第9話『敵射貫く心弓』
writer:シュレディンガーの猫刄
──────我が主に仇なす者は全て、如何なる敵でも射貫いてみせましょう。
この、心弓にかけて!
性急に起きた今夜の騒ぎに乱れを感じた彼女は、見下ろす月にその長髪を揺らす。
彼女の名は──夏侯 淵 妙才。
その手には、忠より生まれた長弓──中心弓が握られていた。
今宵、彼女は何を見定めるのか。
瞳に映した標的は何か。
水面を揺らす風に紛れて、主の趣味による誓いの従者装束をたなびかせて月下に舞う!
私は怯えているだけなのかもしれない。
しかし、それでも心のどこかでまだソコに向かう前にするべきことを模索しようとしていた。
だかやはり────私の答えは決まっていた。
私が手を強く握ると、もっと強く、熱く、握り返してくれる彼──私の仕えるべき真の主劉備玄徳のその想いを尊重して、彼の望むソコへと向かうのみだった。
かつて、私の身に宿るこの魂がこの性格で損をしたというのならばそうなのかもしれない。
しかし私は私だ。
変えるつもりはない。
否、これも怯えなのだろう。
偶然にも同じ隔離小屋に入れられた龐徳が癇癪を起こした為に、たまたま手に入れられたこのチャンスだ。
手放すのが恐ろしく、自分を変えたく無いのだろう。
そんな迷いの中、何も決めることのできなかった私は彼と共にソコへと脚を動かす事しかできなかったのだった。
その命令は黒く揺れる影の動きをピタリと止めさせた。
刹那の沈黙の後、私を囲んでいた────大地を黒く染めていたその傀儡達は、自らの主の意志を曲げ私欲に走った己がリーダー夏侯恩の方を睨むと、ソコへ一目散に駆け出した!
各々が口々に何かを唱えながら、夏侯恩に目掛けて襲いかかる!
何を喋っているのか一つ一つは分からなかったが、ほとんどが同じような事を口ずさんでいた。
要するに忠心についての文句だった。
彼女達は忠を踏みにじった者に制裁を下そうとしていたのだった。
しかし、その画はとても制裁というには汚らわしい、人間の汚い部分の権化とも言えるさまだった。
そして気が付くと、私の周りには誰も居なくなっていたのだった。
この時点で他の者も主の命令に逆らったとも取れかねないが、"裏切り者"の排除の方が優先順位が高いのだろう。
月光に照らされた丘の上に、うじゃうじゃと陰が集結していた。
その中で1人、剣を手にして対峙する"裏切り者"の姿を捉えることができた。
やがて線が切れたかのようにして剣が陰に斬り掛かると、その隙に剣士の背後から伸びる無数の手が現れる。
その光景に地獄を連想したが、まさにその通りだった。
剣が誰かを捉えたのか、紅い飛沫が上がった。
それと同時に無数の手の内1本が剣士の袖を掴み、剣が止まる。
その直後だった。
さらに多くの、幾百もの手が剣に斬り落とされながらも、何度も何度も波のようにして襲いかかった!
やがてその陰は大きな塊のようにして丸くなり。
人の上を這うようにして、さらに多くの陰が登り、山へと姿を変える。
そして山はさらに、頂を尖らせ、天辺に剣士が這い出た。
上から斬り落とそうするも、その脚に多くの陰が手を伸ばして行き、その姿はまるで1つの塔の様にも見えた。
月下に現れたその不気味な塔は、悲鳴と血飛沫の入り混じった地獄絵図となっていた。
この時私は逃げるべきだったのかもしれない。
しかし、私には夏侯恩の喚き暴れる姿を視界から外す事の方に恐ろしさを感じていた。
人の限界ともいえるその光景は、他の感情もなく、己の生存をかけて振り下ろす純粋な殺意は、目の届かない所に置く方が余程危険だと、毛羽立つ肌が教えてくれた。
しかし、私の本能が本当に伝えたかった危険は別にあった。
それに気がついたのは、刹那一筋の閃光の後に夏侯恩の体がガクリと崩れて、悶え、陰の塔へ喰われてからだった。
もう一瞬、閃光が輝いた時、私は精一杯の力を両腕に込めた!
瞬く間に生まれた雷は、私の胸目掛けて飛んできた閃光-光の矢とも言うべきか-を弾く!
雷はやがて、若葉の青を纏った生の化身──青龍と成る!
続いて飛んできた光の矢を、青龍が噛み砕く!
青龍は私の手に合わせてその容姿を変え、長柄の刀──偃月刀になる!
2度の射出から、相手の位置を把握した私は闇の向こうを睨み、胸の前に刃を構える。
2度も精確な狙撃をした名手だ、3度目も中心を射つと睨んでの構えだ。
そして、睨んだ方向から再び矢が現れる!
睨んだ通りの精確な中心狙い!
しかしその時だった!
突如の突風と共に、矢は軌道を変えたのだった!
相手へ注意を向けていた私は突然の事に対応できず、左肩を射貫かれた!
だが、もう動じては居られない!
渾身の力を込めて偃月刀を地に打ち付け体勢を保つ!
その射手が先の風を予測して撃っていた事。
そして、私が体勢を保つ事までをも予測していたという事に気がついたのはその直後だった。
風も行動も全て──そう、全てを理解してこの4本目の矢を放ったのだろう。
なぜならそれは、私が体勢を保つために偃月刀を胸から逸らした直後に……
閃光が私の胸を、心を、全てを貫いていたからだった。
貫かれ、殻を失った"私"は抑えていた何もかもが溢れ出て、溢れ出て、溢れ出て、溢れ出て、溢れ出て………
そして気づいたのだった。
軍神の名を、運命を、魂を剥離された"私"はただの駒なのだと。
誰と出逢い、誰と戦い、誰を好きになるか……全て決められていた事だったのだと。
だから…"私"がどれだけ"誰か"を愛おしく想っても、"誰か"は"関羽雲長"を愛しみ、"私"がどれだけ"誰か"を憎んでも、"誰か"は"関羽雲長"を憎むのだ。
否、"私"が"私"かすらもう怪しい。
"関羽雲長"を剥がれた"私"はもう、わたしですら無いのかもしれない。
ただただ真っ白な、何もない、何でもない、"無"。
誰かがわたしに──否、私に声をかけている気がする。
しかし、私はもうどこにも居ない。
だから、その人の呼び声には応えられない。
「………ごめんなさい」
掠れた声が零れた。
その人が呼ぶ私はもう居ない、だからわたしは謝罪を口にしたのだろう。
だけれどその人は諦めずに何度も何度も何度も何度も…私を呼んでいた。
きっとその人にとって私は大切な人だったのだろう。
「………ごめんなさい」
わたしはもう私ではなかった。
けれど、否、だからこそだろうか、その人が呼んでいるのが私ではなく、わたしなのではないかと……そんな淡い気持ちを抱いてしまったのだった。
だから…その人に聞いてみる決心をした。
「………ねぇ………わたし……は…だぁれ?」
わたしが目を開くと、その人────優しそうな顔をした"彼"が、悲しそうな顔をしていた。
そう……彼は、私を呼んでいたのね。
わたしは彼を悲しませてしまった。
もう私は居ないけれど、かつて私だったわたしは彼に謝ることならできた。
謝ることでなにがどうなる訳でもないけれど、わたしはただ、そうするしか、この、感情を、誤魔化す、ことが、でき、な、かった。
誰も"わたし"を必要とはしていなかった。
その現実が重くのしかかって、今にも潰されそうだった。
けれど、悪いことをしてしまったわたしには、そんな感情すら抱くことを許せなかった。
わたしはわたしを嫌いになった。
なぜなら、こんなにも"彼"を悲しませるのだから。
それでもわたしはわたしだから……だから、謝ることしかできないのが悔しかった。
けれど、それしかできることがなかった。
それが余計に悔しくて、それでも、それでも、わたしは────
「ごめんなさ────────
"彼"がわたしの頬を叩いたのだと気づいたのは少し遅れてだった。
それ以上にわたしは、彼が"わたし"に向けて感情を振るったことに、心を動かせざるを得なかった。
その時"わたし"はここに居て、彼は"わたし"を見つめてくれた。
その衝撃は、わたしが独りで抱えてパンパンになってしまった感情を決壊させるのに十分な刺激だった。
そしてわたしは、彼に伝えなければいけない言葉が生まれた。
────────あ り が と う」