グスタフの火葬と《親切な方》
神のおわす天国の大気を現世に発生させ、それを材料に物理とは異なる理でさまざまな現象を起こすことを、国教会では《魔法》と呼んでいる。
天国の大気は一般に《聖気》と呼ばれ、人間にとっては清すぎるものだとされている。少量なら問題はないが、大量に触れると魅了されてしまう。
それでも、国教徒にとって魔法や天国は忌避するものではない。
魔法は神が人間に与えてくださった最上のものであるし、死後、聖気が満たされた天国で永遠に過ごすことは喜びである。
国教徒にとって死は苦しみではなく、魂が現世の肉体を離れて神の御許に行くことなのだ。
そのため、国教徒の遺体は、現世の肉体に対する執着を手放せることを祝う炎で焼くことと教えられている。
グスタフ・ノヴァークの遺体を入れた棺も、教会の庭に併設された火葬用の炉に入れられる。
炉扉を閉めると、司祭による魔法の炎で棺が包まれたのが炉扉に着けられた小さな窓から見えた。
ディアナと、司祭、それから《時計工房 ノヴァーク》の職人2人と見習い3人は、三角形に手を組んで祈りながら、時を過ごした。
十数分もすると小さな箱に収まってしまうほどの骨のみが残る。
背が高く、体格もよかった夫が、自分でも抱えあげられるほどの大きさになったことにディアナは戸惑いを隠せなかった。
《時計工房 ノヴァーク》の者はだれもがそう感じたようで、その箱を誰かがじっくりと見ることはなく、小さくなってしまったグスタフから目を背けていた。
「それでは、納骨に移りましょう」
司祭は遺灰をいれた箱を抱えあげてそう指示した。
司祭と6人は、粛々とそれに従って墓地に移動する。
司祭は教会管轄の墓地の、ノヴァーク家の墓に箱を入れる。
墓石にグスタフ・ノヴァークの名前と生年月日、没年月日が、司祭の魔法で新たに刻印された。
ディアナは文字が読めないが、夫の名前と数字はわかる。
だから、なんの説明もなされなかったがそこに刻まれたのがグスタフの名前と彼が生きた日付なのだということはわかった。
「それでは、同胞、グスタフ・ノヴァークが神の息吹の中で永遠の安息を得られるよう、皆で祈りましょう」
司祭のことばはふしぎなほどよく響く。
ディアナたち6人は、きょう何度目になるかわからないが、グスタフの安息を祈った。
―――――――――――――
葬儀であっても、金はかかる。ディアナは、教会に戻ると司祭に声をかけた。
「あの、神父様」
司祭は微笑んでディアナにベンチを示して着席を促す。
教会特有の静寂のなかディアナは司祭の指示どおり、ベンチに腰掛ける。司祭は、ディアナの横に座った。
《時計工房》の職人たちは、葬儀用の花祭壇の片付けや教会の掃除に名乗りをあげて、声をかけあいながら作業している。
その作業の声を聞きながら、司祭は未亡人となったディアナによく言い含めるようにゆっくりと話し始めた。
「ディアナさん、グスタフさんは神の息吹に包まれて召されました。召天のときでさえ、苦しむことはなく、むしろ神の息吹に包まれた喜びのなかにあったでしょう。今はもう、神の御許で穏やかな命を手に入れているはずです。いいですか、ディアナさん。グスタフさんの死のために、あなたが悲しむことはなにもないのです。グスタフさんも、あなたが悲しむことは望んでおられなかったでしょう。それでも、どうしても彼の死が悲しく感じられてしまうときは、祈りましょう。神様は、すべてを良くしてくださいます」
ディアナには、司祭のいうことはなにもピンとこなかった。
正直なところ、ディアナは夫が死んだことを悲しんでいない。
グスタフが聖気に魅了されたことで、遺体は温かく、血のめぐっているかのような顔色のままだったし、炉に棺をいれるところは見ても、グスタフの肉体が燃えているのを見てはいなかった。
夫の死は、その遺灰が納骨されてもなお、ディアナにとって現実ではなかった。
そして、仮にディアナが夫の死によって打ちひしがれていたとしても、特に信心深かったわけでもないグスタフが聖気に魅了されたことを《神の息吹に包まれている》と感じたとは思えなかったし、ディアナの夫は、自分が死んだら自分の妻にはこの世の終わりじゃないかと思うほど悲しんでほしいと思うタイプだったことをディアナは知っている。
ディアナがピンと来ていないことを司祭は察したのだろう。
あいまいに微笑んで、ディアナの要件を話しやすいように間を作った。
「神父様、あの、不躾で、お恥ずかしい限りなのですが……」
ディアナは、司祭の作った間にありがたく乗った。
母から受け継いだ古い型のハンドバッグから布に包まれたお札を出す。
ディアナの義父、つまりグスタフの父の葬儀の時の寄付金の額を参考にお金をかき集めてきたものの、ディアナは司祭がこれで納得してくれるのか、不安でたまらなかった。
しかし、司祭はディアナが二人の間に置いた布の包みに視線を落としてから、微笑んで首を横に振った。
「ディアナさん。これはあなたがとっておきなさい」
司祭は、お札を包んだ布をディアナのほうにそっと押す。
「え? でも……」
「教会は神の家ですが、俗世的なことからどうしても切り離せません。ですが、今回は、ディアナさんがとっておきなさい」
そういわれてもディアナは、はいそうですかと包みをしまえなかった。
その様を司祭は想定していたようで、普段の司祭然とした穏やかなほほえみではなく、少々俗世的に、にやりと笑みを作った。
「実をいいますと、もうすでに寄付金は受け取っているのです。親切なお方から」
「神父様……。あの、家はすぐそこなので、足りない分をすぐにでも取ってまいりますわ」
ディアナは、司祭は包みの厚さから金額を判断して、足りないと遠回しに言われているのだろうと思った。
そうでなければ、なにかの冗談に違いない。
いったん家に帰ろうと立ち上がりかけたのを司祭は両手の平を掲げて制止する。
「ディアナさん、本当です。本当に、若くして旦那様を亡くされたあなたを想って、少しでも足しになればと十分な額の寄付をしてくださった親切な方がいるのです」
「そんな親切な方が、いらっしゃるのですか…?」
少なくとも、ディアナからすれば葬儀のための寄付金はそうやすやすと出せる額ではない。
しかし、司祭がディアナを止める様子は冗談や嘘、遠回しな催促というものでもなく、ディアナは首を傾げた。
「はい。その方に、ディアナさんに名乗っていかれないのですか、とお尋ねしたのですが、そんな押しつけがましいことをしたいわけではない、と。立派な方です」
司祭は、再び聖職者然としたおだやかなほほえみを湛えて、その《立派な方》を思い出すように目を閉じた。
「…とても信じられません。そのようなことをしてくださる方に心あたりがなくて」
「良いことをすれば、自分に返ってくるのです。きっと、ディアナさんの普段の行いを、神様が見てくださっていたのですよ」
ディアナには、自分の代わりに寄付金を払ってくれるような人にも、自分自身の良い行いにも、まったく心あたりがない。
敬虔な信者ではないディアナは、ずいぶんと適当なことを言う神父様だ、と眉を寄せた。
いずれにしても、寄付金を受け取る様子が司祭にはないが、ディアナはそのまま引き下がることもできなかった。
「それなら、私、その方にお返しをしなくては。神父様、その方のお名前を、教えてください」
「それはできません。私は、その方にお名前をあなたに教えないと約束したのです。お返しは、神様にすればよいのですよ」
「でも」
数往復、ディアナと司祭は同じようなやり取りを繰り返した。
「神父様、ディアナさん、どうかしましたか」
二人が座るベンチの後ろから職人のヴラディーミルが声をかけた。
「ディディ。ああ、ごめんなさいね、お待たせして」
いつの間にか、職人たちの片付け作業も終わっていたらしい。
ディアナと司祭の話がなかなか終わらないのを心配してヴラディーミルが代表して声をかけに来たようだった。
司祭は、何も言わずに微笑み、ディアナは《親切な方》についてヴラディーミルに説明した。
「だから、神父様に、その方のお名前を教えてほしいって言ってるんだけど……」
ディアナはちらりと司祭を見るが、司祭は表情を変えない。
「ははあ。いいんじゃないですか、ありがたく取っておけば」
ヴラディーミルは、なんだそんなことか、と言わんばかりに、肩をすくめた。
「ええ? だってそんな、申し訳ないじゃない」
ディアナが食い下がると、ヴラディーミルは、ははっと笑う。
「別に、だれが頼んだわけでもないのに勝手に金払っていくやつなんですから、ディアナさんが申し訳なく思う必要、ないでしょ。
いいじゃないですか、神父様のおっしゃる通り、そのお金はディアナさんがとっておけば」
ディアナは釈然としなかったけれど、何もいわずに微笑む司祭と十数年来弟のようにかわいがってきたヴラディーミルのことばに押されて、引くことを決めた。
司祭との間に置いていた包みを、自身のハンドバッグに戻す。
「神父様、もしその方がこちらにいらっしゃることがあったら、よくよくお礼を伝えておいてください。本当なら、私がお手紙でも書ければいいんですけれど……」
ディアナが文字を書けないことは司祭も知っている。司祭は、にこにこしながらうなずいた。
ディアナは、釈然とはしないながらも、人生で初めて自発的に三角形に手を組んで、神に感謝した。