年下の旦那様
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婚姻関係登録の手続きを終え、ディアナとフィリプは広場に停めた自動車へと歩く。
フィリプは《さあ行こうか》とだけ言って、市庁舎を離れたが、ディアナのつぶやきは聞こえていなかったのだろうか。
気になって仕方がないので、ディアナは意を決してフィリプに尋ねる。
「あの、ペトラーチェク様…。ペトラーチェク様は、今年、おいくつになるのでしょうか?」
ディアナは恐る恐る尋ねる。下手に出すぎて、敬語もままならない。
フィリプは足を止め、目を丸くしてディアナを見つめた。それからあきれたように笑う。
「ほんとに知らなかったの?
王朝歴176年生まれ、今年22歳になりました」
ディアナより2歳も年下だ。
今までの落ち着いてスマートな言動からなんの疑いもなく、年上だと思っていた。
夫となる人の年齢を、市民籍にサインしてから知るなんて!
「あ、あの、私、王朝歴174年生まれで、今年24歳になりました……」
ディアナは、フィリプが知らないだろうと思って、生まれ年と年齢を言うが、フィリプはまた笑った。
「知ってる。ずいぶん前から」
今さっきフィリプの年齢を知ったディアナとしては申し訳ない限りだった。
赤面が止まらない。
「そっか、年齢も把握されていなかったか…」
フィリプは、今まで見せていた微笑みとは明らかに異なる、沈んだ表情でつぶやいた。
「ごめんなさい!ほんとに、こんなことになると思ってなくて……」
大きく頭を下げる。
ディアナのいう《こんなこと》とは、《フィリプと結婚するようなこと》であり、もし夫の取引先である大企業の御曹司と一介の未亡人という関係のままだったら年齢など知らないのが普通だろう。
ディアナが下げた頭にフィリプは、すぐさま、顔を上げて、と声をかけた。おずおずとディアナは顔を上げる。
「そんなに謝ってもらうことじゃない。僕も確かによく考えれば言っていなかったと思うんだ」
初対面から3年ほど経つが、そのやり取りのなかで年齢に言及した記憶も、しなかった記憶もないディアナは、頷くことも否定することもできなかった。
「それに、もう夫婦になったんだから、これからいくらでも時間はある。その中で知ってもらえればいいんだ」
ディアナに言うというよりも、自分に言い聞かせるような調子のフィリプに、ディアナはますます申し訳なくなる。
こんなにありがたい結婚をしてもらったというのに、夫となる人の年齢すら把握していないなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう!
フィリプがまた歩き出したのに合わせて、ディアナも歩き出す。
自動車に到着すると、フィリプはディアナのために助手席の扉を開けた。
ディアナは恐縮しながら乗り込む。申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいで、扉を開けてもらったことに恐縮することすら正しい対応なのかがわからなくなっていた。
「それに、ディアナだってもうペトラーチェクだ。僕のことをペトラーチェク様って呼ぶのはおかしい」
フィリプは、運転席に乗り込みながらディアナが自分の年齢を知らなかったことから話題をそらすように、呼び方の話に話題を変えた。
間違いない。
たしかに、ディアナも、ディアナ・ペトラーチェクとなった。
わかってはいるけれど、そうですね、といってすぐに呼び名を切り替えられるほどディアナは器用ではない。
「それでは、なんとお呼びすれば……?」
フィリプは自動車にうなりをあげさせ、アクセルペダルを踏んだ。
「そうだな、フィリプでいいよ。いや、フィリプがいいな」
「そんな、無理です!」
無理だと全否定するのも失礼だと思うのに、つい口から飛び出してしまって慌てて口を手でふさぐ。
フィリプはそんなディアナをからかうように、茶目っ気たっぷりに笑った。
「どうして?」
「どうしてって……! 恐れ多いからに決まっています!」
ディアナの悲鳴をフィリプは受け流す。
「でも、今まで通りじゃ変でしょう。ディアナ・ペトラーチェクが、夫のことを《ペトラーチェク様》だなんて」
フィリプはそう言って《ディアナ・ペトラーチェク》と満足げに繰り返しつぶやいた。
フィリプの言葉に、ディアナは何も反論できない。たしかにおかしいのはおかしい。
ディアナだってそう思う。
けれども、良い呼び名の案が出てこない。
ディアナは唇を噛んだ。
そんなディアナにフィリプは追い打ちをかける。
「それに、敬語もやめてほしい」
敬語をやめるという考えたこともない選択の登場に、ディアナは思わず口をぽかんと開けてしまった。
「僕はディアナと結婚できてうれしいんだ。夫婦になった実感がほしい」
ディアナにはフィリプの本心がわからない。
運転するその横顔をじっと見つめてみるけれど、にこにこと微笑む子犬のような顔に、ディアナが見いだせるのはただただうれしいという感情だけだった。
そんなはずはない。
メリットがあるから結婚しただけで、彼自身は結婚に興味はないと言っていたのだ。厄介ごとが片付いたから、嬉しいのだろうか。
ディアナは、フィリプの本心を読むことをあきらめ、彼に気づかれないようにため息を吐いた。
「……それでは、《旦那様》とお呼びします。夫婦になった実感がわくのではありません?」
ディアナにとって、《旦那様》はフィリプとの距離感を適切に表す良い呼称だった。
雇い主に使用人が呼びかけるにも使える《旦那様》という表現は、借金のために結婚したディアナとフィリプの関係を良く表している。
ディアナは自分の思い付きに満足して、鼻を鳴らす。
「だんなさま…? 旦那様、旦那様かぁ……?」
ものすごく釈然としない様子のフィリプをディアナはあえて無視することに決めた。
もう《旦那様》呼びを変える気はない。
なにか言えば《フィリプ》呼びをするように誘導されそうな気がしたのだった。
「僕は、《ディアナ》って呼んでいるのに、すごく距離を感じる」
フィリプのむくれた表情に、ディアナは吹き出しそうになるのをこらえた。
あのペトラーチェク様にこれほど子どもっぽい一面もあるなんて。
「旦那様はどうして突然私を名前で呼び始めたんですか?」
吹き出しそうになるのをこらえつつ、ディアナはずっと気になっていたことを尋ねてみる。
《旦那様》呼びの実績を作るのも兼ねていた。
フィリプは、運転しながらちらりとディアナに視線を向けて笑った。
「そりゃ、夫婦になるんだから距離を詰めたいじゃないか」
ディアナは、はて?と首を傾げる。
初めて名前で呼ばれたときは、まだ結婚を決めていなかったときのはず。たしか、グスタフの葬儀の時だった。
「…でも、旦那様」
そう言おうと思ったけれど、フィリプはハンドルを握っていた左手をひらひらと振る。
「恥ずかしいからあんまり追及しないで。君が好きだってだけの話なんだ。ただ名前で呼びたかった。それだけ」
ディアナは、このフィリプの《冗談》に閉口した。やっぱり笑いのセンスは合わない。
ディアナが何も言わなかったせいか、フィリプは、旦那様か、と小さく呟いてひとり笑った。
「まあ、《ペトラーチェク様》よりは、いっか」
フィリプはそう言って自分を納得させたらしい。
《旦那様》呼びが認められたので、ほっと胸をなでおろした。
キリの悪いところで切れてしまった…




