贈り物
「底抜けって人、失敗してずいぶん怒られたんだ。がんばったのに」
「あれはそんなんで落ちこむタマじゃねえよ」
荒っぽく答えてしまう早駆けは、胸中で底抜けに恨めしさをぶつける。失敗して怒られたのは自分だと嘘をつけばよかったかもしれない。そうすれば彼女が気の毒がって気にかけてくれたのに。
「あいつは底が抜けてっから底抜けなんて名前がついてんだ。底の抜けた桶は水をためられないだろ? あれも同じだ。昨日の今日で副長の言葉なんてとっくに流れ出ちまって、水ぶっかけられた蛙みてぇにけろりぴょんとしてるよ」
「前向きだって見方もできるんじゃない?」
「なもんか、あいつは前を見てねぇよ。稼いだ金だって底が抜けた財布に突っ込んだみたいになるに決まってらぁ。いまじゃもうすかんぴんに違いないぜ」
話題を底抜けではなく、自分と彼女に持っていかなければ。早駆けは彼女が興味を失うように適当に底抜けを貶しながら、なにかいい話頭はないかと知恵をしぼる。
「えー、だからあれだ、あいつは稼ぎを無駄に使って、前を見てねぇんだよ……」
「ふぅん、早駆けは前向き?」
「俺は……、どうだろうな」
少なくとも、前は見ていない。後ろに引きずられないように生きているだけだ。戎に入る前に見ていた未来は、昏い影に覆われ消滅してしまった。その影によって変えられた、今から続く未来を見るのが恐い。
だけど昔ばかりを思って生きているのでもない。影に怯えないよう、囚われないよう、彼は現在をしか駆けていなかった。
スリに成功する。嬉しい。
失敗する。痛い。悲しい。
食べる。寝る。起きる。
目の前のことだけを考えている間は、過去も未来も目に入らない。しかしそんな態度をとうてい前向きとはいえまい。どの口が底抜けをこけにできよう。
早駆けはゆっくりと首を横に振る。少女は、「そうだね」とうなずいて、
「前を見ても、真っ暗。自分がここに立っているのかどうかもわからない。ううん、本当に立っているのかどうかもわからない。もしかしたら押しこめられて這っているのかもしれない」
まるで早駆けを見透かしているかのように、
「今をしか生きられないし、生きていけない。こんな帝都では」
と芝居がかった仕草で両手を広げ、首をぐるりとめぐらして路地を見回す。
二人は昨日よりもさらに人通りの少ない路地に陣取って座っている。端に尻をつけてひざを伸ばせば、少年少女の彼らでも向こうの端に足が届くほど狭い都会の獣道だ。あちこちの建物から吐き出される煤煙と蒸気が生む曇り空が、二人の頭上に細長くはびこっている。
高層の建築物を縫い付ける広壮な大通りに蒸気が漂う――そんな表通りの光景など遠い異世界だ。きらめきが繚乱する帝都を闊歩できるのは、文化的な生活を送っている者だけ。早駆けと花売りにはなんのゆかりもない。
――俺とこいつにとっては路地裏こそ帝都だ
太ったネズミと痩せた野良猫。うなる野良犬と無言の浮浪者。愚連隊のちんけな隊員と路地裏の花売り。日陰者が通るこんな場所こそ、彼らにとっての帝都に他ならない。彼らはいつも路地裏を伝って街の裏面を行き来している。大きな通りを行かざるを得ないときには、周囲に見とがめられないかとびくついてしまう。
「早駆けは無駄遣いしてない?」
また少女から問いかけ。少年は少しきょとんとしてから、
「え? してないしてない」
――くそ、何やってんだ俺は……
こんなに簡単に話を変えられるものなのか。先んじて話を移された早駆けは、我ながら情けなくなってしまう。重々しく考えすぎなのだろうか。
彼は深呼吸してから箱の上に置かれているものを見た。
「それのこと言ってんなら、無駄遣いじゃなかったと思ってるよ」
少年の視線を受けた少女は、木箱の上に置かれていたものを手に取って、そっと顔に近づける。早駆けが彼女のために買ってきた花を。
*
早駆けが胸躍らせながら昨日の場所へ会いに行くと、少女はぼんやりと空を見ていた。
商品を載せる木箱の上には雑草が置かれている。おそらく固有の名があるのだろうが、早駆けにとっては雑草でしかない。そもそも彼は花だって、大雑把に花としか認識していない。帝都の中だけで過ごしている身には自然など馴染みが薄い。
もっともそのせいで彼はここへ来る前に苦労をしてきた。
「よう」
「来てくれたんだね、早駆け」
花売りは愛嬌のある笑顔を浮かべた。すきっ歯にねじこんだ舌がどこか艶めかしい。早駆けは彼女の笑顔に立ち会えただけで、足を運んでよかったともう満足していた。しかしそこで終わってはあとに寂しさだけが残る。
「今日は草売りか?」
「すぐに花が手に入らないからそれの代わり」
「なら、ちょうどよかったかもしれない」
彼女の前に進み出た早駆けは小さな花束を掲げ持つ。昨日の稼ぎを手に街で求めた黄色い花と赤い花――。
これまでなんのゆかりも持たなかった花屋に足を向けるのは、早駆けにとって財布を盗るよりも胆力を要した。花屋など女が行く場所だという意識がそれを助長する。さらにつけくわえるならば、貧民街育ちの少年は店で商品を買うのさえ初めてであった。
それでも足を運んだのは、少女に会う口実を必要としたためだ。話し相手でよいと当人は言ったが、最初から手ぶらで行くのは気が引ける。しかしたかが口実である。なぜ気力を奮い起こしてまで行動できているのか、早駆けは自身でもよくわかっていない。
「あの黄色いのと赤いのをそれぞれこの金額分、ください」と慣れぬ注文はおぼつかない。
注文を受けた店員は早駆けをじろじろ見つめた。あからさまに訝しんでいる様子だ。それもそうであろう、一円銀貨など汚い身なりの少年には似つかわしくない。ましてや花屋は生活に余力のある者が使う店だ。貧乏人との接点などない。汚い身なりの少年が花を求めるのも奇妙である。奇妙を超えて動くにはなにか道理がなければならぬ。
さて、その道理の物差しは花泥棒か。おとり役が気を引こうとしているのかもしれない。店員はあたりを見回す。店内から様子をうかがっていた他の店員も出てくる。
早駆けは向こうのそんな事情を知らない。もっとも無一文の少年少女が店先ですげない態度をとられる光景は珍しくない。しかしいまは二円余りも持っている。そうだ、俺がどうしてあしらわれるってんだ。少年はこう考えていた。身なりの問題と信用の問題がつながっているという観点が彼にはない。
「黄色いのと赤いの、これだけあれば足りんだろ?」
早駆けはむっとして円銀を店員に突き出す。
「どっかから盗ってきた金じゃないだろうな?」
「違う、仕事で手に入れたんだよ!」
物は言いようである。警戒した店員が三人がかりで対応して、彼はなんとか花を手に入れた。
「――と、いろいろあったがそれを買ってきたわけさ」
なんという名前だったか。店員が花の名を口にしていたのだが、ここへの途上で早駆けはそれをすっかり忘れてしまっていた。いまやおぼろげにしか覚えていない。
「フクジュソウとサンザカ」
少女がつぶやいて少年はポンと手を打つ。
「そうだそうだ、確かそんな名前だった、うん、たぶんそれに違いない。雑草とか道路の木はよく見るけど、花なんてぜんぜん見ないからなにも知らないんだよ」
「一番近いところだと森林公園に行けば咲いているかな」
花売りの言葉に早駆けは目を丸くする。
「ただで咲いてるものだったのか! じゃあなんだ、俺ぁただでとれる花を買ったってのか? しかも一円も払って片手で持てる程度の束にしかならないなんて、ぼったくりもいいところじゃないか」
と早駆けは肩を落とした。
「もっと珍しいのにすればよかったか?」
「違うよ、早駆け。わたしの言い方が悪かったね」少女は首を横に振る。
「この花、いまさっき咲いたみたいに色も花びらも瑞々しいでしょ? 店先の花をこんなふうに保つのはとても難しい。それにわたしたちが公園で摘んだ花をここまで持ってこようとしても、絶対に途中でしおれてしまう。大通りの煤煙は花にとっても辛いものだから」
煤煙が冒す大都市では異国遠来の花はもとより、萎びていない鮮やかな花々も高値で売買される。そのため花屋は店先に安い商品しか置いていないが、それでも商品をかっぱらって闇でさばく花盗人がちょくちょく出現する。店員がやけに警戒していたのもそういう理由がある。
市街の中心で見かける植物といえば、早駆けが言ったように街路樹の驕ったような柏か、軒先の無愛想な鉢植えぐらいだろう。煤煙を浴びていつも萎びているその姿は、都市化の過程で排除された自然の残映のようなものだ。
「それに」と花売りは満面の笑顔を向ける。「どんな花でも嬉しい。早駆けがわざわざ買って来てくれたのだから。ありがとう」
昨日に彼女が浮かべてみせた、人懐っこさを感じさせる愛嬌がある笑顔ではなかった。
愛嬌にはどこか不特定の人々に向けて機嫌をうかがい立てる、媚びのようなものが隠見されるのだが、いま早駆けに見せている表情には、そうした片影がどこにも見受けられない。唇をにっと曲げて丸まった頬と目尻には、真率さと真情が輻輳している。その中心には深甚な慈しみがあった。
何人たりともの影響が認められない笑みは、自然に生まれ咲いた瑞々しさのような可憐さに満ちていた。
あばらが浮き出る早駆けの胸のうちに熱が生じる。彼女に迫られたときの焦らされる感覚とは違う情感だった。昨日の熱は解消してほしいと思わせるものだった。いま彼の胸の内にある熱は穏やかで温かく、背中を押して力強さを与えてくれる。ずっとこのままでいたいと思わせてくれる。
「早駆け……?」
そう呼ばれて、少年は呆けたように彼女を見つめていた自分に気づいた。慌てて顔を逸らして、熱くなっていた頬をぱんぱんと叩く。
「ま、花のことは詳しくないけどよ、昨日は俺のせいで商品を台無しにしちまったからな。だから代わりに大事な商品を仕入れて来てやったんだよ」
照れ隠しにぶっきらぼうな口をきくと、
「そうなんだ」
短くうなずいた少女の顔がわずかに曇る。
――う、いまの言い方はまずったか?
彼女の態度に慌てた早駆けは、
「と、ともかくだ、俺はあんたと別れたあとも大変だったんだぜ」
その場をしのぐため花売りから別れた後のことを、当たり障りのない範囲でいくらか脚色して話す。すべての事実――特に彼女に渡した五円の件で副長になじられ、嘘をついたこと――は口にしかねた。
※
「本当に無駄遣いじゃなかったと思ってる?」
「疑り深いな」
「代わりに商品を仕入れたなんて言うからさ、花代を無理に使わせちゃったんじゃないかなと思って」
「ええと、あれはほら、その、あれで……」
照れ隠しに恩着せがましい口をきいた早駆けだったが、花を選んだのはそれが主な理由でない。嘘ではないのだが、動機としてはほとんど無いに等しいぐらいに無視できる。
といって、彼が花を選んだのに深い理由があるのでもない。花売りをしているぐらいだから、花を持っていけば喜んでくれるんじゃないだろうか。それぐらいの軽い考え。おはじきなら遊べるだろうとか、櫛なら髪に使えるだろうとか、他に目途がついていたのなら別の品になっていただろう。
花でなければいけない理由も思い入れも早駆けにはなかった。
焦点は贈り物ではなく、それを受け取る彼女の反応にこそあるのだから。
喜んでくれるだろうか。
ありがた迷惑に思うだろうか。
受け取りを拒絶されるだろうか。
彼女の振る舞いについて、なんやかやと想像をめぐらしている間は胸が温かかった。一方でもどかしくもあった。それは彼女の笑顔を見たときに感じたものと同じ温かさであり、触れられたときに感じたものと同じ種類のもどかしさでもある。
この二つがなにに由来しているのか、彼はまだ知らない。
早駆けとしては花売りの反応――あの自然な笑顔――を見られたという一点だけで、胸を張って無駄遣いではないと言いきれるほどになっていた。
「ともかく、だ。無駄遣いだなんて思ってねぇから」
「ありがとう。早駆けが無理に買ったわけじゃないのなら、やっぱり嬉しいよ」
少女が早駆けにそっと顔を近づける。
「な、なんだよ……?」
昨日のように耳元でささやかれ、体に触れられるのだろうか。どぎまぎする早駆けの背筋をぴりぴりしたものが走り抜ける。心地よいそれは怖気ではない。
しかし少女は早駆けに触れようとはせず、二人の間に花を掲げた。
「早駆けがせっかく選んでくれたんだから、一緒に楽しも?」
と花に顔を寄せる。
――思わせぶりなことをしやがって
残念がる早駆けの心情を知ってか知らずか、彼女はすう、すう、と鼻息が聞こえるほどに香りを堪能している。
小さな花の香りは、煤煙と蒸気の息苦しさを少しは紛らわせてくれるだろうか。安らぎをもたらしてくれるだろうか。
一緒に、と求められたので早駆けも花に顔を寄せる。
やや甘い香りがした。
――花ってのは匂いと同じ味がするのかな
花に興味がなく、空腹を覚えている少年の感想なんてそんなものである。彼としては花の向こう側が気になって仕方がない。花に顔を近づけるふりをして、じっと花売りをうかがう。さきほどは笑顔に見惚れていたので、彼女の顔をじっくり見るのは初めてだった。
――あれ? こいつの顔……
呼吸のたびに膨らむ鼻腔と翳りのある頬に、強く打ったような大きな赤い打ち身が三つもあった。間近でよく見れば、鼻の穴には布の小切れが目立たぬよう差しこまれている。転んで鼻血でも出したのだろうか。
――いや、昨日は傷も布もなかったぞ
あんまりに早駆けが見つめていたので、相手もさすがに感づいてうつむく。
「大した傷じゃないから気にしないで」傷が花の陰に隠れる。
「気にするなって言われても……」
「うん、見苦しいよね」
花売りがにこりと笑う。媚びが漂う愛嬌のある笑顔だった。自然な笑顔を見た後ではどこか色あせて見えてしまう。なにより傷のせいで痛々しさがいっそう増したようだった。
「見苦しいとかじゃないよ。ただ――」
昨日はそんな傷なかったじゃないか、なにがあったんだ、とまでは口にできなかった。
「痛くはないんだな?」
出会って二日目。お互いを詮索しないという戎の暗黙の了解ではないが、事情を聴くのはまだまだ憚られる。遠慮がちに現状を確認するにとどめるしかなかった。
「いまはまだ、言えないよ」
と少女自身も含みのある言い方をした。
「いまは、って……?」
「もっと仲良くなったら、かな。それまで早駆けが会いに来てくれるのなら、だけど」
「会いに行くよ、話したくなるまで」
会いに来てほしい。早駆けは遠回しにそう言われているのに気づかなかったが、熱っぽく応じた。
花を下げた少女が再び自然な笑顔を宿す。愛嬌のある笑顔を厚い化粧をした見目好い女だとすれば、この笑顔には飾らない等身大の少女らしい可憐さがある。
少年は花売りの少女が身近な異性であると強く感じた。(紅一点のフセ副長は彼にとって怖い上役でしかない。)花売りは歩いていける距離にいる存在なのだ。会いに行って、同じ路地裏で隣に立つことができる。だからこそ、少年は少女の名前を知りたくなった。お前とかあんたと呼ぶのは、あんまりに距離がありすぎるようで。
「で、名前はなんていうんだ。わからないと呼びづらい」
「それはあとに取っておこうかな」
「人に教えたくない名前なのか?」
「違うよ。でも、早駆けだって本当の名前じゃないんでしょ?」
「それはそうだが……」
もちろん早駆けだってバカ正直に全て話しているわけではない。語るさなかに覚えるためらいの量に応じて、騙る偽りと含みも増えていく。
二人とも互いにまだ全てを打ち明けておらず、いくらでも含みがあるのはわかりきっていた。
「いまはまだ、お互いに知らないところが多いだけ」
知らないところが減っていけば、二人の距離はどうなるだろう。興味を損ない離れるのか、秘密が減った分だけ近づくのか。