主寝室にて
糖分多め回(当社比)
ヘレナは今日会えたことを喜んで、来週から早速授業に来るといって帰っていった。
勉強なんか、と腐っていたディアナだが、ヘレナが優しそうであることと、魔法の勉強ができることで急に授業が楽しみになっていた。
文字や計算に微塵も興味はないが、わかるようになればもしかしたらなにか楽しいことがあるかもしれないと思えるくらいにはなったのである。
サシャが夕食の間に入浴の準備をしてくれたというが、相変わらずフィリプは《先に入って》という。
昨日の失敗を繰り返すわけにはいかない。ディアナは、シャワーブースでシャワーを浴びるのみにとどめ、猫足バスタブの誘惑をなんとか断った。
バスローブを羽織って、タオルを肩にかけて主寝室に行くと、フィリプがいた。
夫婦の語らい用に置かれているのだろう、暖炉の前の椅子に座って読書をしている。
風呂上がりに会うのは ―少なくとも、ディアナが意識のあるときに会うのは― 初めてなので、いくら夫婦とは言えど、緊張してしまう。
「あれ、早かったね」
フィリプはちょっと驚いたようで目を丸くして言った。
ディアナは、気恥ずかしくて、曖昧にうなずく。
「昨日みたいに気を失うのは心配だけど、普通に入ってくれていいんだよ」
見抜かれている。
ディアナは、フィリプの苦笑に俯いて、《はい、旦那様》と返事をした。
お風呂上りなのとは別の理由で顔が熱くなる。
ドアの前に立ちっぱなしというわけにもいかないけれど、ソファにフィリプと向かい合って座るのも気恥ずかしいし、だからといってベッドに座るのもなんだか意識してしまって恥ずかしい。
結果、ディアナは窓際に置かれたドレッサーの椅子に座って髪を拭くことにした。
ディアナがドアの前で主寝室中に視線を走らせている間に、フィリプは自身が入浴する準備を整えるべく準備をしていて、ディアナの不審な挙動には気づかずにいてくれた。
なんでもない風を装いながら髪を拭いていると、フィリプが顔を上げたのが鏡に映った。
気まずいような、恥ずかしいような。
ディアナはわしゃわしゃと手を動かして《髪を拭くのに必死です》とアピールをしてフィリプが自分に意識を向けないよう祈る。
願いかなわず、なぜかドアから遠いはずのドレッサーにフィリプがやってきた。
な、なに…?
内心動揺して、思わず手を止めるディアナ。
ディアナの右側に立つフィリプと鏡越しに目があう。
「そんな拭き方をしちゃだめだよ。せっかくのきれいな髪が傷んでしまう」
思ったよりもフィリプの声が近い。耳がぞくぞくするほどの近さ。
鏡越しに見るのと実際の距離に差異があるのか。
ディアナは、緊張のあまり、《は、はい…》とかすれた声で言って、それきり動けない。
「ちょっと触るね」
フィリプはそう言ってディアナが髪を拭くのに使っていたタオルを取り上げて、妻の髪の毛先をタオルで包むようにして髪の水分を吸い取る。
「こうやって、あんまりこすり合わせずに拭いて」
なにを言われているのかあまりわからずに、けれども《何かを指示をされていること》は把握できたので頷いた。
互いになにも言わずに、ただフィリプがディアナの黒髪を拭く時間が続く。
男性に髪に触れられるなんて滅多にないから、フィリプの香水の香りが気になるし、自分自身の姿勢やほほの肌荒れ、瞬きの回数のような細かいことまで気になって仕方ない。
変に思われていないだろうか。
ディアナは《自分でやります》とか、《旦那様、お風呂に入っていらしてください》とか、沈黙を破る言葉をいくつも考えてはそれを口から出さずにいた。
声が裏返ってしまいそう、とか、そういう細かいことが気になって仕方なかったからである。
沈黙は気まずいけれど、それ以上にディアナはフィリプに変に思われたくなかった。
―――――――――――――――――
ずいぶん長いことそうやって過ごしていた。
ふと、タオルとフィリプの手が離れた。
「さ、終わった」
フィリプは鏡越しにディアナに微笑みかける。
ディアナは、つい微笑みを返した。ぎこちない微笑みを。
タオルで丁寧に拭ったことで、ディアナの髪は多少しっとりしているという程度になった。
「ありがとうございます、旦那様」
フィリプは、《いえいえ》というように、微笑んでちょこっと礼をする。それから、それほど深刻そうではないものの悩まし気に眉を寄せた。
「ほんとは、美容院にあるドライヤーを使った方が髪にはいいんだ。どうにかあれを家庭用にしたいんだけれど、なかなかいい魔法陣がわからなくてね…」
フィリプはディアナに話しかけるていではありながらも、ほとんど独り言のように言う。
フィリプが何を言っているのか、ディアナにはさっぱりだった。ただ《そうなんですね》と相槌を打った。
フィリプは、小型化が、とか、安全性がね、とか、考えを整理するように呟きながら、ディアナの髪を人差し指で一筋すくって、そのまま落とした。それを何度も繰り返す。
夫の行動の意味が分からなくてディアナは硬直した。
指の動きは優しくて、決して嫌な気はしない。
ふと、鏡越しにばちっと視線がかち合ってディアナは少々ひるむ。ほんの少し目をそらした。
フィリプはそれで我に返ったようでくすくす笑いながら、
「お風呂、入ってくるね」
と言った。
彼は椅子に座るディアナを後ろからのぞき込んで、ディアナのおでこに唇を当てた。
おでこに、唇を、あてた。
……キス、された?
ディアナが、なにが起きたのか理解したとき、フィリプはドアに向かって歩いて行って主寝室を出ていっていた。
振り返ったディアナに見えたのは。その耳が赤いような気がしなくもない、というほどだった。
「どういうこと…!?」
思わず声に出すディアナ。
結婚の申し出をした際のフィリプは《妻を虐げない》と言った。確かに言った。
しかし、どう考えても、フィリプの《妻を虐げない》のレベルが高すぎる…!!
旦那様がお風呂から戻られたら、伝えよう。
ここまでていねいに扱われなくとも《虐げられている》と感じない、と。
きっと、フィリプは、夫婦たるものキスの一つや二つ、という心持でいるのだろう。それで無理してディアナのおでこにキスをしたのだ。
それなら、自分から申し出るのが彼にとって親切だろう。
そう決心したけれど。
どんな顔をして、この寝室で旦那様を待てと!?
キスされた後に!?
ディアナは、ドレッサーの前に駆け戻って、フィリプを待つ顔の候補をいくつかしてみる。
グスタフとの婚姻期間、こんな風に彼に対する接し方に悩んだことなどなかった。
幼馴染で気心が知れていて、ディアナが何も考えずに話すくらいでなければグスタフから何かを発することがほとんどなかったから。
待つ顔の候補はどれも没だ。どんな顔でも、そもそも顔を合わせることが無理だ。
…寝てしまおう。
ディアナは潔く諦めてベッドに入った。思考を放棄したのである。
フィリプが戻るまでに寝てしまえば、とりあえず顔を合わせるのは明日の朝まで延期できる。
主寝室のベッドの、ドレッサー側に横になって目を閉じる。
…いけない。この向きでは旦那様と向かい合ってしまうかもしれない。
ディアナは向きを変えて再び目を閉じた。
目をつむると、どうしても、先ほどのキスの感触がよみがえってくるし、ここ数日のフィリプとのやり取りも思い出されてしまう。
昨日は裸を見られ、体重を知られ、今日はおでこといえどキスまでされた。
こんなの普通の夫婦じゃないの。
こんなの、普通の、夫婦じゃないの…!
夕方まで惰眠をむさぼっていたディアナは全く眠くない。
けれども、旦那様が戻るまでには寝なければ…!
そんなことを考えているうちに、主寝室のドアがノックされてそれから開いたのが分かった。
目をつむって、時間の経過がわかっていなかったけれど、もうフィリプがお風呂から上がってきたのだろう。
「ディアナ?」
フィリプが自分に呼びかける声が聞こえてきた。心なしか、いつもより、声が甘く聞こえる。
眠いのだろうか。それとも、先ほどのキスのせいで、ディアナのなかの乙女の部分がそう思いたがっているだけだろうか。
そう思いつつ、ディアナは狸寝入りを決め込む。どんな顔して会えばいいのかますますわからない。
フィリプがドアを閉めて、ベッドに近寄ってきたのが分かった。
「ね、寝ている……?」
驚いたような、がっかりしたような、そんな声に聞こえたのは気のせいか。
ディアナは心の中で謝りながら規則的な寝息を立て続けた。
フィリプのため息が聞こえて、ベッドがフィリプの側に傾いたのが分かった。
そうだった、このベッド、夫婦で共有…!
ディアナは動揺を必死に押し隠しながら、隣からフィリプの寝息が聞こえてきてからしばらくするまで、心臓が破裂しそうなほど緊張しながら寝たふりを続けたのだった。
この甘さは朝読む物じゃないなと思ったので夜中の更新です。




