四つめの奇跡 ― 8(彼女の願い) ―
美乃原咲夜は、何かを押しつぶすようにして語りはじめた。
「――私の魔法、〈幸福感染〉はあなたの言うとおり〝他人の願いを叶える〟魔法よ。ムーミン谷に出てくる、飛行おにみたいなものね。私の近くで誰かの願いが一定の強さを超えると、その魔法は自動的に発動する」
「自動的、ですか……?」
アキは眉をひそめた。
「そう、今でこそ多少の意志をもって制御できるようになっているけれど、子供の頃は特にそれがひどかった。私はまわりの人間の願いや望みを片っぱしから叶えていた」
咲夜は雲の形がほんの少しだけ変わるように笑った。
「それがどういうことか、あなたにわかるかしら? ……もっとも、子供の頃の私は何も考えてなんかいなかった。ただ親やまわりの人が喜ぶ顔を見て、そのことを嬉しく思っていただけ。病気が良くなった、宝くじに当たった、仕事で昇進した。でも次第に、それがおかしなことなんだと気づきはじめた」
「…………」
「どんな希望であれ、欲望であれ、その願いがある程度はっきりしてさえいれば、私の魔法は勝手にそれを実現してしまう。あなたの指摘したとおりよ――具体的な方法がわかっていれば、それはより容易になる。そのせいで、ずいぶんひどいことが起こった。私は段々、怖くなりはじめた。次はいったい、何が起こるのか。自分はいったい、どんな願いを叶えてしまうのか……」
咲夜は小さくため息をついた。悪い夢のことを、忘れてしまおうとするみたいに。
「そうして、私は思ったの。願いが叶うことが、幸福になることだとはかぎらないんだって。私のまわりの人は、大抵はそのせいでもっと不幸になった。私が、みんなを不幸にした。その頃から、私はできるだけ人から遠ざかるようにした。そうすれば、人の願いを叶えずにすむようになるから――」
アキは咲夜の言葉を聞いて、かすかな胸の痛みを覚えた。その胸の痛みに、アキは見覚えがあった。
もう、幸福を信じられないこと――
もう、世界を信じられないこと――
美乃原咲夜が失い、手放してしまうしかなかったもの。
「私は冷たい月の上にでも行ってしまいたかった。そうすれば、もう誰の願いも叶えずにすむから。孤独だけが、私に平和を与えてくれた。私は一人ぼっちになってしまいたかった。誰もいないところに行きたかった。私が話をするのは、せいぜいピアノくらいのものだった」
「それでも、そばにいてくれる人はいたはずです」
例えば、小菅清重のような――
「きよちゃんみたいな人は例外だった」
と咲夜は何かを懐かしむような口調で言った。
「でも結局、きよちゃん自身は一人じゃない。私といっしょになるために、きよちゃんにまでそれをさせるわけにはいかなかった。それに小さい頃はまだしも、二つ歳が違っていると会う機会も減っていってしまう。同じ学園にいても、すぐに高等部に行ってしまった」
「…………」
「その頃、わたしが学園に入ってしばらくした頃ね――〝幸福クラブ〟のみんなと出会ったのは」
咲夜はまるで、古い本のページでもめくるようにして言った。その物語は、とっくの昔に途切れてしまっていたとはいえ。
「はじめに話しかけてきたのは、杜野くんだった。たぶんどこかで、私の噂を聞いたんでしょうね。いろいろ質問されたわ。私は本当のことをしゃべった。どうせ信じるわけはないと思っていたから」
「……でも、信じた?」
「ええ、意外だった。それに杜野くんは、私のことを悪くないって言った。誰かが悪いわけじゃないって――私はたぶんその時、彼のことを好きになっていたんだと思う」
こんなにはっきりと誰かを好きだと聞かされると、アキはやはり赤くなってしまう。
「私たちは〝幸福クラブ〟を結成し、それから杜野くんの幼なじみだった葵、生徒会の唯依、葛村くんとメンバーが集まった。それはちょっとした偶然みたいなものだったけど、あるいは四人のうちの誰かが望んだのかもしれない。それに私の魔法が反応した――」
咲夜はそっと、宙をなぞるように指を動かした。
「クラブの活動はすごく楽しかったわ。みんなでわいわいやって、何より本当に誰かを幸福にすることができた。私はその頃、魔法の制御がある程度できるようになっていた。成長したせいかもしれないし、クラブにいるみんなのおかげだったのかもしれない。でもとにかく、私は自分の力で人を幸せにできることが、嬉しくてたまらなかった」
そう言う咲夜の表情に嘘はなかった。彼女は本当に幸福だったのだろう。けれど――
「でもそれは、杜野くんが例の願いをするまでだった。もっとも、そうでなくてもいずれ、私たちはだめになっていたのかもしれない。私たちはみんな、どこにも行きつかない思いを抱えていたから。誰もが、自分を好きではない誰かを好きになっていた――」
美乃原咲夜は、もうすっかり壊れてしまった何かを見つめるように言った。アキはそれでも、言ってみる。
「わたしの友達なら、きっとこう言うと思います。誰かを好きになるのはおかしなことなんかじゃない、って」
「……そうかもしれない」
咲夜はくすりと笑った。
「けど、あなただって知ってるんじゃないかしら? この世界には、どうしても変わらなくちゃいけないものがあるってことを」
そう――
確かにアキは、知っていた。
魔法使いでない自分、別の中学に行ってしまう自分、否応なく体の変化していく自分。
だから、今までと同じではいられなくなってしまう。大切な人と、いっしょにはいられなくなってしまう。
「何にせよ、杜野くんは願った。そして私は……それを叶えてしまうことしかできなかった。私の願いはただ、みんなといっしょにいることだけだったのに。私にとっては、それが完全世界だったのに。どうしようもないくらい、彼のことが好きだったのに――!」
他人の願いを叶え続けてきた少女の、それが報酬というわけだった。
「杜野くんの願いを叶えた魔法は、今でも続いている。彼は消えてしまった。この世界でないどこか、夢の中に溶けて。そして私の魔法は、もうすぐ完全でなくなる。そうしたら、たぶん彼は本当に消えてしまう。もう私には、それだけの力がなくなってしまう」
「――――」
「どうして彼は、そんなことを願ってしまったんだろう? どうして私は、それを叶えることしかできなかったんだろう? 人は結局、不幸になることしかできないとでもいうの? 魔法を使ってさえ、この世界は――」
咲夜はじっと、まるで夜の闇でも見とおそうとするかのようにアキのことを見つめた。
「――ねえ、水奈瀬さん。あなたが私に聞きたかったのは、そんなこと? この世界がどれくらい不完全なのか、そんなことを?」
「違います、わたしはそんな――」
アキは激しく首を振った。けれど、どんな言葉も出てきたりはしない。それはもう、真空中にでも吸いこまれてしまっている。
「それとも、あなたが私を救ってくれる? 私の願いを、叶えてくれる?」
美乃原咲夜のその言葉に、アキは答えられない。答える資格がない。
アキは――
「杜野透彦の本当の願いは、決してそんなことじゃありませんでした。だからそれは、偽物の願いでもあったんです」
――不意に、誰かが部屋の中に現れていた。
アキは振りむいて、そしてそれが夢なんじゃないかと疑う。今朝見た夢の続きなんじゃないか、と。何しろそこには、アキがずっと会いたいと思っていた人がいたのだから。もう声も届かないと思っていた、その人が。
――宮藤晴が、確かにそこに。
「どうして、ハル君が……?」
つぶやくと、ハルは話はあとだから、というふうにアキのことを目で抑える。アキは訳のわからないまま、うなずいてしまっていた。
「……何を言ってるの、あなたは?」
この闖入者に対して、咲夜は臆することなく言った。
「いきなり現れて、あなたに何がわかるっていうの?」
「わかるんです。だって、ぼくとその人は少し似ているから」
「似ている?」
「――まず、杜野透彦がどうしてあなたとクラブを作ったのか考えてみましょう」
咲夜はその落ち着いた話しぶりに、とりあえず口を閉ざしてみることにしたようだった。
「彼がそれをしたのは、誰よりも幸福を願っていたからです。この世界の、この不完全な世界の幸福を、それでも守りたいと。だからあなたと、クラブを作った」
「……結局それは、私を利用するためでしかなかった」
ガラスを叩き割るようにして、彼女は言った。
「いいえ、違います――」
ハルは静かに首を振る。砕けたガラスの破片を拾い集めるように。
「それは美乃原さん、あなたが世界の幸福を守っていたからなんです。あなたが誰より、それを守ろうとしていた。幸福の価値を。たった一人になったとしても、それを守ろうと。だから杜野透彦は、あなたとクラブを作った。彼は、あなたに誰よりも感謝していた」
咲夜は何かを言おうとして、けれど言葉が出なかった。
「……なら、どうして杜野くんがあんなことを願ったっていうの?」
しぼり出すように、彼女は言う。
「それは、あなたにもわかっているはずです」
「…………」
「あのまま魔法を使い続けていれば、あなたは必ず〝結社〟の人間に見つかって、利用されるはずだった。その魔法は完全世界を取り戻すのに、あまりに都合のいいものだから。その時、彼らがあなたのことをどんなふうにしてしまうかは、簡単に予想することはできなかった。だから杜野透彦には、そうするしかなかったんです」
「でも、そんなの――もっと別の方法がいくらでもあったはずよ」
ハルはけれど、首を振った。
「それは、あなたの魔法を発動させられるくらい強いものでなければいけなかった。それだけの願いの強さを満たし、なおかつあなたのことを救うには、それしか方法がなかったんです。彼は自分の願いをそんなふうに利用してでも、あなたのことを守りたかった……」
美乃原咲夜は、そっと目をつむった。
その胸の中で、空の欠片みたいな小さな種が芽を出すのを感じながら。ずっと前に受けとっていたその小さな種が、消えることのなかった固い殻を破って。
「――だとしても、もう遅い。もうすべては終わってしまったんだから」
彼女の言葉に、けれどハルはこう答えている。
「もしもあなたがそれを望むなら、ぼくは終わってしまったこの物語を、もう一度始めてみたいと思うんです」
「……もう一度?」
「ぼくはこれから、二つのものを調律します。もしその二つに釣りあいがとれているなら、あなたの願いは叶えられるはずです」
そう、宮藤晴の魔法〈絶対調律〉は、二つのもののバランスをとる魔法だった。
「?」
けれどもちろん、咲夜にそんなことはわからない。この少年は何を言っているのだろう、という顔を彼女はする。
「――ぼくがゼロに戻すもの、それは〝あなたの願い〟と、あなたがこれまでに叶えてきた〝あなた以外の願い〟です。この二つを調律して、すべてをまたやり直す」
ハルはそっと、手を差しだした。幸福を優しく、守ろうとするみたいに。
「美乃原さん、あなたの願いを教えてください。何よりもあなた自身が、一番望んでいることを」
「私は――」
彼女は、美乃原咲夜は思い出していた。かつてこの場所にいた、仲間たちのことを。この場所にあった、彼女自身の幸福のことを。
だから――
「私は、杜野くんにもう一度会いたい」
彼女は、迷いはしなかった。それは間違いなく、彼女の願いだったのだから。
その瞬間、世界のどこかで大きな揺らぎのようなものが生まれていた。それは季節が変わっていくみたいに、誰にも気づかれないうちに世界の成り立ちを組み変えてしまう。
やがて一枚の木の葉が落ちるようにして、揺らぎは収まっていた。魔法が行われたのである。
けれどしばらくのあいだ、何も変化はない。
魔法は失敗したのだろうか――? 調律すべきバランスは狂っていたのだろうか――?
「……いや、大丈夫」
そっと、ハルがつぶやいた。
気づいたとき、部屋の入口には誰かが立っていた。何かの約束をはたすために、たった今到着したばかりというような格好で。
その人物が誰なのか、アキには一目でわかっていた。いつか校内新聞の写真で見たのと、まったく同じ姿だったから。ふと目を離した隙にいなくなってしまいそうな、きれいな形をした雪の結晶みたいな人。空の欠片を心に溶かしたような――
「――杜野、くん」
と、咲夜は今にも泣きだしてしまいそうな声で言った。
「――――」
杜野透彦はしばらく黙って、それから少し照れたような笑顔を浮かべて言った。
「今年の文化祭は奇跡が一つ増えちゃったみたいだね、美乃原さん」
そして、ひどく言葉に困ったようにして加える。
「――今まで長いあいだ、ごめん」
「うん」
「怒ってくれても、いいよ」
「うん――」
けれど咲夜は、涙が零れてそれどころではなかった。
物語はいつだって終わる。
――また新しく、はじめるために。あるいは、一人の少女の幸福のために。