メイドがやってきた!
「紹介するよ、ディアナ。うちの実家で雇っているメイドのサシャ」
自動車からトランクを降ろして、その中身を整理し終えたころ、フィリプの実家からメイドがひとりやってきた。
年のころは30代後半だろうか。きっちりと髪をまとめて、メイドキャップをかぶっている。
あまり愛想がなく、ディアナとしては少し気が引けた。
よろしくお願いします、とディアナが言うと、サシャはすっと頭を下げた。
「サシャはもうずいぶん長いこと、うちで働いてくれているんだ。
実家のハウスキーパーに誰かうちに来てほしいって言ったら、サシャならなんでもこなせるからってことでね」
確かに、見るからに手際よく家事をこなしてくれそうな印象を受ける。
ディアナは、そうなんですね、と頷いた。
「僕は僕で、近々メイドを雇おうとは思っているんだけど、募集かけてから決まるまで時間かかるからね。
それまでの間、実家から来てもらうことにしたんだ」
ディアナは、再びうなずいた。
結婚以前、自身が使用人として《時計工房 ノヴァーク》に雇われていたとはいえ、職人として父がいたし、なにより自分が生まれ育った場だったので、雇われていた、というよりも、幼少期の家事手伝いの延長の気持ちだった。
それが、本職の女性使用人というのを目の当たりにして、カルチャーショックを感じているのだった。
「よろしくお願いいたします、若奥様」
サシャの言葉に、ディアナは面食らった。
《若奥様》と呼ばれたことがディアナに衝撃を与えたのだ。
《若奥様》という呼称で呼ばれるのはディアナにとって生まれて初めてだった。
グスタフの妻として、《奥さん》とは呼ばれたことは多々あったけれども《若奥様》というのははじめてだった。
ディアナは、おっかなびっくり、《ハイ、ヨロシクオネガイシマス》と返事をして礼をした。
フィリプはディアナのその様子に苦笑して、サシャに指示を出す。
「サシャ、さっそくで悪いんだけど、夕食の準備を。僕は、書斎を片付けるけど、ディアナはゆっくりしていて」
ゆっくりするにもこんな状況で《ゆっくり》できるような神経を持ち合わせていないディアナは、《承知しました》と返事をしながらも、フィリプかサシャの手伝いをしよう、と考えるのであった。
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「引っ越しのために急いで箱詰めしたから雑で、恥ずかしいから。ひとりで大丈夫だよ」
とフィリプの手伝いを断られたため、ディアナはキッチンでサシャの手伝いをすることにした。
しかし、サシャはサシャで、手伝いたいと言ったディアナに
「いけません、若奥様。若奥様に料理をさせたなんて若旦那様に知られたら私が叱られますので」
と困ったように笑ってみせた。
持参した荷物も少なくて荷ほどきというほどの荷ほどきもなく、フィリプが用意した家は完璧に片付いている。
せめて買い出しでもいければ、と思うのに、マジックツールの食糧庫には二人分には十分な量の食材がすでにあった。
引っ越し直後だというのにこれほどやることがないとは。
そんなわけでディアナは手持無沙汰になり、キッチンに置かれているスツールに腰かけてサシャの作業を見守ることにした。
サシャの手際は見事で、ディアナは思わず見入った。
すごい、とつぶやくと、サシャは、ありがとうございます、とそう有難くもなさそうに言った。
香草と肉の焼けるいい香りが漂い、ディアナは空腹を自覚する。
作業を見守っていたディアナは、そろそろ出来上がるかしら、と思い、せめて盛り付けだけでも手伝おうと立ち上がる。
けれども、ディアナに手伝わせまいとする意志の強いサシャは、にっこりと笑って、《若旦那様に、お食事のご用意が整います、とお伝えしてきてくださいませんか》と仕事らしくない仕事をディアナに振った。
「わかりました」
とディアナはキッチンを出て、2階にあるフィリプの書斎に向かう。
ノックをして返事が返ってくるのを待った。返事より先にドアが内側から開く。
「ああ、ディアナ」
ディアナが立っていたのを認めてフィリプはにこっと微笑んだ。
ついつられて、ディアナも微笑みを返す。
「サシャさんが、お夕食の準備をしてくださいました」
「わかった、すぐ行くね」
フィリプはなにか力仕事の最中だったようで、シャツの袖をまくって手袋をはめていた。
フィリプは部屋の中に戻りながら、それを外して机に置く。
ディアナは、力仕事ならなおさら手伝えることはなさそうだわ、と思いながらも部屋を覗いた。
「すごい、本ばっかりだわ……」
驚きのあまり、声が漏れる。
乱雑ではあるものの、ディアナの肩あたりまで本が積みあがった山が、部屋中にいくつもある。
「え? ああ、うん、まあね」
フィリプは照れくさそうに笑いながら、ディアナの視界を遮るように彼女の前に体を移す。
「もう少し整理したら、見せる。好きに読んでくれていいからね」
ディアナは、勉強しなきゃいけないことを思い出して、げんなりしつつ、部屋を埋め尽くすほどの本を読むフィリプに改めて尊敬の念を抱くのだった。
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サシャの作った夕食は、チキンステーキと野菜のスープだった。
ダイニングルームでディアナとフィリプは二人きりの夕食を摂る。
おいしそうな食事なのに、ディアナは緊張のあまり味がよくわからない。フィリプの前で、フォークやナイフの使い方を気にしながらでは、味わう余裕などなかった。
フィリプは《気にしないで、普通に食べて》と笑ったものの、ディアナとしてはそういうわけにもいかない。
マナーなどよく知らないディアナからしても、フィリプの食べ方は美しかった。
見よう見まねでゆっくりと食べてみる。
旦那様のいう家庭教師の先生に食事のマナーも教われるかしら、とディアナは考えながら、粗相の無いよう慎重に食事をした。




