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そこはなにもない空間だった。闇ならばまだ我慢できただろう。遥は、はじめて虚無という言葉を実感した。
遥が気が変にならずに済んでいるのは、目の前に存在する巨大生物のおかげだった。その存在のせいで気が変にならないとすればの話だが。
ティラノよりもおそらく大きいだろうその全長に、白銀に鈍く光るウロコ。そのウロコの合間から柔らかそうな銀の毛が全身を覆っている。優美さを醸す、長い首の上にドラゴンらしい厳つい頭が乗り、銀色の瞳は瞳孔が縦に開いて鋭さがいやでも強調されている。背にはコウモリのような膜の翼がある。いわゆる所のドラゴンだ。遥はドラゴンの入れ墨を彫っていたドイツ人の傭兵仲間の話をふいに思い出す。
(確か翼があるのがリンドブルムで、ないのがリンドドレイクだったか。ってのんきに考えてる場合じゃない!現状を打破しなければ。 しかし、ドラゴン相手にどう話せばいい?声を限りに呼び掛けたはいいが、 このあとどうすりゃいいんだ?)
ドラゴンと見合ったまま時間だけが過ぎていく。
(やっぱり、人間食ったりするのか?)
「………」
「………」
おもむろにその巨大生物は口を開いた。大きな口に並ぶ鋭い牙を見て、思わず遥は一歩後退する。
「…どうしよう」
心底困っているような声音でドラゴンが呟やく。しかし、はっきりいって被害者は遥の方なのだ。
「いやいやどうしようじゃなくだな、元の場所に戻してもらえればいいんだが」
「そうなんですけど…。」
ドラゴンは情けない声をあげて尻尾の先で『の』の字を書いている。
(ドラゴンの知能が高いってのはありゃ、おとぎ話だけか?)
遥はいやなことに思い当たった。
(あたしが叫ぶまで気付かなかったのだから、こいつにしてみればどこで引っ掛けたかなど覚えていない…んだろうな。ハア。)
「どこに戻せばいいかわからんのだな?」
「えへ」
何やら照れたように笑う巨大生物が遥には小憎らしく思えてきた。
(あの首絞める腕があったら遠慮なく締めてやるんだがな。)
遥の鋭い視線にドラゴンは二歩ほど後ずさった。
「わかった。とにかく来た道戻れ。自分の世界が見えたらおろせっていうから」
「あ!そうですね。背中にのって下さい。ゆっくり飛ぶけど落ちないようにして下さいね」
そういってドラゴンは背中を向ける。その小山のような背を見て、遥は内心で秘かにため息を吐く。
「自己紹介まだでしたね♪ぼく、リンドブルム族の中の風龍でディーンといいます」
馬鹿ていねいにドラゴンは自己紹介を始めた。
(ああ、やっぱりリンドブルムでいいわけだ。ん?名称の共通認識ってことは、ドイツにドラゴンがいたってことになりゃしないか?は?どう言うこと?いやいい。あたしゃ学者じゃないんだ。あるがままを受け止めろ!どうせこれはほんのちょっとしたアクシデントだ。一生付き合うわけじゃない。)
「ヨウと呼んでくれ。登るぞ」
遥はいつもの習慣で傭兵名だけを簡潔に答え、ディーンの背中をよじ登る。
「ここを掴むが大丈夫か?」
首と頭の付け根あたりに跨って落ち着いた遥は、そこの毛を落ちないように掴み、股を締める。
「では、行きますね!」
そう声をかけ、ディーンが転移の魔法を展開する。
遥は移り変わる周りの世界を見ながら、ディーンの質問に答える。デイーンの背から見たことのない生物やら、風景が過ぎていく。
「ヨウさんは戦士なの?」
「血の匂いがするか?」
「はい少し」
「戦闘が終わったばっかりだったんだよ。戦士っちゃぁ戦士だが、傭兵だな」
「そうなんですか」
「ああ。ところで質問なんだが。」
「はい?」
「いろんな世界、いや違うな…。次元があるっていうのが正しいのか?」
「ええ、そうですよ。界はさっき居たような、なにもない空間でつながってます。龍だけが界を渡ることができるんです」
「そうか」
「どうですか?」
「いや、まだだ。もう6、7ぐらい先だった」
「すごいですねぇ、ちゃんと覚えてるなんて。普通だったらきっと恐くてそれ所じゃなかったでしょうに」
「最初はさすがにな。けどお前さんが移動してるのがわかったから、移動ルートだけは覚えたんだ。これも日頃の訓練のおかげだな」
「へええ。じゃあ、ちょっとスピードあげてもどりますね」
「ああ」
だがそのあと、どんなにもどってみても元の世界は見つからなかった。
先ほどと同じなにもない空間。三往復したが遥の住んでいた世界は全く見当たらなかった。 お互いに落ち度がないことを確認した。
振り出しにもどってしまった。
「…」
「…」
ディーンは泣きそうな顔になっている。 遥はそれを無視して冷静に状況の分析を始めていた。
(三往復の間でわかったのはドラゴンが空間のみならず時間をも超越していることだ。)
ドラゴンが往復のあいだ通過していった世界は場所も時間も全くかわっていなかったのだ。
(おそらく空間の座標軸と、時間の座標軸が在ってそのポイントに移動しているのが界渡りなのだろう。問題なのは、あたしの居た世界のポイントだけが無くなっちまってることだな。)
つまり、空間の座標軸がわかったとして、時間の座標軸が定まらなければ元居た場所の元居た時間に確実に戻れないのだ。遅ければ遥は間違いなく脱走兵になるわけで、早ければドッペルゲンガーになってしまうのだ。
いや、もっと過去に飛ぶことも未来に跳ぶことも在るだろう。まさに引っ掛けられたあの瞬間にもどらなければならないのだ。
(あまりの確率に頭痛がしてきやがった。なんてこった!)
遥はため息を呑み込んでディーンに話し掛ける。
「おそらく何度往復しても見つからないと思うぞ?お前さんに原因がわからないのなら私にもさっぱりだからな。わかりそうな者に聞いた方が良いんじゃないか?」
「…そうですね。一度龍の巣にもどります。」
そうして遥はまたディーンの背に乗り、龍の巣へと向かった。




