市庁舎にいこう
十数分後、ディアナとフィリプは、市庁舎に到着した。
フィリプは市庁舎前の広場の隅で自動車を停めた。
相変わらず自動車のドアの開け方がわからないディアナは、恐る恐るフィリプに尋ねる。
「あの、ペトラーチェク様…。開け方が」
わかりません、というより先に、フィリプは待っててと言って、先に下り、ディアナの側のドアを外から開けた。
「お待たせしました」
御者が主人に恭しく接するような様子のフィリプは、どうやら少しふざけているようだ。
ディアナはちょっと笑って、ありがとうございます、と返す。
少し床の高い自動車から降りるには、フィリプの助けが本当にありがたかった。ディアナは、彼が差し出してくれた手に手をのせて慎重に降りる。地上の感触に少しふらつきながら体勢を立て直す。
「自動車はどうだった?」
フィリプの問いにディアナは微笑みで返す。
「良いものですね、自動車。好きです」
工房から市庁舎までの十数分は、馬車と違う走行音や乗り心地に慣れるほどではなかったものの、新しい物好きのディアナが自動車に魅了されるには十分な時間であった。
「良かった。運転するのも楽しいんだ。
これからは自動車でいろんなところに一緒に行こう」
王都からほとんど出たことのないディアナにとっては願ってもないことだったが、《妻を虐げない》というフィリプの当初の宣言からすれば、自動車での旅行なんて確実にその範囲を出ている。
そこまでしてもらわなくても《虐げられている》とは感じないとあとで伝えよう。
ディアナは、フィリプが結婚を前に妻となる女に過剰に気を使っているのだと考えて、そう決めた。
市庁舎は、絶対王政時代の国王の愛人のために建設された宮殿を再利用したものだ。豪華絢爛で、広場には地方や外国からの観光客も多い。
ディアナは生まれてこの方王都に住んでいるが、市庁舎には来るたびわくわくするのであった。
「ディアナは、市庁舎好き?」
今回もわくわくしながら市庁舎を見上げて歩いていたら、隣を歩くフィリプにクスクス笑われて赤面する。
「は、はい…。きらきらしていて、わくわくします」
言ってから、もう少し品の良い言い方だってできるでしょう!とさらに恥ずかしくなる。
「そうだね」
フィリプがおかしそうにさらに笑うから、ディアナは市庁舎を見ないように視線を落として歩いた。
手を触れ合わせたのは自動車を降りるための一瞬だけで、今は肩が触れるか触れないかほどの距離を保って歩いている。
人が多く、騒がしい広場で、連れと歩くなら、それくらいは近くなるだろうという距離感。
ふと、フィリプが立ち止まったことにディアナはすぐに気が付いた。
どうしたのかしらとディアナも立ち止まって彼の視線の先をたどる。
「ねえ、ディアナ、見て」
フィリプは二人がいる位置からしたら、広場のちょうど反対側を指さす。
広場のシンボルである英雄の彫像の向こう側、人だかりができていた。
「なんだろうね。見に行ってみようか」
フィリプの提案に頷きながら、連れだって歩き出す。
人だかりに近づいていくと、どうやら大道芸人らしいことが分かった。
そう背の高くないディアナとフィリプは、人だかりの一番後ろに来ても、大道芸人本人は見えない。
けれども、陽気な音楽とそれに伴って大きく上がる火柱やシャボンのシャワーを見れば推測はできた。
「ああ、大道芸人か」
フィリプのつぶやきにディアナはそうですね、と返す。
「魔法だね。そう高度なものじゃないけど派手でいいね」
フィリプはそういうけれど、魔法が使えないディアナからしたら魔法の難易度などわからない。
「この音楽が、魔法陣の代わりを?」
ディアナの問いにフィリプは頷いた。
ディアナにとって身近なマジックツールはすべて魔法陣が仕込まれているものだったが、魔法を使うには魔法陣だけではなく音を使う方法もあることはディアナも知っていた。
どうやらこの大道芸人は、魔法陣の代わりに軽快な音楽を奏でることで火柱やシャボンを出しているらしい。
「魔法音楽が上手な大道芸人だ。ちゃんといい音楽だし、ちゃんと魔法になっている」
フィリプは楽しげにそう分析する。そういうものか、とディアナはひとり首を傾げた。
「どうする?見ていきたい?」
フィリプの問いにディアナは首を横に振った。
大道芸人本人は良く見えないし、人も多くて疲れてしまう。
フィリプは、じゃあ行こうかと言って市庁舎のほうへディアナを促した。
フィリプの誘導に従って大道芸人を見たことで、市庁舎の件でフィリプに笑われたことはディアナの頭からすっかり消え去った。再びディアナは市庁舎に視線を向けてワクワクしながら歩く。
フィリプは、そんなディアナを、今度は彼女にばれないように見つめて微笑みながら、横を歩くのだった。
―――――――――――――――――
「婚姻関係登録の手続きをしたいのですが」
市庁舎の窓口でディアナは受付の男性に申し出た。
殿上人に自動車のドアを開けてもらった申し訳なさを解消すべく、できることはなんでもやる心づもりである。
なにしろ婚姻関係登録の手続きは、経験者なのだから。
受付の男性は、そんなに愛想が良いわけではないものの、はいはいと返事をして、二人に市民籍の所在と氏名を尋ねた。
ディアナの《ディアナ・ノヴァーク、18番街にあります》という返答を、男性は、はいはい、と顔も上げずにメモをとる。
「フィリプ・ペトラーチェク。市民籍は市庁舎にあるはずです」
と、フィリプが答えると、男性はそこで初めて顔を上げて目を丸くする。
「ペトラーチェクっていうと……」
フィリプの身元に気づいたらしい受付の男性に、フィリプは人差し指を口に当ててウインクをする。男性相手にキザな男性というものをディアナは初めて見た。
「すぐにご用意いたします。掛けてお待ちください」
男性は慌てて立ち上がってメモを片手に奥に走っていった。
ディアナとフィリプは顔を見合わせ、少し笑う。
ロビーに待合用のベンチは十数脚しかないが、ほとんど埋まっていない。受付から少し離れた、豪華絢爛な内装が良く見えるベンチを選んで座った。
「あんなに驚くことないのに」
フィリプがおかしそうにクスクス笑う。
「ほんとですね。でもペトラーチェク様ですもの。受付だって驚きます」
ディアナもつられて笑う。
「名乗って驚かれることなんて滅多にないよ。結婚の登録だからかな」
ディアナもこれからペトラーチェク姓になるためか、フィリプは彼女に対する言い訳のように唇を尖らせて言った。
「きっとそうですよ」
ディアナは、《ペトラーチェク様の結婚相手がこんな女だから、あの人は驚いたんだろう》と、謙遜でも自虐でもなく思っているが、仮にそれを口に出したらまず間違いなくフィリプに気を遣わせるだろう。
ディアナは、そういう気遣わせるようなことは口に出さないという配慮をするタイプの女だった。
「あ、そうだ。失礼だったらごめんね。ディアナ、自分の市民籍はわかるの?」
フィリプに問われるが、その質問の意図がうまく読み込めず、首をかしげつつも頷く。
「はい、自分のものなら」
フィリプも、自分の質問の仕方が悪かったと察したのだろう。ちょっと考えて言い直す。
「市民籍、取り寄せてもらっても、ディアナは字が読めないでしょう。だから、自分のものかどうか、どうやって判断しているのかなって」
ディアナは合点がいく。
「それでしたら、受付の方に字が読めないと言えば、名前と生年月日を読み上げてくれるんです。だから、特に問題ありません」
フィリプは、へえ、と呟いた。
「そうなんだ。役所もなかなか親切だね」
「はい。ありがたいことです」
答えてからディアナは、自分の名前のサインができるだろうか、と頭の中で書き方を思い返す。
書けそうだ。
…たぶん。……おそらく。
練習しておけばよかった、と少し後悔するディアナだった。
《市民籍》とか《婚姻関係登録》とかは、ディアナたちの暮らす国でのシステムですので、現実世界にはおそらくないでしょう。
 




