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不完全世界と魔法使いたち①~⑥  作者: 安路 海途
不完全世界と魔法使いたち③ ~アキと幸福の魔法使い~
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プロローグ

「――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」


   ――J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎 孝・訳)


 幸せな夢を、見ていたような気がした。

 誰かの手がそっと心を温めてくれるような、そんな夢だった。何もかもが奇跡みたいに優しくて、体がふわりと軽くなってしまって、空さえ簡単に飛んでしまえそうな、そんな気持ちにさせられる夢――

 でも、それは透明な水に溶けていく砂糖みたいに、あっというまに輪郭をなくしてしまう。手をのばしてみても、もう原型すら失ったその形が曖昧に感じられるにすぎなかった。

「…………」

 水奈瀬陽(みなせあき)はベッドの上に身を起こして、ぼんやりと夢の断片のようなそれを眺めていた。

 まだ一日のはじまりという気配は遠くて、目覚まし時計さえ鳴っていない。カーテンの向こうの光は弱々しくて、部屋の中は夜の残した足跡みたいな闇に沈んでいた。

 中学一年になったアキは少し背がのびて、体つきも変わりはじめていた。短かった髪は長くのばされて、いかにも中学生らしい感じがした。全体に、大人びたようでもある。

 それでも、この少女の基本的な部分はあまり変わっていない。手ですくった水の上にきらめく光みたいな、そんな相変わらずの明るさがあった。透明なシャボン玉を思わせる瞳の中で、世界はくるくると回っている。

 そうしてアキがぼんやりしていると、不意に頬の上を一雫の涙が流れていた。

「あれ……?」

 アキは手で触れてみて、ようやくそのことに気づく。

 どうして泣いているのかなんてわからないのに、泣いていることそのものが悲しくなったみたいに、涙がぽろぽろと零れていく。

 人は悲しいから泣くんじゃなくて、泣くから悲しいんだ――

 アキはふと、そんな言葉を思い出した。

(……でも、これは違う)

 アキは朝露みたいな涙をそっと拭って、考えてみた。

 世界に対して、わたしが本当に幸福でいられたのは、いつ頃までだったろう――

 一日のはじまりが待ち遠しくて、どんな明日が来るのかわくわくして、眠ってしまうのさえもったいなかった、あの頃。

 それを失くしてしまったのはいつ頃だったろう、とアキは考えてみる。

 あんなに欲しかった玩具がもういらなくなって――

 いつか行きたいと思っていたあの場所を、もう覚えてもいなくて――

 世界からどんどん奇跡が失われていった、あの頃。

(……でもそれは、おかしなことなんかじゃない)

 誰だって成長するし、それは可能性を少しずつ現実に置き換えていくというだけのことだ。マントを身にまとっても飛べないことを理解したり、サンタクロースの正体を知ったり、自分がそれほど特別ではないことを認識するみたいに。

 手足が大きくなって、摑めるものはずっと多くなり、体や精神も徐々に変わっていく。人は大人になっていくのだ。大昔から決められているとおり。

 それは何かを失くしたわけでも、何かが壊れてしまったわけでもない。

 ただ、成長していくというだけのことなのだ。世界がずっと、そうだったように。

 けれど――

 それはどうして、こんなにも悲しいのだろう?

 アキはそっと、膨らみかけた胸に手をあてる。そこには夢が残していった締めつけられるような痛みがあって、変に苦しかった。

 まるで、悲しみがその居場所を知らせようとするみたいに。

 そうするうちにも、カーテンの向こうはゆっくりと明るくなって、一日がはじまろうとしていた。

 空気は何かの予感に震えるように、日が経つにつれて冷たくなりつつある。季節はもう秋の半ばを過ぎようとしていた。

 アキはベッドから床に足を降ろして、立ちあがる。まるで敵意でも持っているかのように、床は素足をひやりとさせた。それから窓を開けて、手の平を秋の空気に浸してみる。

「冷たい、な――」

 そっと、アキはつぶやいた。季節はいつだって、人の気持ちになんてお構いなしに、変わっていくのだ。

 時間によって、決められたとおりに。

 けれどそれは――

 やっぱり、ほんの少しだけ悲しいことだった。



 もしもすべての願いが叶うなら、人は幸せになれるのだろうか?

 悲しみも苦しみも、どんな小さな痛みさえも、その人を傷つけることはできない。

 ――それはきっと、完全な世界だ。

 けれど魔法を失ったこの世界で、そんなことは起こりえない。この世界は、不完全だから。人はもう、そのための力を失ってしまったから。

 だがもしも、魔法が使えたなら。

 すべての願いを、叶えることができたなら。

 ――人は、幸せになれるのだろうか?

 いつかの後悔や、ほんの些細なすれ違い、かつて思い描いていたささやかな未来を取り戻す、そんなことが。

 青い鳥をもう一度籠の中に入れてしまって、もう逃がすことはない。

 魔法さえ、使うことができれば。

 けれど――

 この不完全な世界では、魔法を使ってさえ人は幸せになることができない。幸せそのものが、不完全でしかいられないのだから。

 ――ほんの小さな幸福。

 これは、ほんの小さな幸福を願った魔法使いの話だ。

 そこには報われることのない思いがあり、孤独な秘密があり、黄昏に消えていった光のような寂しさがある。

 そして何より、()()()()()()()()()()()が。

 これは、ちっぽけな話だ。

 最後にただ、少年と少女が出会うだけの、何でもないような話。零れ落ちた貝殻を、もう壊れてしまった物語を、一人の少女がただ拾い集めていくような、そんな話。

 世界は不完全なまま、何も変わりはしない。あの時の悲しみも、痛みも、傷も、癒されることはない。それは変わることなく、あり続けている。ささやかな願いは叶えられず、ほんの小さな幸福さえ手に入れることはできない。

 世界はあまりに、不完全だから。

 けれど――

 それでも確かに、奇跡はそこにあった。

→「一つめの奇跡」

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