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《時計工房 ノヴァーク》との別れ

 そう時間を置かずに、応接室にヴラディーミルとペシュニカ夫妻が戻ってくる。

 ペシュニカ夫妻は、今日は帰るが後日改めて新しい経営者として職人たちに挨拶にくると言って、帰り支度をした。


「ディアナさん、あなたさえよければ本当にここにいてもらってもいいのだけれど、フィリプさんと結婚するって聞いて…」


帰り際、アデーラがディアナに耳打ちのようにささやいた。

 《ここにいてもらってもいい》という言葉は、仮に社交辞令でもディアナの胸を打った。


「お気遣い、ありがとうございます。はい、ペトラーチェク様と…」


 さっき結婚するのは自分の勘違いでは、と考えていたディアナには、《ペトラーチェク様と結婚するので、ここを離れます》というのはなんとも嘘くさく感じられた。

 しかし、よく考えればアデーラの言葉は再婚が自分の勘違いじゃないことを証明するようなものだということに気が付く。

 安心するような、不安のような、複雑な心持のディアナに気づいたかどうかは定かではないが、アデーラは、ディアナの後ろを見るように目を細めて微笑んだ。


「こんなこと、初対面でいうのもおかしいけれど、私たちの娘もあなたと同い年なの。それに名前もディアナだった」


 ディアナは、アデーラの口ぶりから《ディアナ・ペシュニカ》が今はもう神の御許にいるのだということがわかって、神妙な顔で相槌を打った。


「だから、フィリプさんからここの経営者のお話をいただいて、あなたのお名前と年齢をきいたときに、夫とお受けしようって決めたのよ。きっと神様のお導きだと思ったの。

 ディアナさん、あなたにとってこの工房は大切な場所でしょう。

 戻ってきたくなったら、いつでも戻ってきてくださいね。

 私たち夫婦は、勝手にあなたのことを娘みたいに思っているから」


 ディアナは、アデーラに2年ほど前に亡くした母の面影を見た。

 初対面なのに、これほど優しくしてもらえるとは思ってもみなかった。


「ありがとうございます、アデーラさん。《時計工房 ノヴァーク》をよろしくお願いします」


 目頭が熱くてたまらないけれど、ディアナはなんとか涙をこらえる。


――――――――――――――――


 ペシュニカ夫妻が帰ったあと、ディアナは一度自室に戻り、忘れ物の確認をする。持っていきたいものはすべてトランクに入れたことを確認して、トランクを持って1階に下りた。

 応接室に戻るつもりだったけれど、玄関にフィリプとヴラディーミルの姿を見つけてそちらに向かう。


「ああ、ディアナ。荷物はそれだけ?」


 呼び捨てに加えて、非常にフランクな雰囲気な口調でそう問われて、気恥ずかしくなる。

 ディアナは曖昧に笑って、はい、と頷いた。


「そう。明日取りに来たほうがいい荷物はどれくらいある?あ、馬車をよこしますけど、明日でも構いませんか」


「うちは明日でも構いませんけど、ディアナさん、それ以外に荷物ないでしょ?」


 ディアナが答えるより先にヴラディーミルが答えた。ディアナはヴラディーミルに頷いてみせる。


「ええ、これだけ。ですから、馬車は結構です」


 フィリプは目を丸くしてディアナを見、トランクを見、それからまたディアナを見た。


「ほんとに?ほんとにこれだけ?」


「え、はい…。これだけです」


 フィリプが何を驚いているのかわからなくて思わずたじろいでしまう。


「…僕に遠慮とかしているなら、しなくていいよ。これ以外に、持っていきたいものは?」


 フィリプにジトっとした目つきで見据えられて、ディアナはさらにたじろぐ。


「いえ、本当に、遠慮しているとかではなくて…。私も、夫も、もともと持ち物が少ないので、これだけで本当に充分なんです」


 フィリプはディアナの真意を見抜こうとしているようにじっと彼女を見つめる。

 ディアナは、気恥ずかしいのと上流階級のオーラに圧されるのとで目をそらしたくてたまらなかったが、本当だということを伝えるべくじっと見つめ返した。



 一呼吸するほどの間でフィリプはディアナが本心を言っているということに納得したらしく、わかった、と呟く。


「それでは、ヴラディーミルさん、今日はどうもありがとうございました。マトウシュさんとアデーラさんのこともありますし、またご連絡しますね」


「はい、お待ちしてます。次にいらっしゃるのが、ほかの職人たちがいるときだといいんですけど」


「ええ、本当に。みなさんにもよろしくお伝えください」


 ディアナは、ヴラディーミルの嫌味っぽい物言いにドキッとしながら、フィリプがスルーしてくれたことに安堵する。


 それから、ディアナはトランクを置いて、ヴラディーミルと別れのハグをした。


「いつの間にか、こんなに大きくなっていたのね。今までありがとう」


 ヴラディーミルが年齢一桁だったころから、ディアナは彼を知っている。

 見習いとして工房にやってきたときは泣きべそをかいていたというのに、いつの間にかディアナよりもずっと身長も伸びて、職人らしい体格になっていた。

 不愛想で生意気なヴラディーミルだが、なかなか会えなくなると思うと寂しくてたまらない。


「何言っているんですか、ディアナさん。俺、もう3、4年くらいは身長かわってないんですけど」


 不愛想な調子で言うヴラディーミルだが、ディアナが言いたいのはそういうことじゃない。

 ディアナはヴラディーミルらしい返答に笑って、ハグを終える。


「ディディ、それじゃあ、《工房》をよろしくね。工房の鍵は部屋においてあるから確認してね。みんなのことも、面倒見てあげてね」


 ヴラディーミルは、今日の夕食のメニューを告げられでもしたかのように軽い調子で、はいはい、と頷いた。


 あまりフィリプを待たせるのも悪い。そう思ってトランクを持ち上げて準備しようとしたら、いつの間にかフィリプがトランクを持っていた。


「ペトラーチェク様、自分で持ちます…!」


 恐れ多くて持たせられない。

 ディアナの悲鳴のような声にフィリプはただ微笑んだだけだった。


「それじゃ、行こうか、ディアナ。ヴラディーミルさん、それでは、また後日」


 フィリプは玄関の扉を開けて、さっさと出て行ってしまう。

 トランクを自分で持ちたいディアナは、フィリプを追いかけるかヴラディーミルに別れの挨拶をするか逡巡するが、ディアナの決定より早くヴラディーミルが軽い調子で手を振った。


「はい。お待ちしてます。ディアナさん、元気で」


「え、ええ!ディディもね、元気で!また会いにくるわ!」


 ほとんど捨て台詞のように言いながらディアナは工房の玄関を飛び出してフィリプを追いかける。

 ディアナが扉を閉めたとたんに、ヴラディーミルが内側から鍵をかけた音が聞こえた。


 少しくらい、名残惜しく感じてくれたっていいじゃない!と思いながらも、ディディらしいわ、と笑えるのだった。

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