ディアナの目標
金曜日の夜、食事と入浴を済ませたペトラーチェク夫妻は、主寝室で語らっていた。
社内の人間も社外の人間もフィリプの結婚をどこかから聞きつけて、かわるがわるお祝いに来るため、仕事が進まないとフィリプは愚痴を言う。
だから結婚の公表なんかしたくなかったんだ、とフィリプは唇を尖らせた。
「でも、しないわけにはいかないものなんでしょう?」
ディアナが首を傾げて尋ねると、フィリプは苦々しげに顔をゆがめて頷く。
「いつかは、ディアナをいろんな人に紹介しなきゃいけない。やだなぁ。ディアナをあの薄汚い連中に紹介なんかしたら何を言われるかわかったもんじゃない」
ちょっと口の悪いフィリプにディアナは意外さを感じながら、まあそうよね、と頷く。
王国最大の総合商社《ペトラーチェク商事》の副社長の妻に対する理想と期待は、ものすごく高いだろうことは想像に難くない。
ディアナだって、当事者じゃなければ、《深窓の姫君のような可憐なお嬢さん》かしら、とか、《女騎士もさもありなんというような麗人》かしら、とか、ロマンティックな方向性で夢想しただろう。
他人もきっとそう思っているに違いない。
それが実際には、しがない未亡人である。特別美人でもなければ、かわいらしくもない、字も読めない女なのだから、フィリプの周囲の人間も、実際に会ったらさぞがっかりするだろう。
ディアナは卑屈になっているわけでも、謙遜しているわけでもなく、フラットな心持でそう思っている。
そりゃ、こんな女を紹介なんかしたくないわよね、とディアナは微笑んだ。
週明けからヘレナの授業が始まる。
ひとまずお勉強から頑張ってみよう、とディアナは気を引き締めた。
「でも、いつまでも先延ばしにはできない。父や秘書ともまた改めて相談するんだけど、今年の《商事》のパーティーでディアナを妻として紹介しようと思っているんだ。
できれば、グスタフさんの喪が明けてからのほうがいいとは思うんだけど、そうなると、先になりすぎてしまうし…」
フィリプの、眉を寄せて上目遣いでこちらを窺うような視線に、ディアナは穏やかに微笑んでわかりました、と頷く。
グスタフのことを考えてくれたことが嬉しい。
結果的に配慮はされない形になるとしても、フィリプがグスタフのことを考慮にいれてくれたことにディアナは胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます、旦那様」
フィリプは、何に対する礼なのか、よくわかっていないようできょとんとしつつもあいまいにうなずいた。
ディアナも、フィリプがよくわかっていないだろうことは察していたけれど、特に補足はしなかった。
無意識のうちにやってのけるほど、フィリプにとっては自然なことなのだろう。
しかし、フィリプの気遣いに胸を打ち震わせている場合ではないことに、ディアナははっと気づく。
「《商事》のパーティーって、もしかして、あの年末の…?」
ディアナの確認に、フィリプは、うん、と頷く。
「ディアナも、グスタフさんと来てくれたでしょう」
よく覚えている。上流階級の雰囲気をほんの少しだけ味わえるから楽しかった。
しかし、あのパーティーはなかなかの規模のはずだ。
《ペトラーチェク商事》の社屋の、メインホールいっぱいに人が大勢いるほどだったのだから、100人か、もしかしたら500人以上の招待客という可能性もある。
別に大口の取引先というわけでもない、《時計工房 ノヴァーク》の工房長が招待されているくらいなのだから、招かれている客の層も厚そうだ。
その、《ペトラーチェク商事》のパーティーで、私を紹介…?
「《商事》のパーティーって、3か月後ってことですか?」
ディアナの問いにフィリプは、そういうことになるね、と頷いた。
「3か月の間に、ディアナにはいろいろ勉強してもらうことになる。マナーとか、ちょっとした雑学とかも…。もちろん、変な連中からは僕が全力で守るつもりではいるんだけれど、姑息なやつも多いから…。
勉強、慣れなくて大変だと思うんだけど、頑張ってくれると嬉しい」
フィリプは、彼にしては珍しく、ディアナの目を見ずに話す。ディアナの両手を何とはなしに、握りながら、そこに視線を落としていた。
心苦しいのを押し込めて、無感情を装っているような、そんな目つきだ。
ディアナからは瞳は見えないけれど、フィリプの、伏せられた長いまつげが、震えていた。ディアナに義務を負わせるのが心苦しいのか。自分が付き合いのある《変な連中》にディアナを引き合わせるのが心苦しいのか。自分の立場にディアナを付き合わせるのが心苦しいのか。
いずれにしろ、ディアナには彼が何を苦しく思っているのかわからない。そこまで踏み込むほどの信頼関係は、自分たちの間にはまだない。
ディアナは、フィリプの手をぎゅっと握り返した。
「わかりました、旦那様。あと3か月で、立派な淑女になってみせます」
不安しかないけれど、ディアナはそう言ってフィリプに微笑んで見せた。
たった2歳だが、ディアナはフィリプより年上のお姉さんなのだ。
それに、互いにメリットがある結婚として、この婚姻関係は始まっているのに、今の段階ではあまりにもディアナばかり良い思いをしている。ディアナもフィリプになにかしなくてはいけない。
ディアナは、不安なのを表情に出さないように、表情筋に頑張ってもらいながら、任せてくださいと言う。
フィリプは視線を上げると、ディアナの笑みにつられたようでありながら、笑いきれないようで、引きつった笑みを浮かべた。
「ありがとう。勉強も、なんでも、わからないこととかやりたいこととかあったらいくらでも言って。ヘレナさんがいるから、僕の出番はないだろうけど、勉強は得意だから」
ディアナは、自信たっぷりに見えるように、ゆっくり頷いた。
「なんとかなります、旦那様」
まあ、なんとかするのはディアナなのだが、そう言って夫を元気づけた。
フィリプはディアナの両手を握ったまま、目をぎゅっとつむって天を仰ぐ。
「はー、ほんと、君と結婚してよかった。そういうところがほんとに、大好き」
また《冗談》を言ってるわ、と思ってディアナはちょっと笑った。
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日曜日には、フィリプはディアナを百貨店に連れ出した。
きらびやかな資本主義社会の象徴に、フィリプはディアナのためのペンとノートを買いにきたのだ。
初めての百貨店に、ディアナはきょろきょろ見学したくなるのをこらえながらフィリプと一緒に店員の説明を聞く。
フィリプは普段から《ペトラーチェク商事》の副社長として百貨店ともやりとりをするらしく、ずいぶん丁寧な接客を受けた。
ディアナは、無知がばれないよう、ぼろを出さないよう、ただただ上品そうに微笑んで、フィリプの横か後ろにたたずんでいた。
店員に《奥様、いかがでしょう?》と問われれば、にっこり微笑んで《そうですね、旦那様に聞いてみますわ》ですべて躱した。
買ってもらったデイドレスでの初めてのお出かけなので、汚さないように慎重に動かなければならず、あまり無駄な動きができないのも、ディアナの見学したい気持ちにストップをかけた。
あっという間にペンやノート、五線譜を見繕ってフィリプは会計をした。
またのお越しをお待ちしております、と百貨店の出入り口まで店員が見送りにきたが、その途中のディスプレイでフィリプは足を止めた。
白地に、青いリボンと青いステッチが印象的なデイドレスを着たマネキンがいたのだ。
フィリプは、そのマネキンを上から下まで眺めて、店員に《これを妻に試着させたいのですが、可能ですか?》と微笑みかけた。
店員は、はい、もちろんです、と満面の笑みで支度をはじめ、ディアナは、また、着せ替え人形になる。
初めて百貨店に来たのに、あっという間に帰るのはちょっと寂しいのもあって、着せ替え人形になるのも楽しかった。
試着している間に、フィリプは店内から違う服を見繕ってきて、これも、これも、あとこれも、と足していく。
午後いっぱいディアナは着せ替え人形になり続け、新しいデイドレスと、新しいイヴニングドレスと、新しいティーガウンと、と十分だと思っていた手持ちの衣装がさらに増えたのだった。
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