ゴースト―彼と彼女の場合―
和也は唾を飲み込んだ。
目の前にあるのは、彼の恋人である香織が作った肉じゃがを主菜とした、ごく一般的な家庭での夕食である。
「か、香織……」
意識しなくても語尾が震えていることを自覚しながらも、味噌汁をお椀に注いでいる、後姿に和也は声をかけた。
「どうかしたの」
屈託のない笑顔が自分に向けられていると思うと、結婚を視野に入れ始めた今でも顔がにやけてしまうのだが、今は顔がひくひくとこわばるだけだ。
「い、いや、なんでもない」
「今、お味噌汁注ぎ終わるからちょっと待っててね」
「あ、俺運ぶよ」
味噌汁を食卓に並べて、二人は向かい合って座る。
「どうかしたの、カズ君なんだか顔色わるいけど」
香織は首を少し傾げる。心配そうな上目遣いの目が和也を捉えた。
「この肉じゃがってさ……」
「カズ君、肉じゃが好きでしょ。今回のは自信あるからたくさん食べて。絶対に美味しいよ」
香織は肉じゃがを和也の皿によそっている。
「ほら、食べよう」
屈託のない笑顔で香織は手を合わせて、和也もそれにならう。
香織は自分の皿に肉じゃがをよそって、じゃがいもを口に運んだ。
「うん、美味しい。あれっ、カズ君食べないの」
「い、いや食べるよ……」
和也は恐る恐るじゃがいもと肉を一緒に口に運ぶ。
「これは……」
「どうかな?」
「美味い! これはいいよ。よくできてる」
ほんのりと広がるじゃがいもの甘みに和也は舌鼓を打った。
「よかった。また、不味いとか言われるかと思ってひやひやしたよ」
香織も心底ほっとした様子で、肉じゃがを口に運んでいく。
しばらく箸と食器がぶつかり合う音だけが響いた。
「しかし、よくできてるな。おとといのは酷かったから余計に美味しく感じるよ」
「失礼ね。ちょっと砂糖と塩を入れ間違っちゃっただけじゃないの」
「ちょっと? あれが、ちょっとだったか。塩辛かったぞ」
「そ、そんなことなかったよ。……ちょっとしょっぱいくらいだよ。カズ君は汗たくさんかく仕事なんだからあれくらいで十分よ」
「だからって、一緒に住むようになってから、ほとんど毎日じゃないか。ちょっとおかしくないか?」
「それは私も最近思うけど……」
「やっぱり、香織がドジだからじゃないか」
「私はそんなドジじゃないもん」
「だったらその前の肉じゃがってどんなの作ったか覚えてる」
しばらく、目の前の肉じゃがを見つめている彼女。どうやら覚えていないようだ。
「その前は、肉じゃがに唐辛子を大量に入れただろう。それも見ても分からないように、ご丁寧にみじん切りにしたものを!」
「それは、辛い方が美味しいに決まってるでしょ!」
「だったら、なんでみじん切りにして入れたんだ! そのまま入れれば避けて食べれるのに」
「だって、うちの肉じゃがは丸々唐辛子なんかいれてないもん」
「お前のうちの肉じゃがは唐辛子を入れるのか」
「そういえば……入れてなかったかも」
和也は深いため息をついた。
「それで。なんで今回のはこんなに美味しいんだ。それだけじゃない、味噌汁も、おひたしも、美味しくなってる。なにか新しいものでも使った?」
「えへへ、実は教えてもらったんだ」
「へえ、誰に?」
「えっとね、幽霊さん」
危うく和也は箸を落としかけた。
「幽霊さんって……どうやって教わったんだ」
「『とり憑いて』って頼んだんだ。それにね、昔ここで、家政婦をしてた人だから、よくこのあたりにいるみたいなの。だから今度、色々な料理を教えてもらうんだ」
和也は音をたてて、箸を置いた。目を真ん丸くした、香織は和也を怯えるような目で見た。
「香織……確かにお前には幽霊が視える。それはわかっているよ。視るのは構わない。お前が望まなくてもそうできてるんだから。けれど、その『とり憑かれる』ってのは前に約束したよな。もう、『幽霊に憑いてもらうようなこと』はしないって。それも自分から」
「そうだけどさ……」
香織は箸を置いた。うつむいている姿は、子どもが親に叱られているようだった。
「憑く幽霊がいつもいつも、そう料理を教えてくれるような人の良い幽霊ばっかりじゃないんだ。お前の身体を乗っ取って、そのまま乗っ取られたままになるかもしれない。だから、無闇に憑かれたりするな。家政婦さんにわざわざ憑いてもらわなくても、普通に教えてもらえるだろう」
「そ、それはそうだけどさ……でも、憑いてもらった方が体で覚えるっていうか、自然に色々覚えられるんだもん」
「でも、その家政婦さんだって、いつ香織のこと乗っ取るか分かったものじゃない」
「そんなことする人じゃないもん!」
「どうしてそんなことが分かる。所詮は幽霊だぞ。俺たちとは考えていることが違うんだ」
「そんなことないもん! カズ君は、私みたいに幽霊が視えるわけでも、話せるわけでもないけど、私はできるの。ずっと前から!」
「……それでも、俺の言っていることも事実だ」
「そんなこと言ったって……」
香織はそれきり黙ったまま、もそもそと食事を再開した。和也も、箸を取った。引っ越し五日目の話だった。
※
「なあ、香織」
和也はリビングに隣接した暗い和室で、天井の豆電球を見つめながら、隣に寝ているはずの恋人に声をかけた。隣で布団がかすれる音がした。
「まだ、怒っているのか」
「……」
「やっと、二人で住めるようになったんだ。ここだって、越してきたばかりだ。いきなり、こんなことで喧嘩するなんてよくないよ。だから……」
「……」
「確かに、香織には幽霊が視えて、そいつらとコミュニケーションが取れるから、そんなに危ない幽霊ってのはいないって思えるのかもしれない。でも、俺は違う。どうしても、危ない幽霊がいないとは思えないんだ。だから、」
「カズ君。もういい。黙ってて」
香織は冷たく言い放った。和也は口を開きかけたが、香織に背を向けて、目を閉じた。
※
ふと、和也は目を開けた。いつの間にか寝ていたようだ。時計を見ると、深夜三時半。喉が渇いたので、キッチンに向かおうと体を起こすと、隣にいるはずの香織はいなかった。トイレか何かだろうか。和也はそんなことを考えながら、リビングと和室を仕切っている襖を開いた。すると目の前に香織がいた。
「ちょっと喉渇いちゃった、お茶ってあったよな」
笑って香織に道をあけながらふと、和也は視線を落とすと、香織の腹部の辺りになにかがキラリと光った。それがなにか分かった時、和也は血がサッと引いていくのが分かった。。
「ど、どうして、そんなもの持っているんだ」
香織はにっこりと笑って、買ったばかりの大出刃包丁を両手で握りなおし、脇を締めた。
そして、体を前に倒す勢いを借りて、包丁を和也の腹めがけて突き出した!
それを、なんとか後ろに尻餅をつきながらも和也は飛び退いた。血の気が引いて、意識が遠のくのがわかったが、香織が包丁を構え直すと、意識が強制的に引き戻された。
「か、香織どうしたんだよ……」
香織は両の目をギラリと光らせた。文字通り光らせたのだ。まるで、眼球のあるべきところに蛍が入っているかのようだった。
「どうしたのカズ君」
香織の普段のそれとは明らかに異なる、ボイスチェンジャーを使ったような声。
なぜ? と疑問が浮かぶが、考えることより先に体が動いた。突進してくる香織の脇をすり抜けると、和室からリビングに出て、辺りを見回す。変わったことは特にない。しかし、後ろを振り返れば香織の姿をした何かが包丁を手に迫ってくる。どうするかも分からず、ただ、玄関に続く廊下に飛び出して、玄関の前のすぐ左手にある扉のなかに飛び込むと同時にバタンと扉を閉じて、鍵をかけた。
「なんなんだよ」
和也はずるずると、その場に座り込んだ。目を閉じると、今の数分の出来事が思い出され、今更のように汗がどっと噴き出してきた。
「カズ君どうしたの。なんで、鍵なんかかけてるの」
戸を強くノックしながら、香織ではない声で語りかけてくる。
「お前は誰だ!」
「私? どうしちゃったのカズ君。私だよ。香織だよ。ここ開けてよ」
「嘘だ! 香織はそんな声じゃない」
「そんなことないよ。だから、ここ開けてよ」
「嫌だ!」
そんな問答を何度も繰り返し、何度も叩かれてきた戸が突然やんだ。そして、ペタペタと聞こえる音が少しずつ遠ざかっていく。
和也はほっと息をついた。
「なんなんだよ。夢かこれは」
「いいえ違うわ。現実よ」
全く聞いたことのない声が突然、和也の耳を捉えた。顔をハッとあげて見回すが、物置と化した部屋には、ダンボールばかりで人影はない。
「ぎゃああ!」
突然奥のほうから叫び声が聞こえた。部屋に鍵がかかってるのを確認してから、ダンボールを跨いで部屋の奥へと慎重に和也は向かう。そこには、赤い着物でおかっぱの三頭身くらいの、市松人形がダンボールの陰にひっくり返っていた。それ以外に変わったこともなく、やはり人影らしいものは見当たらない。和也は人形を抱き起こした。この市松人形は香織が昔から大事にしていたもので、早くリビングに移そうと言っていたことを思い出した。壊れてないだろうかと、くるりと手の中で一回転させてみるが、どこにも異常はなさそうだ。
「ありがとう」
和也の腕の中から聞こえてきた気がした。人形をじっとみる。
「そんなに見ないでよ」
照れくさそうに言っているのが、腕の中から確かに聞こえた。もう一度、人形をじっとみる。気のせいでないならば口元が動いた気がしたのだが……
「だから、そんなに見ないでよ、恥ずかしいじゃないの。それとも私のこと誘惑しているのかしら?」
声に合わせて口が動くのを和也は目の当たりにした。それだけではない、にやりと腕の中で人形の大きな目が細くなり、口元が上がったのだ。
「ぎゃああああああああああ!」
「きゃあっ!」
和也と少し遅れてもう一つ別の声が部屋中に響く、その後に、がたんと人形が床に落ちる音がした。
「ちょっと、いきなり投げたら痛いじゃないの。この体、起き上がるの大変なんだから」
ダンボールの奥から市松人形から発せられたらしい声がする。
「に、人形がしゃ、しゃべった……」
よっこいしょというのが聞こえてきてから、人形がダンボールの陰から現れて、腰を抜かしている和也にちょこちょこと近づいてくる。
「あら、人形がしゃべるのなんて当り前でしょう」
「嘘だ……に、人形はしゃべらないぞ」
「何言ってるの。人形は人の腕の中でいつも口をパクパクさせながらしゃべってるじゃない」
「それは、腹話術って言うんだ! 人形はしゃべらない……って知らなかったのか?」
人形は口の奥が見えるくらいあんぐりとしている。
「そ、そんなことないわ」
人形は和也の前で腕を組んだ。
「さて、浦辺和也さんでよろしいのよね」
「そうだけど……あんた何だよ。人形じゃないよな」
「私は人形じゃないわ。私の名前は戸部裕子。元は人間、今はあなたの彼女のような人しか視ることのできない幽霊よ。今はこの人形が私の身体なの」
「幽霊……」
和也はそれを噛み砕くようにゆっくりとつぶやいた。
「そう、何かにとり憑くのは幽霊の専売特許よ」
「それで、その幽霊さんがなんでここにいるんだ。こっちは今それどころじゃないんだよ」
和也は戸部が憑いているという市松人形の脇の下に手をいれて、自分の目線の高さに持ち上げた。
「抱き上げてくれるのはありがたいけど、お姫様抱っこなんてしてくれると嬉しいんだけどな」
「ここから、落としても構わないんだぞ」
和也は人形をにらみつけた。
「ま、まあ。時間もないから単刀直入に言わせて貰うわ。あなたを助けにきたのよ。……正確には彼女を助けに来たんだけどね」
「香織のことか」
「そう。あの子は今、霊に取り付かれているわ。それもかなり性質の悪いね」
「声があんなになってたり、目が光ったりするのは」
「性質の悪いのに憑かれるとああいう風になることがあるのよね」
「性質が悪いってのは、悪霊とかそういうやつか」
「うーんまあ、そういうものね」
「香織がそいつに取り付かれているとどうなるんだ。死ぬのか」
「死ぬ……そこまではいかないにしても、かなり厄介な状態よ」
「どういうことだよ」
「彼女に憑いているのは自ら命を絶って、それでもこの世に未練を残した私のようなものじゃない。あの子は殺されたの。ちょうどあなたくらいの年齢の男にこの部屋でね。更に、ここで辱められて、嬲り殺しにされた。まだ若かったのに、先の長い人生に、終止符を打たれたのよ。それも、突然ね。だから、彼女に憑いている霊は怒っている。その怒りの捌け口を探して必死になっているの」
「なるほど……。それで、都心に近いのにこの部屋だけこんなに安かったのか。なんでこんなに安いのかなとは思ったけれど、そんな部屋だったのか。……ってなんであんたがそんなこと知っているんだ?」
「私は彼女にとり憑いている霊より昔からここにいる霊なの。だから、その霊に何があったのか知ってるのよ」
「だったら、なんで香織があんなふうになるのを止めてくれなかったんだよ! 見ていたんだろ」
「そうよ。もちろん、私だってなにもしなかったわけじゃないわ。私は香織さんに憑いていたのよ。そうすれば向こうも簡単にはとり憑く事はできないの。でもいつまでも憑いているのは彼女にとってすごく負担なの。だから、休んでもらっていたんだけど、その隙にとり憑かれちゃったみたいなのよ」
「憑いていたって、もしかしてあんた香織に料理教えたやつか?」
「ええ、そうよ。そのことについてもゆっくりお話したいけど、時間はあまりないの。話を戻させてもらうわね。それで、香織さんに憑いている霊は怒りの捌け口を探しているわけだけど、そんな子が外に出ればどうなると思う」
「怒りの元は自分のことを殺した男のわけだから、そいつを殺しに行く」
「それなら、まだマシな方よ。もう怒りの対象はその男だけじゃないでしょうね。きっと、目に入る男全てを殺そうとしてもおかしくないわ。その証拠にあなたは今彼女に襲われたでしょう」
「確かにそうだけど……で、でも香織は俺に話しかけてきたぞ。殺そうとするならもっと激しい気がするけど、今の話し振りだとかなりやばそうだよな」
「それは、彼女が抵抗しているからでしょうね」
「抵抗?」
「ええ、今彼女の中では香織さん本来の意識と、外から来た霊の意識、その二つがせめぎあってるの。だから、彼女はすぐに殺そうと襲ってこないと思うの」
「じゃあ、もしその意識のせめぎあいで香織が負けたりしたら」
「そうしたら『憑り殺される』って言うのかしら。自我が崩壊してあなたの知っている彼女ではなくなってしまう」
「そんな……なんで」
「彼女がそういう体質だからよ。憑り付かれやすい人間だから」
「でも、今までは一度もあんなことにはならなかった……」
「今まで一度もこういうことにならなかったなんてある意味、奇跡よ。だからこそ、彼女は私たち霊に恐怖、疑いの眼差しというのを持っていないの。でもそのせいで、彼女は危ないの。彼女は初めて悪意のあるタイプの霊に取り憑かれた。それは自分の意思でその霊を追い払うことが非常に困難なの。抵抗することはできても、追い払う術は知らないと言った方が正しいでしょうけど」
「どうすれば助けられる」
「本人が強い意志を持ち続けて、霊に打ち勝つことが一番の解決策だけれど、私たちが何とかしようとするなら、強い衝撃を与えてあげることが一番でしょうね」
「強い衝撃……」
「そう、意識が飛ぶくらいのね。そうしたら、彼女に私がとり憑いて彼女に力を貸して、その霊を追い払うことができるわ。けど、この方法は乱暴だからお勧めはしないけど」
「意識が飛ぶくらいなんて……」
和也はあたりを見回すと漆塗りの木刀が目に入った。高校時代に剣道をしていたときに買ったもので、今でも暇があれば素振りをしていたのだが、引っ越してからは一度もしていない。
「これで、香織の頭叩けばいいと思うか」
「こんなので思いっきり叩いたら、意識が飛ぶどころか死ぬわよ」
「当り前だ! 手加減はそれなりにする」
「なら、なんとかなると思うけど……」
「よし、いってくる」
和也はドアノブに手をかけた。
「ちょ、ちょっと、本当にそんなことしていいの。あなたの力加減一つで彼女死ぬかもしれないのよ」
「わかってるさ、でも、香織は苦しんでいるに違いないんだ。少しでも早く助けてやりたいんだ」
和也は扉の鍵を開けるとゆっくりと戸を開けた。片方の手には木刀がしっかりと握られていた。
※
廊下に出たが、人の気配はない。リビングの方からテレビの付いている音がする。和也はフローリングの床を滑るように進んでいく。電気がまだついているキッチンを過ぎる。その先のリビングの扉は開いており、香織がソファに座って、テレビの画面を見ているようだ。暗闇の中で映し出されるテレビの明かりに映っている香織はぼんやりとしているようで、今にも消えてしまいそうに見える。和也は木刀の範囲内に慎重にかつ、音も立てないように入ると、片手で握っていた木刀を両手で握り、瞬間的に息を腹まで収めた。
「ごめん!」
和也が振りおろした木刀は香織の頭の上で止められた。香織はテレビを見たまま、木刀を手のひらで受け止めていたのだ。
「ずっと、あそこから出てこないかと思ったら、どうしたの? こんなもの持って」
香織は木刀を握りながら立ち上がって、和也に向かい合った。やはり声は香織のものではなく、和也と目が合ったときに、妖しげに目が光った。
「か、香織!」
和也は押しても引いてもぴくりともしない香織の筋力に唖然とした。
「なに? どうかしたの。それより、カズ君の方がどうかしてるんじゃないの」
香織は木刀を自分の目の高さまで持ってくる。
「こんなの当たったら痛いでしょう」
握っていた木刀が大きな音を立てて、折れた。
「な、なに!」
「カズ君も私にこういうことするんだね。男の人ってみんな同じなのね。だから、私は殺す。あなたを殺す」
香織は折った木刀を床に落として、和也に手を伸ばす。
「やめろ」
和也は身を引く。そのまま、後ろに下がっていく。
「逃げないでよ」
香織はソファに手を伸ばす。その先には先ほどの包丁がある。それを握った。
「香織! やめろよ。なんで、そんなことをしてるんだ」
「殺してやるの。そう殺してやるの。そうじゃないと私が殺される」
「香織……」
和也はあわてて後ろに下がるが、足を絡ませて、尻餅をついた。
「そう、殺して……殺してやる!」
ギラリと目を光らせながら和也めがけて包丁を振り下ろした。
「う、うわあ!」
勢いからして、包丁が和也の足辺りに命中するのは明白だった。目を強く瞑ったが、なにも起こらない。
恐る恐る目を開いてみると、そこには包丁を振り上げたまま、涙している香織の姿があった。
「香織……?」
「か、カズ君……私、私なんでこんなことを……なんで、こんなもの持っているの? 私いま何をしようとしたの?」
その声は香織本人の声だった。
「大丈夫だ。香織、その包丁を離して。そう、こっちおいで」
香織はうなずきながら、和也の方に寄ってくる。
「そうそう。香織は何もしていないよ。大丈夫」
ゆっくりとささやくようにしながら、和也は香織を抱き寄せた。
「カズ君……」
「大丈夫。大丈夫だから」
和也は香織の背中をさすりながらも、片手で香織の握っている包丁を取り上げる。
「成功したのかしら」
戸部がよちよちと和也の方に歩いてくる。
「よくはわからないけれど……声は元に戻っているし、大丈夫なんじゃないかな」
「なら、後は私の仕事ね。本当に彼女から霊がいなくなったのか確かめてみるわ。ちょっと、こっちに顔を向かせてくれる」
「香織、ちょっとこっちを向いてくれるか」
和也は香織の耳元でそう囁いて、香織の顔を両手で包んで戸部のほうへと導く。
戸部は香織の瞳を見上げた。その目はきゅっと細められた。そして突然言い放った。
「まだよ! 和也、押さえつけなさい」
一瞬、呆然とした和也だったが、はっとして香織の首にかじりつくようにしがみついて、床に押し倒した。
「えっ? カズ君? なにするの」
香織はじたばたと暴れるが和也はそれを押さえつけた。
「おい! 本当にいいのかよ。なにも変わってないじゃないか」
「まだよ。まだ彼女の中に憑いているわ。なにかロープみたいなのないの」
「スズランテープならさっきの物置にある。香織! 落ち着け」
「あたしがとってくる。だからそれまでそうしていて!」
そういうと戸部はちょこちょこと飛ぶように先ほどの部屋へと戻っていく。
「カズ君なにするの。離してよ!」
「香織、落ち着け。お前は今幽霊にとり憑かれているんだ」
「いや! 離してよ」
「落ち着け! 俺を見ろ」
香織に馬乗りになった和也は体全体を左右に揺らして暴れている香織の顔を包み込んだ。そして、香織と和也の瞳が宙で結ばれた。
「知ってる。この光景。私、襲われて、こうやって押し倒されて、それから……」
うなされるように低く呟いている香織を和也はただ見つめることしかできなかった。
「香織、どうしたんだ?」
「私は!」
香織がそう絶叫に近い声で言うのと同時に香織の目はまた黄金色に光った。
「私は、あなたを殺さなきゃいけない! そうじゃないと……そうじゃないと私はまた」
香織は和也の手を振り払って、和也の胸倉を掴むと木刀をも握り折った膂力によって和也を突き飛ばす。
あまりにも突然のことで受身をとることもできずに、背中から床に落ちた。
「早くこっちに!」
戸部の声がするほうに和也が目をやると、戸部がぴょこぴょこ跳ねながら手招きをする。
和也は体を起こしながら、香織との距離を測った。香織は包丁を拾っているところだった。ただ逃げることだけを考え、和也は戸部のほうへと走り出した。
それに気がつく香織。
和也は既にリビングを抜けて、戸部のもとに向かっていた。
「早く、早く!」
戸部が急かして、和也は勢いよく先ほどの部屋に飛び込んで鍵をかけた。
「無事……みたいね」
「まあな。けど、香織は……」
「きっと、一時的に霊に打ち勝てていただけで、完全に勝つことができなかったのでしょうね」
「どうすればいいんだよ……それにしても、あいつの力はなんだ! 木刀握り折るとか普通の女の子にできるわけがないだろう!」
「憑かれているからよ。身体能力が怒りに任せて飛躍的にあがっているんじゃないかしら」
「そうか……どうすればいいんだよ。木刀が折れたとなると……」
「そうねえ……」
「殴っただけじゃ駄目なのか」
「だめでしょう。向こうが失神するくらいの衝撃じゃないとだめでしょうね。それに、逆にあなたがあの力で殴られでもしたら無事じゃすまないわよ」
「他になにかないのか」
「他にそうねえ……除霊師がいたら、御祓いとかしてもらえるけれど」
「俺にはそんな知り合い、いないぞ」
「そんな時間だってないわ。このまま、外に出たら大騒ぎよ」
二人は向かい合って、「うーん」と低く唸る。
「動物みたいに火で追い払えないかな」
「できたとしても、そのまえにここが火事になるわよ」
「念仏唱えてみようか」
「無駄だと思うわよ」
「十字架とか出したら」
「ドラキュラじゃないのよ」
「ニンニクは」
「それもドラキュラ」
「ネギ巻かせてみる」
「風邪ひいてるわけじゃないのよ」
「塩まいたら」
「そんな、嫌な人が来た後でも……ハッ! いけるかもしれないわね」
「え?」
「だから塩をまいたらいけるかもしれないわね。塩ってのは本来穢れを祓う力があるんだから、悪くはないわね」
「料理に使うような塩でいいのか」
「うーん、いいんじゃないかしら」
「なんか適当だな」
「幽霊だって適当に生きていかないと、今とり憑いているようなやつになっちゃうものなのよ」
「そんなものかなあ……」
「そうよ。覚えておきなさい。私たち幽霊はね、あなたが考えているように悪意に満ちたものばかりじゃないの。本来はあなたたち生身の人間と同じだったの。だから考え方だって、ほとんど一緒なの。恨みに任せて暴れる霊なんて滅多にいないのよ。それでもいま彼女に憑いているようなのはそれにあたるけどね」
「い、一応覚えておくさ。それよりもまずは目の前の問題をなんとかしなくちゃな」
「そうね。塩はどこにあるの」
「多分、キッチンのコンロの近くに調味料をいれた引き出しがあるはずだ。そこまで行けば」
こんこん。小さく戸が鳴った。
「その前に彼女をすり抜けなければいけないみたいね」
「そうだな……」
二人は顔を見合わせ、ごくりと喉を鳴らせた。
「か、カズ君」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、蚊細いながらも紛れもなく本物の香織の声であり、あのボイスチェンジャーで変えたような声のそれではなかった。
「か、香織!」
「カズ君助けて……辛いよ。苦しいよ」
「い、今開けてやる」
「ちょっと、何してるのよ! 向こうで彼女が身構えていたらどうするのよ! さっきみたいになったら今度は逃げれないわよ!」
「そんなことない!」
和也は鍵を開けて、取っ手を回した。戸を開けた先には包丁をだらりと下げている香織がいた。
「香織! 大丈夫か?」
「か、カズ君。あたし、あたし……」
「落ち着け香織」
「やっぱりね、やっぱり……」
「どうしたんだ」
うつむいて震えている香織を和也は下から覗き込んだ。
「あなたを殺したいみたい」
香織の声が例の声のものに戻り、目を光らせた。
持っていた包丁は下から突き上げるように眼前へと伸びてくる。
「うぉ!」
和也は体を左に半分、捻って辛うじてそれを避ける。
「今よ、行きなさい!」
戸部の鋭い声が和也を動かした。
和也の左手は香織の肩を掴んで、引き寄せる。その勢いで自分は前に出て、キッチンへと急いだ。
キッチンに駆け込むと急いで、コンロの横に備え付けられている引き出しを開けた。そこには胡椒や、砂糖、味の素などの調味料が整然とあった。そして、一番奥に塩のラベルの貼られた容器があった。
「よし、これで香織を」
「私をどうするの」
振り返ると通路を塞ぐように包丁を持った香織が立っていた。
和也は一歩後退さると、壁と背中がくっついた。
「私をどうするの」
香織は一歩にじり寄った。
「こいつで香織をもとに戻すんだ!」
和也は容器の蓋を開けて、容器ごと香織になげつけた。
容器は中身を撒き散らしながら香織にぶつかって床に落ちた。
しばらく、和也と香織はにらみ合っていた。しかし、なにも起こらない。
「これで、終わりなのかしら?」
和也との間をゆっくりと詰めていく。
「大人しく殺されて。私はまだ死にたくないの」
「ちくしょう。駄目なのかよ!」
和也は自棄になって、一番手前にあった胡椒のビンを香織に投げつけた。
それを平然と受け止める香織。
しかし、蓋がゆるかったのか、その中身はあたりにばら撒かれ、香織はそれをすっぽりとかぶってしまった。
「へっくしょん。な、なんなのよ。へ、へ……」
香織がくしゃみに気を取られている間に和也はもう一度引き出しに目線を落とした。
一番手前にあった胡椒はなくなり、その奥に味の素、砂糖、醤油と続いている。もう一度見直す。そこで、和也はハッと気がついた。
気がついたら、体は自動的に動いた。
容器をひったくるようにして、その蓋を外した。
「香織!」
その中身を香織にぶつけた。雪のようなものが香織に降りかかる。
「こ、これは……」
香織はたちまち青ざめた。
「し、し、塩! ひぃぃやぁぁぁ! なによこれ! なんなのこの感じは!」
香織の目はちかちかと光り、だみ声と本来の声が入り混じり、唐突に足元から崩れ落ちた。
「香織!」
和也はすぐに香織に駆け寄る。
香織はぐったりとして和也の問いかけに応えない。
「香織!」
いくらか香織を腕の中で揺すってみるが、それでもなにも応えない。
「大丈夫。気を失っているだけよ」
よちよちと戸部がやってきた。
「気を失ったなら」
「ええ。彼女にとり憑いて、霊を追い払ってくるわ。彼女を寝かせて、私を支えてくれる?」
和也は香織をゆっくり、寝かせて、戸部の両肩を優しく支えた。
「少しの間まってなさい」
それだけいうと、戸部はそれきりしゃべらなくなった。和也の手に触れている市松人形が少し冷たくなったようだった。
※
それからどれくらい経ったかわからない。和也は市松人形の肩を支えながらずっと香織に目をやっていた。
突然、香織の体が青白く光った。
「香織!」
香織の体から出る青白い光が香織の少し上の何もないとこへと集まっていくのを和也はみた。
集まった青白い光は球体になり、ゆっくりと上昇して、天井へと消えていった。
「終わったわよ」
市松人形がしゃべった。
「今の光は……」
「あれが、彼女にとり憑いていた霊よ」
「上の方にいったが、これからあれはどうなるんだ?」
「それはわからない。でも、彼女に危害はもう加えられないわ」
「そうか……よかった」
和也はほっと息をついた。
「それにしても、なんで砂糖の容器に塩が入ってるなんて思ったの」
戸部は床に転がっている、砂糖のラベルの貼られた容器を突っつきながら聞いた。
「ああ、それは香織が塩と砂糖をいつも間違えていたから」
「そんな根拠なの」
「ああ。最近の料理は本当に砂糖と塩の入れ間違えが激しかったからな。これは、うっかりとして片つけられるものじゃないなって思って、もし、ラベルが張り間違えられていたら……ってわけさ。まだ越してきてばかりで、色々、慌ただしかったし」
「ふぅん」
じろじろと戸部は和也をみた。
「なんだよ?」
「いいえ、別になんでもないわよ」
戸部がそっぽを向く。
和也は香織に向き直ると、香織の手がぴくりと動いた。
「香織!」
香織を抱き上げて、何度か呼びかけながら和也は香織を腕の中で揺らせた。
「う、ううん……」
「香織大丈夫か?」
「カズ君? あたし……どうかしたっけ」
何度か目をしばたかせた後、香織は和也を見つめた。しかし、いきなり顔をしかめて、香織は大きく息を吸った。
「へっ、へっくしょん! なにこれ砂糖? 胡椒? それに塩? なんであたしの体にこんなのが……」
香織はそこでハッとした表情をして、和也から離れて自分を抱きしめた。
「どうかしたのか?」
「カズ君。あたしが寝ている間にこうして、調味料をたくさんかけて私を食べようとしたんでしょ」
「違うわ!」
和也は突っ込みを入れる。
「じゃあ、なんで私の体がこんなことになっているのよ!」
「なんでって……香織、覚えてないのか」
「なによ、これあたしがやったとでもカズ君思うの」
香織は両腕を左右に大きく広げた。床一面に砂糖や塩、胡椒がまるで砂浜のようにきらきらと光ながら広がっている。
「香織がやったわけじゃないけど……」
「私がやったんじゃないなら、カズ君がやったんでしょう」
「ふふ、仲がよろしいことで」
市松人形の戸部は上品に笑った。
「その声、戸部さん?」
香織は少しびっくりしたように市松人形を抱え上げた。
「ええ、香織さん。またお料理教えに来ますね」
「はい。また憑いてくださいね。……あっ、やっぱりそれはやめてもらえますか」
「あら、どうして?」
「実はカズ君。そこにいる彼が……」
「いいんだよ香織」
和也は微笑みながら言った。
「カズ君?」
「俺も戸部さんのことは信用していいと思うから、憑いて料理を教えてもらってもいいよ」
「カズ君、戸部さんのこと知ってるの?」
「ああ。ちょっと色々あってな」
「そうなんだ。でも、本当にいいの?」
「ああ、香織の言うとおり幽霊は悪い奴ばかりじゃないっていうのが少しわかったからさ」
「そっか。それにしても、カズ君と戸部さんの間になにがあったの? 知りたいな」
和也にじりじりと好奇心いっぱいの顔で香織は迫ってきた。
「なにがあったって……なあ」
和也は苦笑しながら、戸部をみた。
「気になるよ。教えて教えて」
「じゃあ、何から話していけばいいかな」
和也は自分の頭を整理しつつこう切り出した。
「最近、どうも塩と砂糖を激しく間違える女の子がいました」
了