三つめの奇跡 ― 4(彼らへの質問) ―
弓道場からは何かの機械部品を組み立てるような、独特の弦音が聞こえていた。
アキは近くまでいくと、格子窓から中をのぞく。弓道衣姿の生徒が何人も射場に立って、行射を行っていた。弓弦から離れた矢が命中するたび、乾いた音が一度だけ響いた。
道場内を見まわして、アキは目的の人物を発見する。ついでに、後方の控えで正座するひのりの姿も見つけた。弓道衣姿の鹿野ひのりには、月から降りてきたお姫様みたいな雰囲気があった。
格子窓の場所を変えて、アキは小さく声をかける。カクテルパーティー効果が立証されて、その声はひのりの耳に伝わったらしい。彼女はきょろきょろとあたりを見まわし、アキのことに気づいた。
立ちあがって、窓のところまで来るとひのりは訊いた。
「アキちゃん、こんなところで何してるの?」
「悪いけど、呼んで欲しい人がいるんだ」
アキが言うと、ひのりは首を傾げた。
「誰を?」
「――葛村貴史」
不思議そうな顔はしたが、ひのりは理由を訊かなかった。その程度には、アキの表情は真剣だったのである。
「わかった、ちょっと待ってて」
そう言うと、ひのりは射場のほうへと向かった。
――射場では、葛村貴史がちょうど二本目の乙矢を構えているところだった。弓道でいうところの射法八節に従って、一連の動作を行う。姿勢を制御し、弓を引き絞り、狙いを正しく定める。やがて馬手から離された矢は、一個の光線のようにして宙を走った。
矢は命中したらしく、乾いた音が高々と鳴り響いている。
残心の終わった葛村にひのりが話しかけるのを確認すると、アキは弓道場から少し離れた。学校の外れにあるその場所には、ししおどしに似た弓音が響いている。
しばらくして、葛村が現れた。さっきまで弓を射ていたせいか、何となく若武者といった風情でもある。
「すみません、練習中にお邪魔して」
まずはじめに、アキはぺこりと頭を下げた。
「いや、大丈夫だよ。今日は……取材で来たみたいだな」
新聞部の腕章に気づいて、葛村は言う。
「はい」
「弓道部のことで、というわけじゃないんだろ。例の奇跡のことか」
「そうです」
葛村は軽く肩をすくめた。
「俺は何も知らないよ」
「でもあなたは、〝幸福クラブ〟のメンバーだったはずです」
「――――」
アキは注意深く、葛村の表情を目で探った。
「――何のことだ、それ?」
嘘をついているようには、見えない。アキは説明した。
「二年ほど前に、一年間だけ活動していた非合法の集まりです。葛村さんはそのクラブの一員だったはずです」
「……わからないな。俺にはそんな記憶はないし、そんなクラブのことも知らない」
「本当ですか?」
「俺の記憶が間違っていなければな」
葛村は困ったような顔つきでお手上げのポーズをとった。もしもこれで嘘をついているとすれば、たいした演技力である。
「じゃあ、杜野透彦という人に心当たりはありませんか?」
アキは質問を変えた。
「いや、知らないな。誰なんだ、それ?」
葛村貴史はやはり、何かをごまかそうとしたり、隠そうとしたりしているようには見えなかった。そんな腹芸のできる人物にも思えない。
「もう一度確認しますが、本当に何も知らないんですね?」
「悪いけど、な。どっちのことも、少なくとも俺の記憶にはないよ」
その表情からして、葛村は本当に何も覚えていないようだった。
アキはお礼を言ってから葛村と別れると、そのあとで大きくため息をついた。話はそう簡単には解決してくれそうにないようだった。
とはいえ、今は次の人物のところに向かうしかない。アキは校舎のほうへと歩き続けた。
和佐葵を訪ねて写真部のドアをノックすると、知った顔のクラスメートが顔をのぞかせて、アキは少し驚いた。
「清本くん?」
アキは意外そうに、その名前を口にする。いつぞや、ふざけて紙ひこうきを飛ばしてきた少年だった。清本啓という。
「何だ、水奈瀬か」
少年は何故かぎくっとしたように、慌てて言った。
「写真部だったんだ、清本くん」
クラスメートとはいえ、案外知らないものである。
「ああ、うん――」
清本はもごもごと、歯切れの悪い返事を口にする。アキは特に気にせずに、訊いた。
「葵さん、部室にいるかな?」
「和佐先輩?」
「うん、ちょっと用事があるんだけど」
清本はちらっと部屋の奥を見てから、「暗室で作業してるところだから、今は無理かもな」と言った。
「ん、じゃあまたしばらくしてからでもいいんだけど」
「……いや、ちょっと聞いてきてやるよ」
意外と親切に、少年は部屋の奥にあるドアのほうへと向かった。
扉ごしに何度かやりとりがあったのち、清本はアキのところに戻ってくる。
「もう作業は終わるから、こっちに来てくれていいってよ」
「ありがとう」
アキがそう言うと、清本啓は少し照れるような表情を浮かべた。どことなく憎めない感じのする顔つきではある。
暗室の前まで案内されると、アキは声をかけてから扉を開けた。中に入ると、酸性のつんとしたにおいが鼻をつく。とても広いとはいえない部屋で、人が二人もいれば息苦しく感じるほどだった。すでに電気はつけられていて、部屋の中は明るい。後ろで、扉の閉まる音がする。
和佐葵は、洗い場の前に座っていた。蛇口から水があふれて、パッドの中に注がれている。流水で薬品を除去しているのだろう。
「これが引伸ばしですか?」
アキはすぐ近くにあった、顕微鏡を巨大にしたような装置を見ながら訊いてみた。
「そう」
言いながら、葵は洗い場のほうから目を離そうとはしない。耳には、相変わらずヘッドフォンを当てていた。
「――もしかして、それって昼の?」
アキが訊くと、葵はうなずいてパッドから印画紙を取りだした。
まだ水滴に濡れたその写真には、モノクロの桜が鮮やかに写しとられていた。艶やかなその画面は、ついさっき誕生したばかりのような瑞々しさにあふれている。色など着いていないはずの花びらには、ほんのりと桜色がにじんでいるようにも感じられた。
「すごいものですね、やっぱり」
葵は水滴を払ってから、乾燥させるために写真を吊るした。
「それで、何か用?」
訊かれて、アキはちょっと真剣な顔で葵のことを見つめる。
「実は二つ、聞きたいことがあってきました」
「?」
「葵さんは、〝幸福クラブ〟って知ってますか?」
「知らない」
何のためらいもなく、葵は首を振った。
「じゃあ、『長靴をはいた猫』の名前には?」
「ペロー?」
「まあ、そうなんですけど」
かつて彼女のハンドルネームだったはずの名前を聞かされても、葵は不思議そうな顔をするだけだった。
「本当に何も覚えてないんですか?」
「何のこと……?」
感情に乏しい彼女の表情ではあったが、逆に嘘をついているようには見えなかった。
「じゃあ、杜野透彦という生徒のことは?」
その名前に対して、葵の顔にはかすかに反応するような何かが浮かんだ。
「確か、同じ小学校に通っていたはず」
「幼なじみなんですか?」
けれど、葵は首を振った。
「覚えているのは、それだけ。別に親しくはなかった」
「…………」
アキは沈黙した。和佐葵の反応も、葛村貴史のそれとたいした違いはなかった。二人で、アキをからかっているのだろうか。
(二人ともクラブのメンバーだったことは間違いないのに……)
アキは仕方なく写真部をあとにすると、廊下を一人で歩いていった。何にせよ、残る二人の話も聞いてみなくてはならない。
生徒会室には誰もいなかったので、アキは三年生の教室へと向かった。目的のクラスをのぞいてみると文化祭の準備中らしく、賑やかで忙しそうな雰囲気に包まれている。何かを料理しているらしく、甘いにおいが漂っていた。
人ごみの中に古賀唯依の姿を探していると、教卓のところで何人かの女子生徒と話しているのを見つけた。アキは入口から、「――すみません、古賀さん」と小さな声で呼びかけてみる。
「……?」
気づいたらしく、彼女は入口にいるアキのほうを向いた。
アキが手を振ると、古賀唯依はいっしょにいた女子生徒たちに何か言って、入口のほうへと歩いてきた。アキは廊下に移動して、彼女がそばに来るのを待つ。
「どうかした、水奈瀬さん?」
古賀は別に迷惑そうでもなく、ごく普通の様子で訊いた。
「ちょっとお聞きしたいことがあったんです――」
二人は通行者の邪魔にならないように窓際に移動して、話を続けた。
「文化祭の取材じゃなくて、例のことについて……だよね?」
さすがに生徒会副会長は話が早かった。
「たぶん、関係しているんだとは思います」
アキは静かにうなずいた。今のところ、ほとんど確証と呼べるものはなかったけれど。
「どんなことが聞きたいの?」
「――古賀さんは、〝幸福クラブ〟に参加していたことがあるんですよね?」
実のところそれは、半分ほどは必然的なことだった。学校のサーバーを利用している以上、それにアクセスする権限のある生徒会関係者がクラブのメンバーに加わっているのは、自然なことである。
けれど――
「それ、何のこと?」
前の二人と同じように、古賀唯依は首を傾げた。やはり、それが演技のようには見えない。
「一年ほど前まであった、学園の秘密クラブです。学校のサーバーを利用して掲示板の運営もしていました」
「それに、私が?」
本人にそう言われてしまうと、アキも断言することはできない。
「……違うんですか?」
「思いあたることはないけど」
古賀は困ったような顔で言う。これでは、前の二人とまったく同じだった。
「それじゃあ、杜野透彦という生徒のことは?」
「杜野……?」
懸命に頭の中を探るような表情を浮かべる。
「杜野、杜野――うーん、やっぱり覚えはないかな。誰なの、その人?」
「一年前、学園で行方不明になった生徒の名前です」
「行方不明? 学園の生徒で?」
言いながら、古賀唯依には本当に思いあたるふしはないようだった。
(……でも、そんなことあるんだろうか)
と、アキは思う。生徒会の役員で、サーバーを無断利用していたクラブのことや、行方不明になった生徒のことをまったく耳にもしない、などということが。
アキは前の二人と同じように釈然としないものを覚えたが、これ以上は何を質問しても収穫はなさそうだった。だからお辞儀をして、行ってしまおうとした。が、
「――あ、ちょっと待って、水奈瀬さん」
と呼びとめられている。
「はい?」
「ついでで悪いんだけど、試食していってくれないかな」
古賀が言うには、彼女のクラスでは保護者会と合同で喫茶店のようなものを開くことになったらしい。メニューはいくつかあるが、そこで出すパンケーキについてアキに味見して欲しい、ということだった。
当然ながら、この場合アキに断る選択肢は用意されていない。
三年生の教室に通されてイスに座ると、面白おかしく料理の準備をしてくれた。やがて紙皿に乗せられて、パンケーキが運ばれてくる。
市販のホットケーキミックスを使ったもののようだが、ブルーベリーとイチゴジャムをトッピングして、上から溶かしたチョコレートが格子状にかけられていた。なかなか凝っている。
「いただきます――」
と、とりあえず言って、アキは添えられていたプラスチックのフォークで切り分けた。
食べてみると、案外おいしいものである。
「どうかな……?」
と古賀がやや不安そうな面持ちで訊ねる。
「おいしいです、ちゃんと焼けてるし」
「よかった――」
と、古賀は笑顔で言った。
「うちのクラスの企画、『愛がなければパンケーキを食べればいいじゃない』っていうんだよね」
名前以外のことは問題なさそうだった。
同じ階にある別のクラスを、アキは訪ねた。
その教室も、文化祭の準備で忙しそうだった。廊下のスペースまで使って、何やら作成している。アキが教室をのぞいてみると、目あての人物はどこにもいないようだった。買い物にでも出かけているのかもしれない。どうしようかとアキが迷っていると、不意に声をかけられている。
「うちのクラスに何か用事かな?」
振りむくと、廊下に女子生徒が一人立っている。ひどく優しい感じのする人だった。
「えと、美乃原さんを探しているんですけど……」
「咲夜を?」
口ぶりからして、どうやら知りあいのようだった。
「たぶん彼女なら、旧校舎の音楽室にいるんじゃないかな。ピアノの練習をするからって理由で文化祭の準備をさぼってるから」
笑顔でそう言われて、アキも苦笑するしかない。
礼を言ってその場をあとにすると、アキは旧校舎のほうへと向かった。いったん校舎の外に出てから運動場をまわり、小道にそって進むと、古い木造校舎の前に出る。大正時代に建てられた官庁社を移築したという建物で、モダンな外観をしていた。
玄関から入ると、靴の泥を落としてそのままあがった。入ってすぐ大きな階段があって、両翼に廊下がのびている。木の壁や床は、太陽の光を何度も塗り重ねたような飴色に輝いていた。
最低限の掃除くらいはされているが、もう頻繁には使われることもないので、廊下の隅や窓枠にはうっすらと埃が積もっていた。階段に足を置くと、まるで眠っていた時間が目を覚ますような、軋んだ音が聞こえる。
アキは三階まで昇ると、まだかかったままの表札から音楽室を探した。見つけて、左翼の廊下に向かう。窓からは第一グラウンドと新校舎の姿を、はっきりと見ることができた。
そういえば昔、似たような場所に隠れてた女の子がいたっけな、とアキは思う。もちろん、あの時と今とでは状況はだいぶ違っていた。相手は隠れてなどいないし、アキは一人だった。音楽室の前に立つと、扉は開いていて、中の様子を簡単にうかがうことができた。
壇上には、黒漆のグランドピアノが置かれている。
そこに、一人の少女が座っていた。
「美乃原さん――」
と、アキはそっと声をかける。
美乃原咲夜は時間の外から意識を呼び戻すような緩慢さで、ふと顔をあげた。そうして砂を使って絵でも描くみたいにゆっくりと、アキのことを認識する。
「……ああ、水奈瀬さんね」
「少し話をさせてもらってもいいですか?」
「ええ、別に構わないわよ」
まだどこかぼんやりとした声で、咲夜は言う。
アキはピアノのそばまで近づいて、ふと窓の外を見た。廊下側と違ってそこには雑木林が広がるだけで、人に見られるような心配はなさそうだった。
「――ここにはよく来るんですか?」
とりあえず話の枕として、アキは訊いてみる。
「まあそうね。一人になりたいときなんかは、よく来るかな」
皮肉というわけではないのだろう。咲夜はかすかに笑ってみせた。
「このピアノ、使えるんですか?」
「少し調律の狂ってる音もあるけど、ちゃんと使える。かなり古いものだけどね。新校舎には新しいピアノを購入したから、これはそのままにされてるみたい」
「…………」
アキはちょっとピアノを見てから、話を続けた。ピアノの蓋は閉まったままだった。
「先輩に、いくつか確認したいことがあって来ました」
「何かしら?」
その答えについてはもう予想はできていたが、それでもアキは訊いた。
「〝幸福クラブ〟について知っていますか?」
「……さあ、知らないわね」
ひどくどうでもよさそうに、咲夜は言った。
「噂にでも聞いたことはありませんか?」
咲夜は首を振った。やはりほかの三人と同じで、彼女も何も知らないようだった。
「じゃあ、杜野透彦という人については?」
「……誰のことかしら?」
「一年前に、行方不明になった人です」
「そんな生徒のことは聞いたこともないけど」
「誰かから話にでも聞いたりは?」
再び、咲夜は首を振った。
予想通りの回答に、アキは肩の力を落としてしまった。これでクラブのメンバーだったはずの四人が四人とも、関与を否定したことになる。そして最後の一人には、話を聞こうにも聞くことができない。
「――ところで、そんな話いったい誰に聞いたのかしら?」
咲夜は、話のついでにといった感じで訊いた。
「小菅部長が教えてくれました。学校の古い記事が残っていて……」
「なるほど、新聞部だからそういうことも知ることができた、というわけだ」
「……?」
つぶやくように言う咲夜のその様子に、アキは何となくひっかかるものを覚えたが、それが何なのかはわからなかった。