新しい家
寄付金を納めて教会を後にし、自動車に乗り込む。
「さて、じゃあ家に向かおうか」
フィリプはそう言って自動車を発進させた。
「二人で暮らせるように、家を借りたんだ。気に入ってもらえるといいな」
ディアナはてっきり、ペトラーチェク家の方々と一緒に住むのだと思っていた。
しかし、よく考えてみれば、仮にそうだとすればフィリプの父にわざわざ挨拶に行く必要がなくなる。というよりも、家に帰るだけで挨拶することになるのだから、フィリプがああいう風に言うのはおかしい。
ディアナは、きっと気に入ります、と返事をした。
あまり大きい家でないと嬉しい。大きい家だと一人で掃除をするのが大変だからだ。
自動車は北西方向に向かっている。
市庁舎周辺の観光地を抜けて、王都の住民が暮らす住宅街に入っていく。よく手入れされた白い街並みにディアナは自動車の中から見惚れる。
アパルトマンの多い中心部を抜けて、一軒家の多い地区に入ってすぐのあたりでフィリプは自動車を停めた。
「さあ、着いた」
フィリプは楽しげに自動車から降り、ディアナ側の扉を外から開ける。
彼の差し伸べた手に頼って自動車から降りて改めて、新居を見た。
ディアナがイメージしていた《ペトラーチェク家御曹司のお住まい》よりはずっとこじんまりしているものの、二人暮らしには十分すぎる大きさの洋風建築だった。
ご近所の家々と外観こそ似ているものの、ディアナには《我が家》として紹介された家が輝いて見えた。
幼少期は《時計工房 ノヴァーク》の3階にある部屋で両親と、結婚してからは工房長夫妻の部屋である工房の2階でグスタフと暮らしてきたディアナにとって、一軒家に住むというのはひそかな憧れだった。
日の光に照らされて漆喰の壁がおだやかに輝く。
ディアナは感極まって、言葉を失った。
そんなディアナの様子を見て、フィリプは微笑んだ。
「気に入ってもらえたみたいだね。よかった。さあ、中に入ろう」
フィリプは、そういってディアナをエスコートして玄関に誘導する。
新居に心を奪われているディアナはフィリプのエスコートに恐縮することもなく、スムーズに従った。
――――――――――――――――――
フィリプの案内で、新居内を一通り見て、ディアナはすっかりこの新しい我が家を気に入った。
ディアナの内心の希望通りそう大きすぎる家ではない。
各部屋を見て回っても10分ほどで見終わる大きさだった。
そのうえ、サンルームがあることが特にディアナのお気に召した。サンルームからそのまま出られる庭もある。
フィリプの前だからあまり感情を表に出さないように気を使ってはいたものの、一人で見て回っていたら、きゃーきゃー騒ぎまわっていただろう。
「どうかな、気に入った?」
フィリプは自分の選択に自信があったのだろう。
もしくは、案内した際のディアナの反応を見て、自信がついたのか。
いずれにしろ、自信たっぷりに微笑んでディアナに尋ねた。
「はい、とっても!」
サンルームから庭を眺めながらディアナは頷いた。
フィリプの勧めで、ディアナはサンルームに置かれた椅子に腰かける。フィリプも隣に座った。
「外から見ても、中を見ても、とても素敵です」
「よかった。一緒に住む家を、二人で選びたい気持ちもあったんだけれど、それよりもディアナを迎え入れてすぐに住めるようにしておきたくてここを借りた。
家族が増えれば、ここから引っ越すことにもなるだろうし、ふたりで選ぶ楽しみはそのときにとっておこうと思ったんだ」
確かに二人で暮らす分には十分な広さだが、家族が増えたら手狭になるだろう。
ディアナは、《家族が増える》ということの意味を呑み込めずに、なんとなく頷いた。
「このくらいの大きさならお掃除も私一人でできますし、キッチンもマジックツールがいっぱいで使いやすそうで、嬉しいです。
良い家を選んでくださり、ありがとうございます、旦那様」
マジックツールのないキッチンは、ディアナにとって、半ば恐怖の対象でもあった。
あの便利さに3年かけて慣れ親しんだディアナには、マジックツール無しのキッチンでの料理など考えられない。
ディアナはフィリプにめいっぱい感謝を伝えたつもりだったが、フィリプはきょとんと首を傾げる。
「ディアナ、家事をするつもりなの?」
フィリプの問いの意味が分からなくてディアナも首を傾げる。
「はい。……え?」
「え? 実家で雇っていたメイドに来てもらおうと思っているんだけど」
実家で雇っていたメイド……?
ディアナはさらに首を傾げた。
「どうして……?」
《時計工房 ノヴァーク》の家事を一手に引き受けてきたディアナにとって二人暮らしの家事をこなすのはそう難しいことではない。
勝手が違うことも多いだろうから簡単であるとは言えないが、わざわざ人を雇うほどのことだとは思えなかった。
だから、《どうして》としか言えなかったが、フィリプもまた首を傾げていた。
「どうしてって、うーん、僕はそういうものだと思っていた…。それにディアナには家事以外のことをやってもらうつもりだし」
「でも、私、家事以外、できることなんてありません」
ディアナが眉を寄せてみせると、フィリプは困ったように微笑んだ。
「うん、まあ、そう思って、家庭教師を雇ってみようかなって。ディアナに読み書きとか計算とか、そういうことの勉強をしてもらうように」
《勉強》と聞いてディアナは身構えた。
幼いころ、グスタフが学校で習ってきた読み書きや計算を家で復習しているのを隣で眺めて、訳が分からなかったのがディアナの原体験として強く印象に残っている。
要は、《勉強》に苦手意識しかないのだ。
フィリプは、ディアナの様子を見て愉快そうに笑った。
「そんなに身構えることないよ。優秀な家庭教師を探したし、僕も一緒に教えるから」
そう言われても、苦手なものは苦手で、いやなものはいやである。
それでも、借金のために結婚している以上、フィリプの意向にはできる限り従おうと思っているため、苦虫を嚙み潰したような表情でディアナは、わかりました、と答えた。
「ご期待に沿えるかわかりませんが、努力はします……」
フィリプは笑って頷いた。
「うん、うん。でも、試験があるわけじゃないから、気楽にやろう。きっと楽しいと思う」
《楽しい》だなんてフィリプは何を言っているのだろう、としかディアナは思えなかったが、それでもとりあえず、わかりました、と返事をした。
「まあ、そういうわけだからさ、家事のことはメイドに任せて、ディアナは勉強を楽しんでね」
フィリプは楽しそうに言うけれども、この新しい家で、楽しく料理したり掃除したり洗濯したりするはずだった未来予想図が、ディアナにとっては、暗澹たるものとなってしまったのだった。




