ディアナの初めての魔法
その後のヘレナの授業では、初心者のうちはひとりで魔法陣を書かないことということをよくよく言い聞かせられた。
聖気に魅了されてしまうのも心配だし、大火災や大洪水を巻き起こしてしまうのも心配だという。
ディアナは間違いないわ、と思って、素直に頷いた。
それから、グスタフのライターの魔法陣を読み解き、基本的な音符や《休符》、《小節》などの意味を教わった。
グスタフのライターは構造の問題か、魔法陣は円形につながっていた。
それを、直線的に直して書き写してみる。もちろん、ヘレナの指導のもと、安全に配慮したうえで。
音符や休符を五線譜に書き込み、最後、左端にト音記号を書き加える。
ディアナの初めての魔法。
赤い炎がぽぉっと灯った。
魔法の練習用のノートから5㎝ほど浮いたところに、ろうそくの炎とおなじくらいの大きさの赤。
《魔法陣から、少しはなれたところに》発動するよう、書き込んでいるため、ノートから浮いている。
ライターの魔法陣をそのまま書き写しているため、そうなっているのだ。その記号がないと、ライターのガラスの中で魔法の炎が灯ってしまうのだとヘレナが教えてくれた。
ディアナはついノートの炎に見入ってしまう。
初めての魔法に、言葉もでない。
ヘレナもそれを分かっているようで、満足そうににこにこしながらディアナを見守った。
数分の間、ディアナは魔法の炎が燃える様子を見ていたが、ふとあることに気が付く。
「あ、ヘレナ先生」
顔を上げて教師に声をかけると、なにかしら、と首を傾げた。
「この火って、どうやって消すんですか?」
グスタフのライターなら、つまみを回して金属板同士の距離を開けることで炎は消えた。
しかし、ノートに書き込んだ今、その消し方はできない。
ディアナの疑問に、ヘレナははっと息をのみながら、口に手を当てた。
「あらやだ。私ってばうっかりしていたわ」
ヘレナは、ごめんなさいね、と言いながら、炎に触れないよう気を付けながらディアナのノートの魔法陣にいくつか記号を書き足した。
炎がすぅっと消える。
「これで大丈夫」
ヘレナは自分の失敗を誤魔化すように、ウインクをする。
魔法に慣れたヘレナでさえこういう失敗をするのだから、絶対ひとりで使わないようにしよう。
ディアナは、改めてそう誓った。
――――――――――――――
授業を終えて、ヘレナは帰っていった。
明日は文字の授業ね、とヘレナは笑っていたが、ディアナとしてはやはり魔法の授業のほうが楽しいので、ちょっとだけげんなりした。
フィリプの帰宅を待って、サシャの作った夕食を食べた後、授業の復習に取り組む。
リビングのソファで、ディアナにはわからない難しそうな本を読むフィリプの隣に座って、ノートに書いた魔法陣の音符や記号の意味をひとつずつ思い出す。
「…ライター?」
集中していたディアナは、フィリプがノートをのぞき込んでいたのに気づかなかった。
急に声をかけられて、隣に座る彼を見ると、ノートをのぞき込みながら顎に手を当てている。
その呟きの意味がよくわからず、ディアナは、首を傾げた。
「あの、旦那様?」
「違ったかな。この魔法陣、ライターくらいの大きさで、安全性を求められる発火装置かなと思ったんだけど。ちょっと書き足されているのはヘレナさんの筆跡だね。火を消すことを忘れていたのかな」
フィリプは、ディアナのノートの魔法陣を指でなぞりながら、真剣なまなざしでディアナに言った。
ディアナは、呆気にとられて少し反応が遅れたものの、頷く。
「はい…。ライターの、魔法陣を書き写して、基本を教えてもらったんです。旦那様はどうしてそれを?」
見ていたわけでも、今日の授業の内容を聞いたわけでもないだろうに。
ディアナの問いにフィリプはちょっと肩をすくめて、笑った。
「僕、魔法工学を専攻していたんだよ? これくらいの魔法陣なら、だいたい何に使われているものなのか、わかるよ」
自慢げな風でもなく、フィリプはそう言った。
「そ、そういうものなんですね…。すごい…」
ディアナはついそう口に出した。
ちょっと首を傾げるようにして礼をするフィリプ。
「別に大したことじゃない。それにしても、ヘレナさんもディアナもたばこは吸わないでしょうに、どうしてライターの魔法陣?」
フィリプの興味は、ライターの持ち主に移ったらしい。
ディアナは言葉につまる。
昨晩、グスタフの存在をにおわせてフィリプの気分を害した前科があるのだ。ここで、《実はグスタフの愛用品を持ってきていて》なんて言うのは、ちょっと忍びない。
ヘレナも帰り際に、フィリプさんにライターのことを言うと面倒そうね、と眉を寄せて笑っていた。
彼、嫉妬深そうだもの、とヘレナは付け足していたが、別に嫉妬ではないだろう、とディアナは思う。
単に、自分の妻に対する所有欲のはずだ。
アンティークの手鏡を買って誰かの手の脂が付いていたら誰だってちょっと嫌な気持ちになってふき取る。
フィリプが気分を害したのはそういう感情だろう、とディアナは理解していた。
ディアナが、どう答えよう、と逡巡した間に、フィリプはひとり、もしかして、と呟く。
「グスタフさんの遺品とか?」
どうしてわかったのかしら。
ディアナは口には出さなかったものの、つい眉が上がってしまった。
これでは、《はい、その通りです》と答えているのと同義である。
フィリプは、眉尻を下げて笑う。
「そうなんだね」
思ったより、あっけらかんと受け入れられた。
申し訳ございません、と謝りそうになったけれど、なんだかそれはそれで違う気がする。
フィリプに気を使わせてしまいそうだとディアナは思って、何も言えずにただ頷いた。
「もう警察から戻ってきていたんだ?」
「…いえ、まだ。同じものをもうひとつ、持っていたみたいで」
グスタフの事故の詳細は新聞に載っていた。
フィリプがライターの件を知っているのはそれを読んだからだろう。
ディアナは、少し気まずくて、不自然ではないようにノートを閉じる。
「ああ、そうなんだ。へえ」
フィリプはちょっとだけ驚いた様子で相槌を打った。
「二つ、持っていたのか」
「はい。机から出てきて」
グスタフがライターを二つ持っていたのが、それほど意外だったのだろうか。
ディアナはちょっと首を傾げながら、フィリプの呟きに返事をした。
「若旦那様、若奥様、ご入浴の用意が整いました。お入りになりますか?」
サシャに背後から声をかけられたため、ディアナは振り返って、それからフィリプの顔を見る。
一日降り続いた雨のために季節のわりに今日は寒い。
正直、早くお風呂で温まりたいが、今日もお仕事、明日もお仕事の夫の様子を、ディアナは一応窺った。
「ディアナ、先どうぞ」
フィリプのいつも通りの微笑みに、ディアナはちょっと口角を上げて、礼をした。
「ありがとうございます、旦那様。それなら、お先に」
既にディアナはフィリプより先にお風呂に入ることに慣れている。
それでもお湯に浸かるわくわくにはまだ慣れていない。
フィリプがグスタフのライターに食いついたことに対する意外さは、お風呂へのわくわくによって、すっかり忘れ去られたのだった。




