新婚生活
翌朝、結婚以来、初めて、ディアナはフィリプよりも早く起きた。
朝日で目を覚ましたディアナはベッドの真ん中を向いていたけれど、隣のフィリプは仰向けで寝息を立てている。
昨晩のことをディアナは一旦置いておくことにしたけれど、寝起きから体温が感じられるほど距離が近いと心臓に悪い。
だれもが振り向くような美形、とか、大理石像のような美丈夫、とか、フィリプはそういうタイプではないけれど、それでも整った顔立ちをしている。
夢見がちなディアナは、見目麗しい男性が自分に愛を囁く様子なんかをよく妄想するが、実際に見目麗しい男性が自分に愛を囁くと、ただただ信じられないものなのね、と昨夜までのことを思い出しながら、なんだか変に感心して笑ってしまった。
低血圧をやり過ごしてから体を起こす。
フィリプを起こさないようにそっとベッドから出て、普段着に着替え、軽く髪を結い、メイクをした。
昨日買った服は、慣れればそんなことないのだろうけど、一人で着るのはまだ少し難しい。今日も工房から持参した服である。
そっと1階に下りてキッチンに向かうと、サシャがいた。朝からスープを作ってくれているようで、鍋でスープを煮込んでいるメイドの後ろ姿にディアナは声をかけた。
「おはよう、サシャ」
敬語を使わないことに、まだ慣れない。
ディアナの声掛けにサシャは振り向いて少し目を丸くした。
「まあ、おはようございます、若奥様」
ディアナは、なにか手伝うことはあるかしら、とサシャに問うけれど、首を横に振られる。
「いいえ、若奥様。今日はお天気がとてもよいので、よろしければサンルームでお過ごしください。朝食ができたらお持ちいたします」
その提案に乗ろうかとディアナは思ったけれど、朝食はフィリプとともに食べたい。
お仕事に行く日のフィリプの朝の過ごし方を知らないディアナは彼が起きてから様子を見て合わせることにした。
「旦那様に合わせます。ここでサシャの作業を見ていてもいい?」
サシャは、さようですか、と言って頷く。
ディアナはスツールを出して腰かけた。
今日はどうやらオニオンスープらしい。さわやかな玉ねぎの香りと、コンソメの良い香りが漂う。
ベーコンも入っているかしら、とディアナはおなかを鳴らした。
「旦那様は、お仕事に行く日は何時に起きるのかしら」
ディアナは昨晩聞いておけばよかったと思いながら、サシャに尋ねる。
サシャはスープの様子を見ながら、首を傾げた。
「そうですねえ、このおうちからご出勤なさるのは初めてですが…。そろそろ起きていらっしゃる頃だと思いますよ」
ディアナが時計を見ると、ちょうど6時になったところだ。
夏の終わりの朝6時は、太陽も上って明るいし、暑すぎない気候で過ごしやすい。
そうなのね、とディアナが頷いた、ちょうどその時、2階から何かが落ちるような物音がする。
ダンッ!とそこそこ重量のあるものが落ちた物音だった。
思わずサシャと顔を見合わせる。
何事?
一度大きな物音がしてから、少しして今度はドアを乱暴に開け放ったような大きな音と廊下を走って階段を駆け降りてくる音が続く。
ディアナとサシャは、つい天井を見上げながら、音の動く方に首を動かす。
足音は階段を駆け降り切ったかと思うと一階の廊下をキッチンに向かって走ってくる。
ディアナとサシャは、キッチンの扉をつい見つめる。
「サシャ!ディアナは…!?」
キッチンのドアが開け放たれたと思ったら、フィリプが随分取り乱した様子で息を荒げて入ってきた。
寝癖なのか、側頭部の髪がぴょこんと跳ねているし全体的にボサボサしている。
ディアナは寝巻のままのフィリプを見るのは初めてだった。
「…あ、あれ?ディアナ、ここにいたの…」
フィリプはスツールに腰掛けるディアナに気付いて、その場で座り込んだ。
はーっと長くため息をつく。
呆気に取られていたディアナとサシャも、緊張が緩んだ。
「坊っちゃん。なんですか、朝から騒がしい」
サシャは眉を寄せて苦言を呈する。
昔からの付き合いというだけあって、フィリプを幼い子どものように扱うのでディアナはちょっと笑った。
「坊っちゃんはやめてよ、サシャ。
起きたらディアナがいないからさ、愛想尽かされたのかと思って焦ったんだよ…。
なんだ、ここにいたのか…」
フィリプは、照れ隠しなのか前髪をぐしぐしいじる。
先程までの慌てっぷりが自分で冷静になって恥ずかしくなったようで、フィリプは顔を赤くして俯いた。
ディアナとサシャは顔を見合わせて二人で笑う。
「若奥様は先程からこちらにいらっしゃってましたよ。朝ごはんは、坊っちゃんとご一緒に召し上がるとおっしゃって。
さ、坊っちゃんは早くお着替えをしてらしてください」
母というには少し若いが、サシャはフィリプの母かのようにそう言って彼をせきたてた。
揶揄うように坊っちゃんと繰り返す。
「坊っちゃんはやめてってば」
唇を尖らせてそう言いながら、スツールに座るディアナの足元にフィリプは膝立ちで来て、懇願する様に両手をディアナの膝にのせてきた。
ご飯をねだる大型犬みたい。
ディアナは、早くもフィリプのスキンシップに少し慣れ始めていた。
「ああ、ディアナ、偶然早く起きただけだよね? お腹すいてキッチンにきただけだよね?」
「へっ?え、ええ、まあ、はい…」
お仕事に行く旦那様より早く起きようと意思は持っていたから《偶然》ではないし、キッチンにきたのは別にお腹が空いたからなわけではないけれど、ディアナはまあいいかと曖昧に頷く。
フィリプは、ちょっと疑うようにディアナを上目遣いで睨んだあと、ため息をつきながらディアナのももに顔を埋めた。
居心地が悪くて恥ずかしい。
ディアナは拒否することもできずに硬直する。
「昨晩のこともあるし、嫌われたかと思った…」
フィリプは不貞腐れているのか、そう呟いた。
ディアナは《一旦置いておいたこと》を思い出して、恥ずかしくなる。
「そんなことありませんよ」
恥ずかしいのをごまかすべく、ディアナは快活に笑った。
「…よかった」
フィリプは、ディアナの右手を掬うように取って、その甲にキスをする。
柔らかい唇の感触に戸惑うものの、首と違って恥ずかしさや緊張はそれほどない。
手の甲にキスをしたことで満足したのか、フィリプはよし、と呟いてさわやかに笑って立ち上がった。
「着替えて準備してくる。朝ごはんは、サンルームで食べよう」
既にスープづくりに戻っていたサシャは承知いたしました、と返事をし、ディアナは手伝いを申し出たものの、断られて、はい、と頷いた。
フィリプが仕事用のスーツに着替え、髪を撫でつけて、再び下りてきたときには、サシャとディアナはサンルームで朝食の準備を済ませていた。
フィリプとディアナがサンルームでの朝食を済ませると、フィリプは死にそうな顔で出勤すると言って玄関に向かっていった。
ディアナは、見送りについていく。
朝食を作ったり、朝の準備をお手伝いしたりするつもりで早起きしたのに、その必要がなかったため、ディアナがフィリプより早く起きたのはただ彼を見送るためだけとなった。
「それじゃ、行ってくるね」
とフィリプがハットをかぶる。
ディアナは、行ってらっしゃいませ、旦那様と笑顔で見送った。
フィリプがいるのといないのとでは、ディアナの気楽さが全く変わる。そう思ってつい笑顔になったのだ。
フィリプは笑顔のディアナを見て、うっ、とうめいて心臓のあたりを手で押さえた。
「結婚っていいね…。こんなかわいい奥さんに見送ってもらえるなんて、僕はなんて幸せ者なんだろう」
気楽だからうれしいとか思っていたことをディアナは申し訳なく思った。
それと同時に、照れてしまって、照れ隠しに笑う。
「はい。行ってらっしゃいませ」
反応に困ってディアナはそう繰り返した。
フィリプは、行ってくるね、と返す。
それから、ディアナの両肩に両手をのせて、ちょっと身をかがめてほほにキスをした。
「夕方には帰ると思う。なんかあったら連絡してね。行ってきます」
言い捨てるように早口でフィリプはそう言って真っ赤な顔で出て行った。
ディアナは、あんなに照れるくらいならしなきゃいいのに、と思いながらも、ほほを片手で押さえてぎゅっと目をつむって、自動車の音がするのを玄関の内側で聞いていたのだった。
ディアナは、まだドレスを一人で着られるほど新しい服に慣れていないし、忙しそうに家事をするサシャに《お散歩に行きたい》と言って着替えと付き添いを頼めるほどこの新しい生活にも慣れていない。
着替えられなければ《ペトラーチェク家の御曹司》の妻として外出するのもはばかられるので、結局ディアナはサンルームと庭、ディアナの居室で花を愛でたり、刺繍をしたりして過ごしたのだった。
あまりに暇すぎて、あれほど嫌がっていた文字の授業すら待ち遠しくなるほどだった。
フィリプが夕方に帰ってきて、サシャの作った夕食を食べ、お風呂に入り、就寝。
二日間、ディアナは、ただただ暇を持て余しながら過ごしたのだった。