ドライブデート(仮)
フィリプの自動車は工房が面する通りに停められていて、ディアナがフィリプのもとに着いたとき彼は車の荷台にディアナのトランクを入れていた。
「すみません、ペトラーチェク様!」
「気にしないで。というか、僕が持ちたくて持ったんだから、謝らないで。
トランク、すごく軽いけど本当にいいの?」
フィリプの気さくな物言いに未だに慣れないディアナは、どぎまぎしながらうなずく。
「そう。忘れ物を思い出したりしたら言ってね」
荷台の扉を閉めるフィリプ。ディアナは続けてうなずいた。
「それじゃ、行こうか」
ディアナは、はて?と首を傾げた。
これには、どこからどうやってのればいいのかしら。
それに御者もいない。誰が動かすのかしら。
ディアナが困っているのを察したのか、フィリプはちょっと笑ってディアナの手を取り、自動車の前方左側のドアに誘導する。
「ディアナ、どうぞ乗って」
フィリプが開けたドアに、ディアナは、そんな風に開くのね!と目を丸くしたかった。
けれども、見苦しくないよう、表情をできる限り抑える。
上流階級の淑女は人前で大げさに感情を表に出さないのだ。少なくともディアナはそう考えている。
フィリプにドアを開けさせてしまったことに引け目を感じつつも、自分では開け方も閉め方もわからないためにどうしようもなく、一瞬逡巡した後、ディアナはおとなしく自動車に乗り込んだ。
「ありがとうございます、ペトラーチェク様」
恐る恐るいうと、自動車の窓越しにフィリプは微笑んで、ドアを閉める。
ディアナはそのタイミングで、彼がエスコートしてくれたことに気がついた。
ただ困っているディアナを助けようとしたというよりも、きっと上流階級の彼にとっては女性をエスコートすることなんて習慣となっているのだろう。
ディアナはそう考えて、フィリプの優しさの理由にひとり納得した。スマートな優しさにはどうも慣れないし、戸惑ってしまう。
ディアナは、その親切が彼の習慣だと思うことで、自分に向けられた感情ではないと、戸惑いに決着をつけた。
しかし、それとは別に、自動車に乗る場合、このあとどうすればいいのかわからなかった。
ひとまずフィリプの動きを見ていると、彼は自動車の前方を回って、ディアナの反対側のドアを開けて隣に乗り込んだ。
思っていたよりも、隣の座席との距離が近くて、緊張してしまう。
「座っていてね」
ディアナにはフィリプが何をしたのかよくわからなかったが、彼がハンドルの横に鍵を差し込んだり、なにかボタンを押したり、そういう操作をしたことで自動車がうなりを上げた。
ディアナは、まさかフィリプ本人が運転するとは思ってもみなかったが、どうやらそのまさかであることを察した。
まさか殿上人が、自分の移動のために自動車を運転するなんて。
フィリプがアクセルペダルを踏んだことで動き始めた自動車に、ディアナは思わずきゃっと声を上げる。馬車の動きと違っていて少し怖い。
その悲鳴に、フィリプはちらっとディアナに視線をやり、少し笑った。
「ごめんね。自動車は、乗るの初めて?」
ディアナは、はい、と頷いた。
乗るどころか、間近で見たのも初めてだった。
王都の中でも栄えている地域でここ数年急に見かけるようになった乗り物。馬が引いているわけでもないのにどうやって動いているのか、ディアナは不思議でたまらなかった。
グスタフに、どうなっているのかしら、と聞いたらいろいろ解説してくれたけれど、彼の淡々とした語り口では、ディアナには何も理解することができなかったことを思い出す。
「そんなに緊張しないで。安全運転には自信があるから」
フィリプは愉快そうに笑った。
そう言われても無理である。しかし、無理だとは言えないので、ディアナは微笑んだ。
「はい、ペトラーチェク様」
自動車は18番街を、王宮とは反対方面に走行している。
これからどこに行って何をするのか、聞いてもいいのかしら、とディアナは緊張の中考えるが、ディアナが口に出すより先にフィリプが口を開いた。
「これから役所に行こうと思うんだ。婚姻関係登録の手続きをしよう」
「婚姻関係……?」
呆けた口調でそのまま繰り返してしまうディアナ。
言ってから、はしたない口調だったと気づいて慌てて口元を抑える。
しかし、フィリプはディアナの口調を問題にはしなかった。
「そう。だめかな?」
フィリプは運転しながら、ディアナに尋ねる。
捨てられた子犬のようなトーンですがるように言うフィリプに、ディアナは少しばかり母性を刺激されてしまった。
「だ、だめじゃ、ありませんけど、ただ、ちょっと、もう届けを出すのかしらって、びっくりしてしまって……」
フィリプは笑った。
「どうして?だって、僕は君を結婚するために迎えに来たんだ。登録手続きを少しでも早くするためにこのひと月急いで仕事した。やっとディアナが僕の奥さんになってくれるなら、少しでも早くしたい」
フィリプのジョークのセンスはディアナとは合わない。
ディアナは、フィリプの《ジョーク》に愛想笑いをしてしのいでいこうと決めた。
下手なことを言って彼の機嫌を損ねでもしたら、多額の債務を負ってしまうかもしれない。
そんなわけで、ディアナは引きつった笑みを浮かべたのである。
「ディアナの市民籍はどこにある?」
「18番街の役場にあります」
ディアナが答える間に、自動車はちょうど、18番街の役場を通り過ぎた。
「あー、そっか。ごめん、市庁舎で登録するのでもいい?うっかりしていた…」
「はい、もちろん」
ディアナとしても市庁舎のほうがよかった。
婚姻関係登録の手続きにはそれぞれの市民籍が必要であるが、王国内の役所であればどこでも手続き自体は可能である。
王都の市庁舎はいくつか分所をもつが、18番街の役場はそのうちのひとつである。
18番街の役場にディアナの市民籍は置かれているが、18番街役場で婚姻関係登録の手続きをすれば、ご近所のおばさん、おじさんに見つかること必須だ。
まだ軽蔑の目を向けられる覚悟はできていないので、市庁舎が良いとディアナも願うのである。
「それじゃあ、市庁舎で少し待つかもしれない。先に聞けばよかったね、ごめん」
「いえ、こちらこそごめんなさい。先に言えばよかったです」
「いいんだ。でも、わかった。ディアナの市民籍は18番街役場だね。覚えておく」
ディアナはフィリプに内心で謝罪する。
本人は自分にも得があるとはいったものの、ディアナのほうが圧倒的に得をしているこの結婚を、ディアナは恥ずべき行為と感じて、隠したがっているのだ。
フィリプがディアナのことを好きだということはないにしても、仮にも妻になる女がこんな心持じゃ、きっと彼も不快だろうとディアナは心苦しく思うのだった。
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