結婚をしよう
フィリプは博識だった。
待つ間、気まずい場をつなぐために、ディアナは市庁舎のロビーに掲げられている絵画に言及した。
「あの絵、真ん中は天使様かしら」
美しい女性とそれを囲んで喜ぶ人々の姿が描かれており、ロビーの壁一面を覆うような巨大な絵画である。
明らかにディアナの身長より縦も横も長いだろう。
華やかな市庁舎のわりに、色遣いは陰鬱としており、どうもそぐわない。
けれども、どこか希望を感じさせる絵画だ。
今まで市庁舎に来ても意識せずにいたが、なにかしゃべろうと思って、口に出した。
フィリプは顔を上げて、ああ、と首を横に振る。
「憲法の擬人化だよ。我が国で立憲君主制が始まった記念の絵画だ」
ディアナが、へえ、と相槌を打つと、フィリプはにっこり微笑んで口をつぐむ。
興味がないと思われたのだろうか。
ディアナは、気心知れた相手との口数少ないやり取りと同じようなコミュニケーションの取り方をしてしまったことに気がつき、慌てて言葉を足す。
「憲法って、なんですか?」
正直、《擬人化》も《立憲君主制》もわからなかったので、フィリプのいうことは何もわからなった。
しかし、ディアナの質問にフィリプは馬鹿にした様子も、あきれた様子もなく、頷く。
「国王陛下が好き勝手できないようにするための、決まりみたいなものかな」
ディアナはこれには目を丸くした。
「国王陛下なのに、そんな決まりが?」
「例えば、国王陛下が急に重い税金をかけたりしたら、僕ら民は困るでしょう。だから、国王陛下に《税金を増やすならこういう手続きで、こういう上限でお願いします》って具合にお願いしてあるんだ」
ディアナには政治がわからぬ。
だから、そんな決まりがあるなんて想像もしていなかった。仮に国王が邪知暴虐だとしても、《国王陛下はそういうもの》だと思って諦めるのがディアナの性質だ。
「あの絵の女性は、憲法を女性として描いたものでね、民が憲法を称えている場面だ。前の王朝が倒れて今の王朝が憲法を受け入れて、今の王国がある」
フィリプの口調は穏やかなもので、ディアナに《教えてあげよう》とか《そんなことも知らないのか》とか、そういう押しつけがましさはなかった。
フィリプはどうやら話し好きらしく、適度にディアナが相槌を打つと、その知識をしてくれた。
気まずい場をつなぐため、ということはすっかり忘れて、ディアナは、ふんふんとフィリプの話に聞きいる。
読み書きもできないディアナは、これまで、専門的な知識の話は難しくてわからないと投げ出すことが大半だった。
それでも、フィリプの歴史の話は、ディアナが憧れる上流階級の逸話やおとぎ話を聞くように、すっと入ってくる。
ディアナにとって、好奇心というものを知る、新鮮な時間だった。
――――――――――――――――――――
フィリプが話し、ディアナが相槌を打っているうちに、受付の男性が戻ってきた。
男性が戻ってきたタイミングで時計を確認すると、十数分は話していたらしい。
「お待たせして申し訳ございません」
と受付の男性は言いながら、二人を呼ぶ。
「いえ、お手数おかけしました。市民籍の転移のために魔法陣を動かしていたのでしょう?だとしたら、このくらい当然です」
「ペトラーチェク様にそうおっしゃっていただけると、ありがたいかぎりです」
ディアナは、微笑むフィリプを見て、ひとり納得をする。
市民籍を18番街役場から取り寄せようと思うと、いつも十数分は待っていたが、そういうものだと思っていた。
けれども、どうやら今の話を聞く限り、取り寄せのためには、転移魔法の魔法陣を起動させているらしい。
それを動かすために十数分かかっていたのだ。
王都に生まれて24年だが、今初めて市民籍の取り寄せの仕組みを知って、ディアナはこの仕組みについて誰かに話して、すごい!と一緒に盛り上がりたくてたまらなくなった。
しかし、そういう状況でもないので、その気持ちを押し込めて、受付の男性が市民籍を渡してくれるのを待つ。
「ええっと、こちらが、フィリプ・ペトラーチェク様の市民籍で、こちらがディアナ・ノヴァーク様の市民籍です」
と渡される。
一応目を落として自分のものか確認するが、なかなか見る機会がないものなので、自信がなかった。
「あの、申し訳ないのですが、読んでいただけませんか。文字が読めなくて」
ディアナは、恐る恐る申し出る。
文字が読めないこと自体は珍しいことでもないが、《ペトラーチェク商事》の副社長の結婚相手としてここにいるのだから、驚かれてしまうだろうという引け目を感じていた。
しかし、受付の男性は、ああ、はい、とディアナの市民籍を受け取って、氏名から読み上げる。
「氏名、ディアナ・ノヴァーク。旧姓コジェニー。お間違いありませんか?」
ディアナは頷く。
「生年月日が、王朝歴174年6月24日。
市民籍の所在は18番街役場で、夫のグスタフ・ノヴァークは死亡、とお間違いありませんか?」
自分の市民籍にまでグスタフの死亡が記入されているとは知らなかった。
ディアナはゆっくり頷いた。
「間違いありません」
ディアナの市民籍がディアナに渡される。
改めて見ると、ディアナの市民籍の下の方に、グスタフのサインがある。グスタフと結婚したときの彼のサインだ。
その横に、ディアナには読めないがなにか書き込まれている。
おそらく《死亡》と書かれているのだろう。
ついその文字を指でなぞった。消えるわけはない。
「私の市民籍も確かに私のものでした」
フィリプはにこやかに言って、ディアナに自分の市民籍を渡した。
ディアナは反対に自分のものを彼に渡す。
ディアナのものを受け取ったフィリプは、それに目を落として受付の男性に尋ねた。
「私のサインは、この下に書けばいいでしょうか?」
配偶者の欄はグスタフのサインが入っている。フィリプはその下を示していた。受付の男性は、ええ、と頷く。
「再婚の方はみなさんそうされます」
フィリプは頷いて、ペンを取り出しディアナの市民籍にサインをした。読めなくても、流麗な筆跡だということはわかる。
「ディアナ、ペン、持っていないでしょう?」
フィリプにペンを差し出されながら言われて頷いた。
ディアナの持ち物リストのなかにペンが入ったことなど今まで一度もないと言っても過言ではない。
ありがとうございます、と恐縮しながらペンを受け取って、フィリプの市民籍に自分の名前の書き方を間違えないように思い返しながら必死にサインをする。
なんとか、書けた。
フィリプのようにきれいな字体ではないけれど、おそらく、読める字のはず。
ディアナは達成感に浸った。
ふと、フィリプの生年月日が目に入る。
数字だけは読めるディアナには《××××176×、7×××、15×××》と見える。
それでも十分意味は分かった。
王朝歴176年7月15日生まれ。
「…ペトラーチェク様って、年下?」
初対面から3年。
ディアナは今まで、フィリプ・ペトラーチェクが自分よりも2歳年下であることを知らなかった。
思わず声に出してしまった。
それすら知らないのか?とさすがに受付の男性は怪訝な顔をする。
まずい、と思ってディアナはにこっと微笑んで、フィリプの市民籍を返すことでごまかす。フィリプもディアナの市民籍を受付の男性に返した。
婚姻関係登録の手続きは夫となる人と妻となる人が互いの市民籍にサインをすることで成り立つ。
男性は、いぶかしげな顔をしながらも、返された市民籍のサインと、氏名を確認して、頷いた。
「ご結婚、おめでとうございます」
こんなわけで、夫の葬儀からひと月、未亡人ディアナは、新たにフィリプ・ペトラーチェクの妻となった。
やっと結婚できた…
ちょっと間を開けて、22日(金)から投稿を再開します。




