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文字を覚えよう

 月曜日、午前中のうちにヘレナはやってきた。


 ディアナは、フィリプを見送った後、デイドレスに着替えてワクワクしながら待っていた。10時を回るころ、とうとうやってきたヘレナを出迎え、応接間に案内した。


「そうねえ…。ディアナさん、このおうち、素敵なサンルームがあるってフィリプさんから聞いたわ。ディアナさんさえよければ、そちらで授業にしません?」


 ヘレナの提案にディアナは、はい!と頷いた。

 

 ガラス張りのサンルームで、素敵なご婦人に授業をしていただくなんて、なんだかロマンティック。

 ディアナは、生徒役を自分ではなく、深窓の令嬢に変換して妄想した。


「フィリプさんにね、週五日、午前中から夕方までの授業を頼まれているの。でもねえ、そんなに長時間机に向かってお勉強するの、きっと疲れちゃうし、つまらないでしょう? だから、たまにはお散歩やドライブにでも行きましょうね」


 ヘレナのふんわりした微笑みに、ディアナは非常に残念に思いながらも首を横に振った。


「実は、旦那様から、年末の《ペトラーチェク商事》のパーティーで、私をみなさんに紹介するつもりだと言われたんです。だから、それまでに、こう、ちゃんとしたくて…」


 もうちょっと違う言い回しがどうしてできないの!とディアナは内心自分を叱咤するが、ヘレナはちょっと目を丸くして、それからまたふんわり笑った。


「そうなのねえ。フィリプさん、私にも言ってくれればよかったのに。でも、そうねえ、これは私の考えだけれど、ディアナさん、教養や知識、それに品位って、机に向かっているだけじゃ身につかないのよ」


 ディアナは、首を傾げつつ、とりあえず頷いた。


「それに、これは、まだ予想だけれど、ディアナさんは外に出て、いろんなものにたくさん触れてから本に向かう方が、いいんじゃないかと思うの。あなたには遠回りに感じられるかもしれないけれど、やっぱりお外には出ましょう」


 勉強、授業と言えば、机に向かうものだと思っていたディアナにとって、ヘレナのいうことは、なんだか怪しげな占い師のいうことのように感じられたが、ディアナはとりあえず頷いた。


 なにしろ、ヘレナは大学で《魔法教育学》なるものを修めたというのだから、授業のやり方に関して、確実にディアナより詳しいだろう。ディアナにはよくわからないけれど。


「わかりました」


 ヘレナは、納得いってなさそうね、と呟いて苦笑する。


 ばれている。ディアナはちょっと恥ずかしくなってうつむいた。


 ヘレナは、笑って、さて、とトーンを変える。


「少しずつ、やっていきましょ。ディアナさんは好奇心旺盛な方でしょうから、自分で本を読めるようになればいくらでも自分で知識を増やせると思うわ。だから、まず文字から、覚えていきましょうね」


 ディアナは、ちょっと首を傾げつつ、頷いた。

 文字から覚えていくことには特に異論はないが、《自分で知識を増やせる》とかは買いかぶりすぎだと思う。


 それでもヘレナの授業は始まった。


―――――――――――――――――


 夕方、ディアナは完全に心が折れていた。


 文字が覚えられない。

 20種類ほどの表音文字はなんとか覚えられそうではあるが、無限ともいえるほどにある表意文字が覚えられる気がしない。


 それでもある程度表意文字も読めないと、児童書すら読めなさそうであることを、ヘレナが持参した児童書でディアナは初めて知った。


「ヘレナ先生、私、できる気がしません…」


 昨晩フィリプに微笑んでみせた気概はとっくに消え去り、ヘレナの前で半泣きになりながらディアナは言った。


「あら、大丈夫よ。ヘルモ文字が覚えられれば、なんとかなるわ。トハク文字は、そうねえ、基本的な30か、多くても50種類くらい覚えて、あとは好きな本でも読みながら知らない文字を調べてって方法で新しく覚えていけばいいのよ」


 ヘレナのあっけらかんとした物言いに、ディアナはちょっとだけ希望を感じたが、今日一日で、表音(ヘルモ)文字を習ってパンクしそうなのに、これからさらに表意(トハク)文字をそれだけ覚えなきゃいけないのか、と気が滅入る。



旦那様、私、やっぱり無理かもしれません……。



「そうだわ、ディアナさん。お手紙を書いてみるのはどうかしら」


 ヘレナの提案にディアナは顔を上げた。


「お手紙?」


「そう。誰かに文字で想いを伝えるっていうのが、一番読み書きの練習になるのよ。そうね、そうしましょう。もうちょっと慣れたら、お手紙を書きましょうか」


 ヘレナは我ながらいい思い付きだと言わんばかりに大きくうなずいた。


「ディアナさんが書きたい人に書くので構わないわ。読み書きができる人でお手紙を書きたい相手、いるかしら?」


 ディアナは、そう言われて、ふむ、と考える。

 ディアナが一番言いたいことがある人には、お手紙を書いてもあまり意味がない。


 ディアナには親戚も家族もいないし、友人と呼べるような人もいないので、お手紙の宛先は考えるまでもなくほぼ一択だった。


「《時計工房 ノヴァーク》に出します。職人たちは読み書きができるし、ペシュニカご夫妻にもお礼を改めて伝えたいです」


 ディアナは、自分が書いた手紙が工房に届いてみんなで読んでくれるのを想像して、気分が上向いた。


 クリシュトフは確実に喜んでくれる。

 見習いたちも喜んでくれるだろう。

 ヴラディーミルは、読みはするだろうけど、喜ぶかどうかは微妙だ。鼻で笑いそう。


 離れてからまだ一週間だが、ずっと一緒に過ごしてきたから、すでになつかしさを感じる。


「《時計工房 ノヴァーク》というと、ディアナさんの前のお住まいね」


 ヘレナは、フィリプから聞いているのだろう。思い出すように視線を上に向けてそう言った。


「はい。夫が、えっと、前の夫がそこの工房長だったので」


「ええ、フィリプさんから聞いたわ。そうね、確かに近況報告もしたいものね。それなら、そうしましょう。添削もするから、来週あたりに書いてみましょ」


《添削》ってなんだろう、とディアナは思ったものの、はい、と頷いた。


 



 授業を終わりにして、ヘレナを見送るべく玄関に向かうとちょうどフィリプが帰ってきた。


「おかえりなさいませ、旦那様」


 ディアナが微笑みかけると、フィリプも微笑みを返す。


「ただいま。ああ、ヘレナさん、今日はありがとう。どうだった?」


「ええ、おかえりなさい、フィリプさん。思った通り、ディアナさんは飲みこみも早いし、意欲があるから、教師としてはとてもやりやすいし、楽しいわ。

 ね、ディアナさん。今度お手紙書くのよね」


秘密を共有する女友達のような調子で、ヘレナはディアナに笑いかけた。


「はい。頑張ります」


 ディアナは両手でこぶしを作って、胸の前に掲げて見せる。


「へえ」


とフィリプの相槌。

 彼のほうに視線を向けると、手を口元に当てて、ちょっとそわそわしていた。


 ディアナは、どうしたのかしら、と首を傾げるが、ヘレナは長年の付き合いで分かるのか、笑ってフィリプを肘で小突くようなしぐさをした。


「フィリプさんにじゃないわよ」


 確かに旦那様に書くのもいいかもしれない。

 ディアナは、少しそう思ったけれど、お仕事で忙しいフィリプにディアナの読み書きの練習に付き合わせるのは忍びなかった。


 けれども、フィリプは、ヘレナの否定に、悲しそうに眉尻を下げる。


「え、違うの。それなら誰に書くの?」


 ディアナは、フィリプの悲しそうな顔にめっぽう弱い。

 捨てられた子犬みたいに見えるから。


「えっと、《時計工房 ノヴァーク》に…。あの、ご迷惑でなければ、旦那様にも」


 全くそのつもりはなかったけれど、そう付け加えて伝えると、フィリプの表情が目に見えて明るくなった。


「そう。それは嬉しいな」


 フィリプは澄ましてはいるけれど、嬉しそうに大きく頷く。


 ヘレナはやっぱり友人が妻にデレデレしている様が笑えて仕方ないようで、手袋をはめた手で口元を隠しながら体を震わせていた。


 フィリプにお手紙を書くのは、工房に書くよりもずっとずっと緊張する。ディアナは、ちょっとだけ気を引き締めた。

やったね、10万字!

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