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休止

「しけた面を見せるなってんだよ。酒が不味くなる」

 日ノ出が早駆けの肩をぐいと強く押す。

 周囲では他の隊員たちが好奇をもって成行きを眺めている。とても事態を見守っているとは言いがたい。もっと派手な喧嘩に発展してくれないかという期待を向けている者ばかりだ。他人同士の切った張ったは、火遊びが好きな隊員にとっては楽しい見世物である。

「そんな顔をしてえのはてめぇ以外の連中だぜ」

 この二週間というもの、早駆けはほとんど財布を抜けていなかった。彼はもともと失敗のほうが多い。少女と会った日の成功が入隊以来で最大の成果といえるぐらいだ。

 早駆けの名を持つ少年だけに、失敗してもすばっしこく逃げおおせて、捕縛の憂き目にあった試しはない。しかし何度も失敗を繰り返していれば、駅員や警官なんかに顔を覚えられてしまう危険性がある。仕事をする場所を転々としなければならなかった。

 また失敗の積み重ねは、隊内での早駆けへの風当たりを強くしていた。

 戎ではスリの成果はその時に組んでいた者同士で分配する。この取り決め上、成功した者が失敗した者を補てんする形になっている。失敗した者の不利益を成功者も被る仕組みに不満を持つ者もいるが、今回は目をつぶってもらったから次に誰かが失敗しても目をつぶろう、という具合に持ちつ持たれつで、ほとんどの隊員はこれを容認していた。スリの専門集団ではないので、少しの失敗ぐらい許容しあわないと立ち行かなくなってしまう。

 もっとも、これはときどき誰かが失敗する場合にのみ有効な手立てといえる。失敗ばかりする者がいた場合、取り決めの穴が浮き彫りになる。

 早駆けの著しい失敗数は、隊員たちの持ちつ持たれつの許容の限界を超えた。彼と組まされる隊員からすれば、自分の取り分がほぼ確実に減ることを意味していたからだ。

「お前と組まされる底抜けが可哀そうだな」

 結果がわかっている相手と組みたい者はいない。早駆けと組むようにとの副長の指示を明確に拒絶する隊員が増えていた。ときどきは組む者もいたが、それは優しさからではない。失敗を口実にして早駆けを責めさいなみたい性悪さから出た動きだ。

 失敗続きの早駆けを敬遠する隊内の空気は次第に、彼ならば無条件に見下してもよいのだという雰囲気を醸造していった。これには早駆けの内向的で物静かな性格が大いに関係していただろう。ぶつかっても反論しない相手というのは、ぶつかる先を求めている連中にとっては格好の獲物だ。

 一方で似たような成績の底抜けは侮蔑を免れていた。お調子者の底抜けは、持ち前の軽さと太鼓持ちの気質から対象とはなりにくい。それどころか彼までもが早駆けを見下しはじめているありさまである。庇うと自分も巻きこまれるから、などと考えての保身ではない。みんなやってるから自分もやる、ぐらいの動機である。

 もはや早駆けは、たまに成功しても当然だという目でしか見られないし、失敗すれば、「お前のせいで取り分が減ったじゃねえか」などと平然と怒鳴られる存在となっていた。

「しっかし副長も甘ぇよな、読み書きができるって程度でてめえを追い出しやしねぇんだからよ」

 早駆けを見下している筆頭、というよりその空気を作り出した急先鋒がこの日の出だ。素うどんと並ぶ古株である。平板な造作の顔から唯一ぽっかり浮いた真っ赤な鼻がその名の由来という。早駆け以外の隊員にもちょっかいを出すので全体的に疎んじられている男だが、腕力を背景にした年長者の暴威には誰も面と向かって逆らえない。彼に痛い目に遭わせられた隊員が、腹いせに早駆けに厳しく当たるという負の循環の元凶にもなっていた。

「ああいや、甘いのはあの情婦(イロ)だけじゃないな。お前を拾ってきたのは隊長だもんな、追い出したら自分の目が曇ってたのを認めることになっちまう。それともてめぇは隊長の弱味(タマ)でも握ってんのか?」

 日ノ出が酒臭い息を吐きかける。酒に弱い早駆けは軽い吐き気を覚えた。日ノ出が飲んでいるのは、〈呑五郎(どんごろう)〉という銘を持つ安酒だ。酒精ばかり高く、酒に弱い人間なら杯一杯も飲みきれば十分な代物である。稼ぎが悪いときの日ノ出は、一日中これを飲んで他人にちょっかいを出して憂さを晴らしている。

「まただんまりか、つまんねえ野郎だな」

 ふいに正面から飛んだ握り拳が、早駆けの頬骨を強く突いていた。

 猛烈な力を受けた早駆けは痛みに襲われる。光が何度も激しく(またた)き、そのまま尻餅をついて倒れてしまう。強い痛みは即座に去った。が、尻にうけた固い床の衝撃がこみあげて嘔吐(えづ)きを覚え、「が、は……」と空気が漏れ出る。

「おいおい、やめとけよ」と言葉の上で止める隊員もいるが、語調には明らかな嘲りの色が含まれている。悔しくないのか早駆け、と煽る者さえいる。誰も積極に止めようとはしない。むしろ早駆けが反撃に出てくれないかと期待している者ばかりであろう。もっとも彼が反撃するか、という賭けがあったとしても成り立ちはしないだろうが。

 日ノ出が倒れた少年にさらに迫ろうと一歩を踏みだす。そのとき、

「止しな日ノ出」

 と二階からフセ副長が古株の素うどんと骨なしを伴って降りてきた。日ノ出はフセの方をちらりと見ただけで構わず、そのまま早駆けの前に立つ。

 ――殴られる

 飛んでくる痛みを想像し、早駆けは身を強張らせて目を閉じた。

「本当につまらんやつだ。こいつも見守ってるだけのお前らもな」

 周囲に吐き捨てるように言って、日ノ出は早駆けの脇を抱えて無理やり立ち上がらせた。他の隊員たちは副長の登場ですっかり大人しくなっている。早駆けを嘲ってはいても、立場が上の副長が出てきて制止すれば迷いなくそちらに従う。日ノ出にとってはそんな連中もつまらない。

「誰が早駆けに甘いんだい?」

「聞いてたならわかってんでしょ」

 隊長や副長にも噛みつく日ノ出は、隊員たちに避けられながらも一定の畏怖を集めていた。失敗続きの早駆けへの憤りと、彼に有利な分配の仕組みの穴を黙過している隊長や副長へのやるせなさを抱えながらも、それをとても口に出せぬ連中にとって、日ノ出の不遜な態度は溜飲を下げてくれるからだ。もっとも先のように、隊長や副長が出てくればすぐそちら側につくような連中ばかりである。

「隊長に文句があんなら本人に言いな」

「本人はいま誠道会(お上)んところ行ってるでしょう。ここのところまた頻繁にお呼ばれしてるみたいで。なにが起こってんだろうなあ」

 機を見るに聡い日ノ出が話を逸らす。酔ってはいても前後の判断ができる男である。険悪な空気を嗅ぎ取り、すんでのところで避けたのだ。喧嘩をする度胸がないとみるか、紙一重を見極めているとみるかは、彼をどう思っているか次第である。

「まさか副長だって、こいつを助けるために三人そろって降りて来たってことはないでしょう」

「相変わらず敏感に利く鼻だね」

「敏感だからこう赤くなってんで」

「事情がわかってんなら隊長が切り出すまで黙っときな。でないともっと鼻が赤くなるよ」

 酒ばかり飲んでいるから鼻が赤くなったとも、隊長と喧嘩をして殴られた鼻に赤みが残ったともいわれている。

「へいへい、こいつらに言うことがあんでしょ」

 日ノ出は首を振って手近な椅子にどっかと腰を下ろした。

「口の減らないやつだ。まあいい……」フセは隊員たちのほうに向いて、「とりあえずここにいる連中に言っておくことがある」

 とよく通る張りのある声で居間にいる連中に語りかける。

 何人かが早駆けのほうをちらりと見た。早駆けへの行為を止めた直後だったので、自分たちもたしなめられるのでは、と感じたのだ。日ノ出の言葉を聞いていればそれとは関係がないとわかるのだが、元よりそのような分別があれば些細な諍いが起こる試しはない。

「色んなやり方であんたらには稼いでもらってるけど、そっちはしばらく休んでいいことになった。いまの仕事はとりあえず休止だ、しなくていい」

 文字通りに休みと受け取った連中が、「おお」と歓声をあげる。

「遊んでいいってことですか副長」

 と愚直な隊員が手を上げて質問を口にする。

 実質的にはそうなるが、ほどほどにな。

 フセとしてはこう言いたかったが、それを口にすれば遊び呆けて羽目を外す者が続出するのが目に見えている。

「遊べとは言ってない。仕事だけをしないんだ。他はいつも通りでいい。次の〝仕事〟は隊長から指示がある。そのときまで派手なことすんなよ」

 彼女は隊員にあわせて待機をこう言いかえた。待機という言葉を口にして、その意味を説明するよりかはわかりやすいだろう。凡愚な隊員たちも大意を呑みこんで方々でうなずく。もとより多少の齟齬は織り込みずみである。細かい調整は隊長と副長の意を汲んだ古株から、意味がわかる程度の知能を持った隊員を介して、現場で抑制する手筈となっている。隊長が持ってくる〝仕事〟までに、隊員が減るようなどじを踏まなければそれでよかった。待機命令はそのための手段にすぎない。

「以上だ。それと早駆け、お前はちょっと上に来な」

 彼は黙ったまま副長の背を追った。

「手短に言う」副長室に入るなり、フセが直入に切りだした。「次の仕事までの間お前には運びをやってもらう」

 下っ端にとって上役の命令は絶対に近い。早駆けはこくんと首を縦に振る。

「だけど頭は使わなくていい。必要な内容は紙に書いてやり取りするからな」

「郵便屋みたいなもんですか」

「みたいじゃなくて、郵便屋だな。誠道会の事務所とうちを行ったり来たりしてもらう。もちろん中身は見るなよ」

「上の事務所ですか」

 誠道会は戎を傘下に収める非合法組織だ。隊内ではお上や上と呼ばれている。

 早駆けはこれまで上とまったく関わりを持ったことがなかった。当然その事務所の場所も知りはしない。他の隊員も似たようなものであろう。誠道会と明確なつながりを持っているのは隊長と副長、一部の古株ぐらいだ。

「これが事務所とその周辺の地図だ。一回行って、あとは体でつかめ」

 フセが書き付けを取りだして早駆けに示す。根城(ここ)からの道筋が書いてあった。

 事務所は大通りをかなり南下してから、一本通りを入った箇所にあるようだ。その一帯ならば、早駆けは地図にない路地裏まで含めて体で覚えている。花売りがいつもいる路地からもそう遠くなかった。これならば一度で行ける。早駆けは深くうなずいた。

「実際に運ぶ前に最低でも一回は現地に行っとけよ。走りが速いお前に頼む意味がわかるか? 郵便は速さが大事なんだ。くれぐれも道を間違えるなよ」

 早駆けがもう一度うなずく。フセは地図を元に戻してにやりと笑った。

「他の連中には動くなと言っておいて、お前に動けと頼むのは不公平に思えるか」

「別にそうは思いません」

 どんなことでも頼まれたらやるしかない。それ以外に彼が生きていく道はないのだった。戎以外の場所で生きていける道筋など、とうに没してしまったのだから。他で生きていける道筋がとうになくなったから、戎でしか生きていけなくなったともいえる。

「俺は失敗ばっかしてますから、他の仕事で挽回しないといけませんし。それに大事なのは俺じゃなくて、他からどう見えるかで……」

「そこまでわかってんのか」フセが鼻で笑う。「お前はここいらで穴埋めしとかないとな。隊内がぎすぎすしてっと、次の〝仕事〟に障りが出る」

 早駆けがなんの埋め合わせもなく同じように活動を休止していては、楽をして同じ待遇を得ているように映ってしまう。早駆けは理屈と自身への扱いを肌身でそれを痛感していたし、副長は組織の管理体制の上でそれをよく心得ていた。早駆け自身が不公平と感じるかどうかではなく、他の隊員が早駆けの扱いを不公平と感じるかどうかが重要なのだ。

「しかしそんな頭つけて考えすぎるってのも考えもんだね。いいように嘲笑(わら)われて黙ってる。お前が腹ん中に何しまってるか知りゃしないけど、悔しかないのか?」

「それは――」

 年長の隊員たちは早駆けがなにも反発しないから強気にぶつかっている。そんな彼らに反発すればどうなるだろうか。生意気だ、とか、思い上がりやがって、とか言われて余計に痛い目に遭うのでは……。捕まったスリのように、取り囲まれて袋叩きに合うかもしれない。そうまで暴力を受けてしまえば、戎で立つ瀬すら削られてしまう。

 寄って立つ瀬がなくなること。早駆けはそれが恐ろしい。戎に拾われる前の浮浪生活には二度と舞い戻りたくなかった。たとえ惨めでも蔑まれていても、戎の末席に座っていられる道を選ぶのは、早駆けにとっては自然な選択だった。一発二発の拳固(げんこ)は我慢して、受け流すようにして耐えているほうがましというものだ。つまらんやつだと飽きられるのを待つほうが傷は少ない。

 早駆けが必死に考えた生きる方法だった。

「連中が舐めないような男になればいいんだよ」

 とのフセの言い分はそれを真っ向から否定する。さっぱりした性格の彼女は、相手にも似たような性向を求めがちだが、最初からそんな方法がとれるのならば、早駆けはそもそも内向的になっていない。

 フセには早駆けがうじうじした男に見えてしまう。

 ところで大半の隊員たちも単純さという気質において、結果的にフセと似たような性向を有している。もちろん両者の本質はまったく異なる。フセは思慮した上で物事を割りきっている。隊員たちは目の前の出来事に当たってから白黒をつけたがる。どこに刃を入れるか考えてから竹を割るか、とりあえず割ってみるかの違いだ。もちろんフセはそれを把握しているが、扱いやすさの点から差異には目をつむっている。いざとなれば副長の権限でこちら側に付き従わせられるからだ。

「あの、次の〝仕事〟っていうのは……」

「その時がきたら隊長が説明する。難しいもんじゃないよ」

 責められるのが息苦しくなった早駆けは話題を変えようしたが、フセは明言を避けた。彼女は別に早駆けを甘やかしてはいない。

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