夕食を食べよう
「おふたりは、ハネムーンはどちらに行くの?」
ヘレナの問いに、ディアナは首を傾げてフィリプを見た。
時間も時間なので、ヘレナを夕食にご招待して、3人はダイニングルームで食事を摂ることにした。
サシャは急な一人分の増加にも、承知いたしました、となんでもないように対応する。
大学時代の思い出とか、共通の友人の話とかで盛り上がる2人に、ディアナは適度に相槌を打って楽しんでいたが、ヘレナの問いによって話の矛先が自分たちに来たのだ。
「まだ決めていない。ディアナの希望を聞いてから決めようと思って。
それに僕が1か月以上の休みが取れるのは年明けになりそうだから…」
後半、フィリプは申し訳なさそうにディアナに視線を向けた。
子犬顔のフィリプのそうした表情はどうしても捨てられて可哀そうな子犬のように見えるため、ディアナはつい母性をくすぐられてしまう。
「あら、あなたのことだから、結婚したとたんなんとしても3か月くらい休みを取ってくるのだとばかり思っていたわ」
ヘレナは愉快そうに笑う。
「僕だってそうしたいけど、今度帰ってくる商船とかの関係で繁忙期なんだよ」
フィリプは唇を尖らせた。
繁忙期だというのに、昨日も今日も、平日なのにフィリプが仕事に行っている様子はない。
ディアナは急にそのことが気になった。
「旦那様、昨日今日、お仕事はよろしいのですか…?」
フィリプは照れくさそうに笑う。
「うん、まあ。明日も含めて三日はなんとか休みを勝ち取ってきたんだ。また明後日から仕事に行く。
ディアナ、一人で過ごせる?」
フィリプの心配に、ディアナは、そんな大げさな、と笑ったし、聞いていたヘレナも笑った。
「フィリプさん、心配しすぎよ」
「はい、それほどご心配なさらずとも、一人で平気です」
むしろフィリプがいない方が気楽ではある。
フィリプはばつが悪そうに、そっぽを向いた。
「ここにきてまだそんなにたってないっていうのに、妻をひとりにするんだから、心配したっていいじゃないか」
「それにしたってねえ」
ヘレナは友人のそんな様子が面白くて仕方がないらしく、ずいぶん笑っていた。
「あの《飛び級のペトラーチェク》がこんな風に奥さんを大切にするようになるなんて、思ってもみなかったわ」
「やめてよ、ヘレナさん」
フィリプの慌てたような様子に、ディアナは、このお二人は本当に仲がいいのね、と笑う。
ディアナの前では、フィリプは猫をかぶっていたようだが、ヘレナの前ではその猫がすこしずつはがされていっている。
ディアナにはそうした友人がいないので、少しうらやましい思いもありつつ、二人の会話に相槌を打った。
「はー、おかしい。あの工学部首席の、フィリプ・ペトラーチェクがねえ」
ヘレナにとってフィリプはどんな人間なのだろうか、とディアナも少し苦笑するほどヘレナは笑ってからそう呟いた。
それから《工学部》という新たな情報にディアナは首を傾げた。
「工学っていうのは…?」
ディアナの呟きに、フィリプは目を輝かせた。
ヘレナに揶揄われるこの苦境から話題を変えられるのがうれしいのか、自分の得意分野の話をできるのがうれしいのか、ディアナが自分に興味を持ったのがうれしいのか、それともそのすべてがうれしいのか。
「実用的な科学だよ。数学とか、物理学とか、魔法学とか、そういうのを応用して製品を作るんだ」
ディアナは《へえ…》と相槌を打ったものの、まったくわからなかった。
ディアナがわからないことを見越してか、フィリプは懐から海中時計を取り出す。
「例えば時計。どういう歯車をどうやって配置すれば、ずれずに動き続ける時計になるのかとか、とある配置にしたときにどうして時間がずれてしまうのかとか、そういうことを考える学問なんだ。」
時計の話を例に出してもらえると、ディアナにとってはとても分かりやすかった。
父やグスタフに、時計の仕組みについては詳しく説明されたことを思い出し、納得する。
ぼんやりと工学について想像がつくようになったディアナは、《そうなんですね》と相槌を打った。
「さっき、工学は実用的な科学だっていったけど、今の時計の例でいくとね、より良い仕組みを考え出すには、ひとつの歯車が、どうやってゼンマイの巻き戻る力を、次の歯車に伝えるのかを考える必要がある。例えばだけどね。
それで、それを考えるためには、力がどうやって伝わるのかを考える物理学っていう分野を知る必要があるし、その物理学を学ぶには数学を知る必要がある。物理学とか、数学とかをまとめて基礎科学っていうんだけど、基礎科学の成果を実用的に使えるようにするのが工学なんだ」
ところどころわからないことはあるものの、概要はわかった。
ディアナは、フィリプの言うことを理解しようと、彼の言葉を自身の中で咀嚼しながら神妙にうなずく。
フィリプはやはり自分の得意分野の話をすることが楽しいのだろう。きらきらした瞳でその後も歯車について語った。
ヘレナはそんなフィリプを見慣れているのか、ほとんど我関せずでディナーを続けていた。
話を聞くのに真剣になっていたディアナと、話をするのに真剣になっていたフィリプは夕食を食べる手が止まってしまう。
ヘレナがひとり食べ終わり、フォークとナイフを置いたことで、二人は我に返る。
「これだけ話しておきながら、実はあんまり歯車のことはくわしくないんだ。僕の専攻は魔法工学だから」
長く話してしまったことでディアナに悪いと思ったのか、フィリプは眉を垂れさせてそうことわりを入れた。
ディアナは、《専攻》がなんなのかわからなかったものの、なんとなく察した。おそらくフィリプは歯車よりも《魔法工学》に詳しいのだろう。
「フィリプさん、やっぱりそれだけ好きなら研究者になればよかったのよ」
ナプキンで口周りをぬぐうヘレナの言葉にフィリプは苦笑した。
「いや、まあ、これは趣味みたいなものだからねえ。子どものころから将来は《商事》を継ぐんだって思っていたから研究者になるなんて考えもしなかったし」
ディアナは、相槌を打ちながら、フィリプ・ペトラーチェクも人間であるということを初めて認識した。
あまりにもディアナとは住む世界の違うひとだから、彼が意思を持つ人間だという実感が今までなかった。
ある意味で、神のような存在だった。
しかし、《詳しいこと》があり、《趣味》がある、将来について考える子ども時代のある人間だった。
彼の友人ヘレナを含めた晩餐で、ディアナはやっと年下の夫を、意思をもつ人間だと思えた。
作者は7×8がとっさにできない文系人間ですので、工学についての説明ってこれで合ってる?って感じでかいています




