プロローグ
「おれは小麦畑の色の分だけ得をしたよ」とキツネは言った。
――サンテグジュペリ『星の王子さま』(池澤 夏樹・訳)
春の季節は苦手だった。
山際の傾斜は桜色に包まれ、冬の季節がやっと終わったような綻んだ風が吹いていた。遠くで鳥の声がする。
そこは、小さな山を整地して造られた墓地だった。
造営されたばかりの霊園はひどく閑散として、物寂しい。けれど墓がいくら増えたところで、そのことは変わらないだろう。死んだ人間は、もう何も語らない。
宮藤晴は、一つの墓の前に佇んでいた。
それは小学校高学年くらいの、もの静かな表情をした少年だった。全体に落ちついた、大人びた雰囲気をしている。それでも顔にはまだあどけなさが残り、上品な人形を思わせるところがあった。その瞳はどこか不思議な色あいをしている。
あたりに人影はなく、まるで世界そのものが眠りこんでいるような静かさだった。風が時々、思い出したように吹いていった。少年は墓の前でじっとしている。
少年の前にある墓は、母親のものだった。
おなじみの石材で作られた、よくある形の墓である。その四角い石の塊をほかのと取りかえたところで、たいした違いはないだろう。そこに魂と呼べるものが宿っているのかどうかは、わからなかった。
けれど――
その墓と同じくらいに、少年の表情もとりたてて特徴のないものだった。少年の表情はあまりに――平然としている。
それは戸惑いや、諦めのためだろうか。
この少年には、死をどういうふうに受け入れていいのか、わからないのかもしれない。それが世界に何をもたらし、何を奪い去るかということをまだ知らないのかも。
この不完全な世界で、それが何を意味するのかということを。
けれど本当のところ、それは――
少年は何か、つぶやいたようだった。その言葉は小さな風の音にかき消されて、自身の耳にさえ届くことはない。
その時、少年はこうつぶやいていたのだった。
「わからないよ……」
――と。
※
かつて、世界は完全だった。
そこには悲しみもなければ苦しみもなく、一切の不幸はほんの小さな一欠片さえ見いだせなかった。争いも、諍いも、間違いも、そこにはない。
それは生まれる前の卵が夢見るような、完全な世界だった。
けれどいつしか、人はその世界を捨ててしまった。どうしてそんなことをしようと思ったのかはわからない。何しろそこは、完全な世界なのだ。そこを出る理由なんて、どこにあっただろう――?
完全な世界を捨てて、人はいつしかこの不完全な世界に住むようになった。
人は言葉を覚えた。そしていつかの夢を、見ていたことさえ忘れてしまうみたいに、完全な世界のことを忘れてしまった。
完全な喜びも――
完全な幸せも――
完全な真実も――
人は、忘れてしまった。
言葉を手にしたことで、人はたくさんのものを失った。そして同じくらい、たくさんの余計なものを身につけた。
人は嘘をつくことを覚え――
人は傷つけることを覚え――
人は不幸になることを覚えた――
そうやって人は、たくさんのものを失った。
――魔法も、その一つだ。
→「一つめの事件」