新しい経営者がやってきた!
一週間後、約束通りフィリプ・ペトラーチェクはやってきた。
ディアナは《時計工房 ノヴァーク》の面する通りに2台の自動車が停まるのを自室の窓から確認して、身なりを整え、工房の入り口に向かう。
ちょうど、ディアナが入り口にたどり着いたときに呼び鈴が鳴った。そのまま扉を開ける。
「ごきげんよう、ペトラーチェク様、お待ちしておりました」
ディアナの想定通り、扉を開けた先には礼装したフィリプがいた。
思っていたよりも扉がすぐ開いたためか、目を丸くしていたが、それも一瞬で普段通りの穏やかな笑顔になる。
「おはようございます、ディアナ。待っていてくれたなんて嬉しいな」
《ディアナさん》どころか、呼び捨てで呼ばれるようになった。
それに、約束したのだから待っているに決まっている。
恋人同士の他愛ないやり取りならそういう言い回しもあるだろうけれど、ディアナとフィリプは愛のない結婚のはずだ。
だから、フィリプのことばはちょっとした冗談なんだろう。
そうは思うものの、ディアナはこういう《小粋な冗談》みたいなものの返し方をしらない。なにも言わずにただ微笑んだ。
ちょうど呼び鈴を聞いたヴラディーミルが玄関にやってきた。
「ペトラーチェク様、おはようございます。新しい経営者っていうのはどこに?」
ぶっきらぼうで用件のみを話す話し方ながら、ヴラディーミルは特に不機嫌というわけではない。
フィリプもそれを良く知っているので、おはようございます、と微笑んで返す。
ディアナは未だにフィリプが職人たちのぶっきらぼうで不愛想な物言いに怒らないか不安になるので、はらはらと見守った。
「おはようございます、ヴラディーミルさん。今、いらっしゃいますよ」
ディアナがフィリプの背後を覗き見ると、確かに通りに停められた自動車から中年の男女が下りて向かってくるのが見えた。
ディアナはヴラディーミルとアイコンタクトを取る。
「それなら、ディディ、みなさんを応接室にご案内してくれる?」
ヴラディーミルは頷いた。
十数年、弟のようにかわいがってきたが、ここ数年以前にもまして愛想がない。
なにか誤解されるような物言いとかをしないといいのだけれど、と思いながら、ディアナはその場を辞してキッチンに紅茶を用意しに向かった。
ディアナは紅茶を用意するために遅れて応接室に入ったが、4人は話を先に始めずにディアナを待っていてくれたようだ。ディアナは恐縮しながら下座に座った。
「ええっと、《時計工房 ノヴァーク》の工房長の妻で、ディアナ・ノヴァークといいます。
この度は《時計工房 ノヴァーク》の経営を担ってくださる、と聞いて、なんというか、その、感謝してもしきれなくて…。
こっちは、うちに今残っている職人の中で一番ここにいるのが長いヴラディーミルです。
縮めてディディと呼んでいます。どうぞよろしくお願いします」
ディアナはこうした畏まった場はやはり不慣れで、しどろもどろになりながら挨拶をする。
伝えたい感謝や思いはたくさんあるのに、うまく言葉にできない。
真っ赤になりながら話すディアナだったが、中年の夫妻はにこにこと笑って頷いた。
「こちらこそ、素敵な工房を任せてくださるなんて嬉しい限りです。私は、マトウシュ・ペシュニカ。こっちは妻のアデーラです。どうぞよろしく、ディアナさん、ディディさん」
なんとも穏やかで、優しい微笑みに、ディアナは近所のひとびとに似た親しみを感じた。
マトウシュもアデーラも、仕立ての良い身なりのわりに、市井の香りがある人物で、ディアナはこれならきっと職人たちも受け入れてくれるのではないか、と期待した。
そのあとは、紹介者であるフィリプが間に入って話を進めてくれた。
彼の紹介によれば、ペシュニカ夫妻は長いことリヴギット帝国で事業を行っていたものの、幽閉されていた皇帝の政敵がクーデターを起こしたことから情勢不安になってしまったため、事業を畳んで帰国したらしい。
もう十数年は経つが、王国でも幽閉されていたはずの王家の敵が脱走したとニュースになったため、リヴギット帝国と同じことにならなければよいけど、とマトウシュは神妙な顔で言った。
本人たちは語らないものの、情勢不安のなか急いで帰国したのであれば、大変な苦労があったのだろうということはディアナにも想像がついた。三角形に手を組んで、二人の幸せを祈る。
その後、話を続けていても、夫婦のどちらも穏やかな物腰で、夫を亡くしたディアナのために三角形に手を組んでくれた。
聞けば、マトウシュがひとりで事業をやるのではなく、アデーラも経営に携わっているらしく、字も読めないディアナは非常に驚いた。
女が事業に携わるなんて、なんてかっこよくて素敵な女性なの!
素直な質のディアナはあっという間にペシュニカ夫妻を信用して、工房を託すことにした。
《時計工房 ノヴァーク》の良さを生かせるよう尽力したい、とマトウシュが言ったのを受けて、ディアナはよろしくお願いします、と再び頭を下げる。
ヴラディーミルもそう不満はないようで、それなら工房内をご案内しましょうと提案し、ペシュニカ夫妻もぜひと頷いた。
ヴラディーミルとディアナのふたりで、ペシュニカ夫妻とフィリプを案内しながら、ディアナは胸中で思い出深い《時計工房 ノヴァーク》の各部屋に別れを告げた。
ペシュニカ夫妻はヴラディーミルと、いつから来るのか、とか、いまこういう納期のこういう仕事があって、とかそういった仕事の話を作業場で図面やらカレンダーを見ながらし始めた。
ディアナももうそこまで口を出すわけにはいかないし、フィリプももちろんそこまで干渉する気はなく、2人で応接室に戻り、3人の話が終わるのを待つ。
「今日、工房のみなさんは?ヴラディーミルさんだけですか」
フィリプにそう問われて、ディアナはぎくっとした。
クリシュトフたちは《ペトラーチェク様にはお世話になっているけど、ディアナさんとの再婚に関しては気に入らない。今日はあの人に会いたくない》と言って、買い出しなど理由をつけて出払っている。
新しい経営者が来るから全員出払うわけにもいかず、ヴラディーミルが残った。
彼は《まあ、ディアナさんも言わないだけで再婚せざるをえない、なんか事情とかあるんでしょ?》と言って、クリシュトフたちほどフィリプを嫌っていなかったために、ヴラディーミルが残ることになったのだった。
そういうわけで、フィリプにほかの職人たちについて触れられるのは少々気まずい。ディアナは、平静を装って微笑んだ。
「買い出しに出かけています。ディディが一番話が分かると思うので彼が残ったんです」
「そうですか。ご挨拶したかったんですが、残念だな」
下手なことをいうとボロが出そうなのでディアナはただ微笑んだ。
フィリプもなにも言わずに紅茶を飲むので、微妙な空気の沈黙が応接室を支配する。
ディアナはあらためて夫となるフィリプ・ペトラーチェクを見る。
《時計工房 ノヴァーク》を離れる実感はあるのに、フィリプと結婚することに対してはあまりに現実味がなさすぎてまったく実感がわかない
よく考えてみれば、ひと月前に話しただけで再婚が決まったのだ。
そして書面を取り交わしたわけでもない。
尤も、仮に書面を取り交わしていてもディアナには読めないし、そもそも取り交わすために書くということもできないのだから、意味はないが、それでも目に見えるものとしてあればまだ現実味があったかもしれない。
むしろ、ディアナは彼との結婚は自分の勘違いなのではないかと思い始めた。そうでなければ、疲れが見せた白昼夢か。
そうだとしたら、今日彼がここに来たのはなぜか?自分を迎えに来た、とディアナは思っているけれど、もしかしたら新しい経営者の紹介のために来たのに、ディアナが都合よく勘違いを……?
そう自分を疑うほど、目の前の男性と自分が釣り合うようには思えなかった。
フィリプは、伝説に出てくるような英雄の再来とか、天使のような美男子とか、そういう見目麗しい男性というわけではない。
けれども、洗練された身のこなしと気品、仕立ての良い洋服が、フィリプを素晴らしい男性に見せている。
ディアナはファッションに詳しくないためによくわからないが、フィリプが着ている礼服は王族の前にも着て出られるようなものなのではないだろうか、とさえ思える。
対して、自分は成人の祝いに両親に仕立ててもらったワンピースだ。ディアナにとっては一張羅だが、当然フィリプの前では布切れ同然の服である。
メイクもしていないわけではないけれど、非常にシンプルなものだ。
フィリプを見れば見るほど、この人の横に自分が妻として並ぶイメージが全くわかないどころか、烏滸がましいとすら思えてくるのだった。
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