろうか。
ディアナは、受け入れてもらえなかったらどうすればいいのか、緊張しながらお願いをする。
しかし、ディアナの緊張具合にたいして拍子抜けするほど、あっけらかんとした様子で、クリシュトフもヴラディーミルも笑って頷いた。
「それは最初からそのつもりです。グスタフさんの作りかけのもさっき探したら設計図でてきたし、なんとかなるよな、ディディ?」
「ああ、おそらく。俺の担当分も、納期が切迫しているのはないので。クリシュトフの担当も、幸か不幸か、そう多くないだろ?」
「そうだなぁ。1か月もあれば作り終わる。シモンもだいぶ使えるようになってきたし、ヴィートも、アーモスも、頼りになるし」
職人たちの会話に、ディアナは心底ほっとした。
課題はあるが、目の前の心配ごとが一つ消えた。
「よかった。本当にありがとう……」
ディアナの感謝に、クリシュトフもヴラディーミルも、笑顔でうなずいた。
「それじゃあ、まあ、俺たちは作業に入りますんで」
と、職人も見習いも工房の作業場に向かっていった。