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ディアナ、お風呂に入る

 夕食を終え、ディアナは片付けは手伝おうと思い、食器をテーブルから持ち上げようとした。


 しかし、それを見越したかのようにサシャに声を掛けられる。


「若奥様、入浴の準備が整っております」


「え? でもそれなら、旦那様、先に…」


 ディアナがフィリプに目線を向けると、彼は首を横に振った。


「僕はあとで。書斎の片付けの区切りがついてからにするよ」


「それなら私は、そのあとに」


 だから片付けを手伝います、と言おうとしたが、サシャの困ったように寄せられた眉にディアナは気づいた。


「てっきり若奥様がすぐに入浴なさると思って、バスタブにお湯を溜めてしまいました」


 入浴と言ってもシャワーを浴びることだと思っていたディアナは、《バスタブにお湯を溜めた》と聞いて面食らう。


 工房にシャワーの設備はあったが、バスタブはなかった。そもそも一般家庭にバスタブは一般的ではない。


 それでもディアナは、公衆浴場のように、体をお湯に浸けるのは好きだ。


 面食らいつつも、つい嬉しくなってしまう。


「そ、それなら、入ります…」


 家の主人や働き手よりも先に入浴するのは気が引けたものの《バスタブに張られたお湯》がディアナをバスルームに誘った。


――――――――――――――――――


 ディアナは新居の案内をフィリプに受けたときに猫足バスタブの置かれたバスルームに気づいてはいたが、まさか湯を溜めていいとは思っていなかった。


 ただのインテリアとしておかれているのだとばかり思っていたのに、お湯を溜めていいだなんて!


 ダイニングルームを出て一人になったディアナは、傍目にもわかるほどうきうきとしながらバスルームに向かう。


 2階の主寝室の隣のバスルームに入ると、部屋の手前の棚にバスローブやタオルが置かれている。サシャが準備してくれたのだろう。


 部屋全体に湯気が充満しており、ディアナはますます心を躍らせた。

 衝立の奥を覗くと、サシャの言う通り、猫足のバスタブにお湯が張られている。


 ディアナはいそいそと服を脱ぎ、メイクを落とし、シャワーブースでシャワーを浴びて、タオルで髪をまとめてバスタブに浸かった。


 《自宅》でこんな贅沢ができるなんて最高だわ……


 ディアナは未だにこの新居が《自宅》だという実感を得ていなかったが、それでもここは自宅なのだ。


 ついひと月半前の自分は、こんなことになるなんて思ってもいなかった。

 グスタフが亡くなり、フィリプと再婚を決めたのはついひと月前で、たったひと月の間にこんなに生活は変わった。


 今朝までは生まれてからずっと暮らしてきた《時計工房 ノヴァーク》にいたのに……


 湯あみの幸福感の中にいたディアナの胸に、時計工房の面々の顔が思い出される。バスタブでひとり寂しさをかみしめながら涙を流す。


 この涙が落ち着いて、旦那様とサシャさんの前に出ても平気な顔になったら、お風呂から上がろう。


 そう思ってディアナは、バスタブにもたれかかって目を閉じた。


 ディアナの思考に湯けむりがもやをかけていく……







 次にディアナが目を覚ましたのは、主寝室のベッドの上だった。


 光を感じて目をわずかに開ける。

 見慣れない天井と、いつもと違う感触のベッド。


《時計工房 ノヴァーク》の工房長夫妻の寝室ではないことに気づきつつも、自分がどこにいるのか、なかなか理解ができなかった。


 理解したのは、体を起こして、どうしようか考えるでもなく考えているとき。

 主寝室のドアが開かれてフィリプが入ってきたときだった。


「あれ、ディアナ。起きたの。よかった」


 フィリプは水を入れたピッチャーと空のグラスを持って入ってきた。心底ほっとした様子でディアナに笑いかける。

 反射的にディアナはひょこっと礼をした。


 夫の顔を見たことで、前日にフィリプ・ペトラーチェクと結婚したことを思い出し、ここがフィリプ・ペトラーチェクと自分の新居だということも思い出した。


 しかしながら、寝たときの記憶がない。主寝室のベッドに入った記憶が。


 フィリプはグラスに水を注いでディアナに手渡した。


「レモン水。脱水になっているかもしれないから、一応飲んで」


 訳も分からず、ディアナはフィリプからグラスを受け取って、礼を言おうとするが、声がかすれて出ない。

 口を動かすのみで礼を伝えると、フィリプは、うん、と頷いた。


 受け取ったレモン水を飲むと、冷たくてすっきりする。水を飲んだことで、頭痛に気が付いた。

 グラスのレモン水を飲み干して、少しぼんやりしていると、フィリプが


「もう一杯飲む?」


と尋ねてくる。


 ディアナは首を横に振った。


 そこでやっと、昨夜の記憶が猫足バスタブに浸かっているところで途切れていることに気が付く。


 お風呂で気を失ったか、眠ってしまったか。


 いずれにせよ、主寝室のベッドまで来た記憶がない。


「……あ、あの、旦那様」


 ディアナの震える声での呼びかけにフィリプは微笑みを返す。


「うん?」


「わ、私、昨晩、お風呂から上がった記憶がなくて」


 フィリプは苦笑した。


「そうだよね。

なかなかお風呂から出てこないからさ、サシャが心配してノックしたり呼びかけたりしたらしいんだど、返事がなくて。

ドアを開けてみたらバスタブでディアナがぐったりしてたんだって」


 初日から、とんだ失態をさらしてしまった!


 長湯をした結果、のぼせて気絶するなんて、本当になんて自分はあほなんだろう!


 よくよく思い出してみれば、そろそろ上がろうと思って立ち上がった記憶はある。

 それから、視界が眩んで……。血圧が急に下がったのだろう。


 それで気絶なんてなんて情けない…!


 ディアナは、恥ずかしさと申し訳なさで赤面した。顔が熱くて自分でも赤くなっているのがわかるほどだ。


「サシャの叫び声で僕も駆け付けて、引き上げてここまで運んだ。よかった、元気そうで」


「おかげさまで、体調はとても……」


 言いながら、ふとあることに気が付いて今度は青ざめる。


 よく考えなくとも、入浴中だったのだから、全裸だったはずだ。


 ()()()()()、バスタブから引き上げてここまで運んだ、と言った。


 つまり、()()()()()()()()

 しかも運ばれたということは、()()()()()()()()()()()()()()()()()


 恥ずかしいやら、申し訳ないやら、情けないやら、ディアナはもう何も言えなかった。


「お風呂、気に入ってくれたなら何よりだけど、これからはあんまり長湯しないようにね。心配だから」


 自分のほうがたった2歳といえども年上なのに、こんな心配をされて情けない限りである。


 フィリプの真剣な調子に対して、ディアナはただただ頷いた。


 ()()()()()()()()()のことを、フィリプが言及しないことがディアナにとって唯一の救いだった。


「もう、ほんとに、ごめんなさい……」


 泣きたいほど恥ずかしい思いを一言に込めると、フィリプは、うん、うん、と頷いた。


「レモン水、もっと飲んで。塩飴もサシャが作ってくれたからなめて。そしたらまたゆっくり休んで」


 よほど心配なのか、フィリプは次々ディアナに指示を出す。

 ディアナは遠慮する気力もなく、はい、はい、と頷いて、ありがとうございます、と繰り返しながらその指示に従った。


 塩飴をなめ切ってからベッドに横になって、自身の情けなさを嫌悪する。


 自分がいると寝づらいだろうから、とフィリプは主寝室から出て行った。


 ディアナは一人になった部屋で目を閉じて再び寝ることにした。


 そして、ふと気が付く。

 この家には、主寝室にディアナが今寝ているベッドが一台あるだけだ。

 ゲストルームやメイド部屋にもあるにはあるが、前者は昨晩の段階でいまだ準備されておらず、メイド部屋のものはサシャが使ったはず。

 家の主人が寝るのにふさわしいベッドは、今ディアナが寝ている夫婦用のものしかない。


 昨晩から今朝にかけて、フィリプはどこで睡眠をとったのか?


 ……自分(ディアナ)と添い寝、以外に考えられる答えはない。


 あまりのことに、ディアナは思考を放棄して、朝から惰眠をむさぼることにした。

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