この胸の
早駆けにとって郵便屋は、スリに比べるべくもないほど簡単な勤めであった。
副長に渡された封筒を事務所の担当者に持って行く。封筒は用箋を入れる小さなものから、書類を入れる厚く大きな玉紐つきのものまで、日によって形状も重さも異なっていた。事務所で担当の者からまた別の封筒を受け取って持ち帰る。これを日に三往復。
ときに深夜に臨時で使いに出される日もある。簡単な勤めの中でこの深夜便は身にしみた。季節は春に近づいていたが、朝晩はまだまだ冷気が肌を突き刺す。目覚めきっていない体を引きずるようにして走るのはこたえる。根城に戻ってくるころには身体が冷えきっており、なかなか寝付けない。それでも寒風に吹きさらされていた浮浪児だったころに比べれば、寝床がある愚連隊の環境はいくらも恵まれているといえよう。
仕事をこなすうち、早駆けは自分の他にも何人かの隊員が、普段とは別の仕事についているのに気づいた。みんな隊長か副長の意を受けて動いているようだ。以前に口にしていた上からの〝仕事〟に関係があるのだろうとの推測はつく。それとなくフセに聞いてみたが、答えてくれるような副長でもなく、この件はなにもわからずじまいに終わった。
早駆けは変わらず花売りと逢瀬を重ねていた。それがもうほとんど唯一の楽しみだった。
「――そんときにぶちまけてやったのさ」
「早駆け、ちょっと明るくなったね」
「そうか?」
話す内容は依然と他愛もない。しかし花売りが気づくほどに、口調は以前より朗らかになっていた。
「前はすぐに喧嘩でもはじめそうなところがあったけど、いまはずっと落ち着いてるみたい。最近は来る時間もだいたい決まってるし、身近でなにか変わったんだね」
「まあ、思い当たるところはあるかな」
過不足なく仕事を果たせているという成果が、暗澹とした逼迫から早駆けを解き放っていた。もっともそれはスリの失敗続きという前段があってのものだ。そこに触れたくなくて、彼は矛先を相手に向ける。どうやって話題を移そかと困っていた少し前の彼からすれば、ずいぶんな変わりようである。心的に余裕が生じたのと、彼女への慣れと気安さがそうさせていた。
「あんたは変わりないな」
「わたしはなにも変わっていないからね」
ふっと鼻で笑う少女を見て、彼は勢いに身を任せて洗いざらい口にしたくなる。自分の境遇を包み隠さず聞いてほしくなる。
数日を経ても胸の内に興った勢いは翳りをみせなかった。
勤めを終えた早駆けはいそいそと花売りのもとへ向かう。次の配達時間までに戻ってくれば、どこでなにをして過ごそうが自由だった。しかし連日出かける下っ端を良く思わぬ隊員も少なからずいる。
「よう、今日もお出かけか」
「……誰にも止められてないのにいけねぇのか」
「行くななんて言っちゃいねぇ。ただ、俺たちゃ遊ぶ金がなくていらいらしてんだ。そのくせてめえは毎日どっかほっつき遊びに行ってやがる。そんなやつを見てるとむかつくだろ?」
「遊びに行ってるわけじゃねぇよ」
待機を命じられた隊員は、勤めで稼ぎを得られないのに仲間内での賭け事や、遊びに出るなどして金を費消して鬱憤をたぎらせていた。それはむろん思慮の足らぬ浪費癖のせいであるが、無法な愚連隊になじみきった彼らには道理など関係ない。いらいらをぶつけられる相手がいればそれでよいのだ。
「ここんところ副長にひいきにされて稼いでんだろ?」
彼らとしては、失敗続きの少年が重要そうな仕事を任されているのも気に入らなかった。こんな相手には何を言い返しても無駄だと、早駆けは押し黙る。
「だんまりたぁ、あんまりふざけてやがるとこうだぞ」
肩の付け根に数発。あまり痛くはなかったが、早駆けは追撃を避けるため早めに腰をかがめた。男たちはそれを見て満足したらしく、どこかに行ってしまった。
早駆けはすぐに根城を飛びだした。彼女に会えばちょっとした痛みも、やるせない怒りもすぐに消えてしまう。
「おーい……」
いつもの路地裏で呼びかけても返事がない。木箱の上には枯れた花が数輪。早駆けが贈ったものではなく、蹴散らされた後に仕入れた花であるが、枯れてもそのまま商品として置かれている。枯れたからといって新しい花を仕入れるわけではないようだ。
「花売りが枯れた花売ってていいのか?」
以前にそう聞いたら彼女は、「見本だから」と返すだけだった。「私はまだ枯れてないから」とも。質問にはっきり答えないときの彼女には、なにを聞いてもあしらわれてしまう。彼女にも話したくない事情があるのはわかっていたが、なんとなく遠ざけられているようで面白くない。それがますます彼女への興味をかきたたせた。
「……おーい」
一再ならず呼びかけても応えがない。以前にも数回はこうした日があったが、最近では珍しい。
――次の配達の時間まで待つか
早駆けが腰を落ち着けようとすると、どこからかひそひそ声が聞こえてきた。
「もうすこしだけ」「だめです」「いいだろハナコ」
そう遠くない場所で交わされているのだろう。建物の谷間を抜ける風の具合で運ばれてくるらしかった。早駆けがじっとしている間にも、「いい」だの、「だめ」だの、押したり押し返したり。
花売りを待つ手持ち無沙汰に、早駆けはふと冒険心を起こした。指先を舐めて風の上流を探る。活気の絶えた日の射さぬ通りを行く間もなく、早駆けは狭い道が分岐しているのを発見する。いつも二人が会っている獣道のような細い路地の途中で、さらに別の路地がわかれていたのだ。ひそひそ声はすでに止んでいる。
いやな予感がした。鼓動がせわしない。彼はいつかもこんないやな予感を覚えたことがあった。思い切って一歩を踏みだす。新たな路地に入って目に飛びこんだもの。
花売りに見知らぬ男が顔を近寄せて――口づけを交わしていた。
期せず彼は、「あ」と声をあげてしまう。
漏れた声を聞いて、男は女を突き飛ばすようにして引き離した。
男の背は少女よりずっと高く、背広を着ている。どこかの勤め人だろう。もっとも早駆けはそこまで分析する余裕を損なっていた。身を震わせて首を横に振っているばかりだ。
少年の目の前がふいに真っ暗になる。彼の視界を覆うように黒い男が立っている。ただ黒いだけの、影のような男が。影は少年の喉輪に手を伸ばす……。
「く、来るな」絞りだすようなしわがれ声。
小さな身をさいなむ震えの原因は寒気か怖気か。呼吸と動悸は激しくなるばかりで、息苦しさのあまりその場にうずくまってしまう。それでも顔だけは、無理やりそちらに向けさせられたように少女に向いていた。
「なんだあれは、驚かせやがって」
不躾に言う勤め人は、見知らぬ少年に怪訝な顔つきを向けている。路地に入ってきたかと思えば、唐突にうずくまってしまったのだ。男からすればわけがわからないのも道理。声音には楽しみを妨害されたという苛立ちが色濃く滲んでいる。
「またお願いしますね」
少女がさっと愛嬌のある媚笑を浮かべた。頬が鞠のように丸まり、熱を孕んだ視線が男のそれと絡みあう。
――そんな顔するなよ!
花売りが自分以外に笑顔を向けている。その事実が早駆けの胸を締め付ける。同時にその表情を第三者として観察する機会をはからずも得た。途端に彼がいだいていた、愛嬌のある彼女の笑顔の印象がぐるりと変転する。
少女が浮かべている媚笑は、愚連隊の隊員が副長や日ノ出に向けておべっかやへつらいを向ける際に浮かべるのと同じ、醜怪きわまる表情と大差ないではないか。
矛先を逸らそうと駆使するおべっか。鉄拳を避けようと述べ立てるへつらい。そのとき顔面に浮かべる目尻の垂れ具合、頬の厭味ったらしい張り、口唇のみっともない丸み。醜悪な筋肉のひきつけ。これらは即座に無条件で自身の立場を下げてしまう表情だ。
――俺はあんなものを向けられて喜んでいたのか!
胸の締め付けが鋭い痛みに変わる。一方で胸の中のもやもやが膨れていく。早駆けは身じろぎもできず、息をするのも忘れていた。が、やがて少女の輪郭がぼんやりと滲みはじめる。頬を涙が伝う。熱い滴が身体から熱を奪うのか、震えがいっそう強まる。
男が舌打ちして歩きだす。途上にうずくまったままの少年を、「邪魔だ!」と足蹴にして通りを出ていった。
すぐに少女が駆けつけてきて早駆けの前にしゃがむ。もう笑顔は浮かんでいない。悲しそうに彼を凝視している。手がそっと重ねられる。手のひらに触れる肌は温かで、早駆けは思わず手を引っこめてしまった。
「見られちゃったね」
少女が小さな声で言う。
「なんだよ、あれ」
「場所を変えよう。ここには居たくない……」
少女は再び少年の手を取った。早駆けは手のひらに、かさり、と彼女の肌以外のものが触れるのを感じた。枯れた花がつながれた手の中で揺れている。それが二人を隔てている気がして、少年はすぐに手を振り払ってしまった。
少女が先に立って路地を行く。移動している間、二人は一度も口を開かなかったので、早駆けは自分が彼女を尾行しているような気になった。
やがて少女があるぼろ屋の前で立ち止まった。わたしの家、と短く告げて中に入る。
廃材を組んで作った陋屋には扉さえない。暖簾のように垂らした目隠しのぼろ布が代わりに揺れている。ふくれっ面でぼろ布をくぐった早駆けを、「ようこそ」と部屋の真ん中でそそくさと女座りになった花売りが迎えた。
入ってすぐが居間だった。茣蓙を敷いただけの床の下はすぐに地面で、座り心地がいいわけもない。
部屋の隅には水がめや壺の他に、荒っぽく開けられた缶詰なんかが捨てられていて、臭気がただよっている。別の隅にはぼろぼろの藤籠が重ねて置かれていて、中からぼろ着がはみ出して入れられていた。個別の部屋がないので隅を用途別に使い分けているのだろう。奥にもう一間あるらしいが、ぼろ布が垂らしてあって中はうかがえない。
「あんまりじろじろ見られると恥ずかしいかな」
少女が自分の前の茣蓙をぽんぽんと叩いて座れと促す。少年は居心地の悪さを覚えながらも、彼女の前に腰を下ろして胡坐をかく。
二人はしばらく無言で相対していた。布一枚隔てた外の路地裏を、砂を踏む音をたててまれに人が通っていく。そのたびに少女は通りに目を向けて、またすぐに戻す。
「あれは、花を買った人への商品だから」
外を何十人もが通った後――早駆けにはずいぶんと長い時間のように感じられた――彼女が言った。
「商品って、花が商品じゃないのかよ」
「花は見本だよ」
「それ、前も言ってたな」
「本当の商品は『あっち』なの」
「あっちだって?」歯にものが挟まったような言い方が早駆けの癪にさわった。
「あんなふうに顔を寄せるのが商品なのか? 見られちゃったっていうのはなんだ、見せたくなかったってことかよ」
「そうだよ」
「う……」
「早駆けには見られたくなかった。わたしが何をしているかなんて」言葉を詰まらせた早駆けに、少女が畳みかけるように言葉を重ねていく。「早駆けには――」
また少しの沈黙のあとで、早駆けが絞りだす。
「俺だって……」
二人とも、どちらから、なにに触れていいのかわからない。
――こんなときなんて言やいいんだ
なにかを話さなければ。そうは思っても糸口がつかめない。黙考しているようでいて、その実ただただ混乱しているばかりであった。その深さがおどろおどろしい沈黙となって、二人の周囲を紛々と取り巻く。