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成否

 主人のすぐ側を目線の定まらぬ小汚い少年が通り過ぎていく。それに気づいた中年の女中はさりげなく横に動き、かかえた荷物を壁として主人から少年を遠ざける。

 この汚い子供は浮浪児か、乞食(こじき)か、はたまた精薄(せいはく)か。いやいや、彼女にとってはどれも同じようなものだ。

 少年は荷物に押されて少しよろめいたが、こちらを見向きもせずそのまま遠ざかっていく。危難は去った。女中はほっとして駅の屋根を見上げる。

 覆い屋根が歩廊にかぶさる南部市駅は熱がこもりやすい。そのため冬は暖を求める下層の輩が多く入りこんでくるのだ。南方からの玄関口にあたる南部市駅がこれでは見映えが悪い。治安と衛生の観点からもよくないだろう。

 当局はいったい何をやっているのか。近く駅近辺の再開発が完了するというが、ああいうのが駅に出入りできる状況が放置されているのでは片手落ちもいいところではないか。

 女中は円滑さを欠く四角四面な公共事業に憤りを覚えながら、遠ざかっていく少年をさっと見返す。

 彼女が主人の財布が盗まれたと気づくのは、もう少し後のこと。


 歩廊の中ほどまで進んで、早駆けはほっと胸をなで下ろす。ぼろ着の懐にしまいこんだ手が長い財布を握りしめている。中年の女中が風呂敷に包んだ荷物をせり出して妨害してきたが、財布はそのときにはもう彼の手の中にあった。

 胸をなで下ろしたのも束の間、早駆けはちらりと後ろを振り返って事態を確認する。相手がすぐ盗難に気づいては面倒だ。

 老夫婦は変わりなく列車を見ていた。女中は早駆けをちらちら見ている。(いぶか)しんでいる様子だ。これ以上の疑念を持たれないようにと、早駆けは背を向けてまた少し歩廊を歩きだす。ただ近くを通り過ぎただけだと印象付けるために。


 ぽっ、と短く汽笛が鳴る。列車が完全に停止した合図だ。

 耳をつんざく汽笛の鳴動は空気を裂き、触感に訴えかけてくるほどに力強い。

 早駆けは列車の先方に連結されている三等車の乗車位置まで進んで、もう一度そろりと振り返る。女中はもうこちらを見ていなかった。

 三等車の乗客たちは、すでに扉を開けて乗り込みはじめている。車内はたちまち座席争奪戦の様相を示す。三等車は乗客が扉を開閉するのだ。走行中も手動で開閉できる。

 一方で一等車と一部の二等車は、安全と気密の観点から走行中は閉扉施錠されており、車掌室か牽引車からの操作で開閉がなされる。これらの車両は指定席なので、席の取り合いも起こらない。

 さて早駆けが立ち止まって見つめる先、三等車の乗客が争奪戦を繰り広げるさらにその向こう側では、歩廊の柱から躍り出た底抜けがこちらへ向かいはじめていた。最初に早駆けが目星を付けた五人組を狙うのだろう。客車の扉が開く前にしかけなければならない。

 歩廊を進む底抜けは、わざとらしいほど目を屡叩(しばたた)かせ、しきりに唇を舐めている。緊張しているのが傍目にもわかった。

 ――俺もさっきまではあんなだったのか

 早駆けは底抜けの態度に自らを重ね合わせる。好ましからざる相手ではあるが、同輩の(よしみ)として彼の成功を願う(正確には底抜けのほうが数か月ほど先輩にあたるのだが、ともに下っ端なのは変わりない)。

 底抜けが若夫婦に迫る。

 夫婦は乳児をあやしながら笑いあっている。荷物持ちの書生は列車を指さして幼子の相手にかかりきりだ。これとない好機といえよう。

 底抜けが懐から手をだし、手首を鎌のように曲げて夫婦に接近する。余裕を感じたのか不敵な笑みを浮かべる。

 しかしそのとき、

「旦那さまぁ! スリですっ!」

 悲鳴のような声があがった。底抜けのわずか後ろに折詰を手にした女中が立っている。

 スリにとっては折悪しく、若夫婦にとっては折よく女中が戻ってきたのだ。彼女としては、列車到着を知らせる汽笛を耳にして大慌てで戻ってきたところですわ際会(さいかい)、叫んで知らせる他に手立てはなかった。

 底抜けの顔が笑みから一転し、青白く染まる。彼はまだ財布を手にしていない。だのにこうも動揺してしまっては自白しているに等しい。

 たとえばこれが胆力凛々(りり)しい隊員であれば、やましい点はないと泰然としていたであろう。機転が効く隊員であれば、証拠もないのに疑いをかけられたなどと言って、女中やら家族やらに難癖(なんくせ)をつけて脅し、いくらか強請(ゆす)る方向に切り替えていただろう。

 子供の相手をしていた書生が、「お前か!」と音声を張り上げるのと、歩廊の柱から素うどんが飛びだすのがほぼ同時。しかし荷物を手にしている書生がわずかに出遅れた。

 猛烈な勢いで走りだした素うどんは、呆然と突っ立ったままの底抜けの手を取って歩廊を突っ切っていく。そのあいだ素うどんは一度も早駆けを見なかった。個別に撤収せよという無言の合図だ。

 複数人が逃げる場合、同じ方向へ行かず散らばるほうがよい。誰と誰が仲間なのかばれないようにするのも大事だ。戎ではそう教えている。素うどんは早駆けに何の合図も送らないことで、彼に疑いが向かないようにしたのだ。もっともこれは古株の素うどんだからこそ、とっさにくだせる判断であった。

 取り残された早駆けはまだまだ経験が浅い。彼は事情を知らぬ他の乗客と同じように、唖然(あぜん)と成り行きを見ていた。愚連隊での教えがすぐに思い浮かばない。そうしたなかである、

「あいつもスリの仲間かも知れない!」と早駆けを示したのは、老夫婦付きの中年の女中だった。若夫婦の女中の叫びに呼応して声をあげたのだ。

「周りも混んでないのに、旦那さまに不用意に近づいてたんだあいつ!」

 ふいに早駆けと中年女中の目があう。

 獲物と目を合わせてはならない。そんな教えが早駆けの脳裡(のうり)をよぎる。目が合えば、その意の含むところをくみ取られてしまう恐れがあるからだ。しかしもう遅い。

「旦那さま、いますぐお財布を確認してください」

 早駆けが己の失錯に気づくよりも前に、確信を得た中年女中が老紳士に言う。

 歩廊の先で呼子が鳴った。騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた鉄道警察隊(鉄警(てっけい))だ。

 ――しまった

 嫌疑をかけられた浮浪児のような少年と、紳士についている女中。どちらに疑いの目が向けられるかは明白だ。こうなればもう早駆けも逃げだすより他に道はない。

「あ、逃げたぞ!」と誰かが言う。おめおめ逃がすなよ、という意味でもある。

 驚きや怒りを含んだ雑然とした声が歩廊に広がっていく。

 歩廊の前も後ろも、三等車の客が野次馬と化して早駆けを囲んでいる。笛の音が近づいてくる。

 ――くそ!

 早駆けはさっと視線を走らせる。注意がこちらに向いてしまっている手前、人混みを突破できる自信はない。逃げ場はおのずと定まってくる。

 ――いまこの場で人が少ないのは……

「待ちやがれ!」「スリが逃げたぞ!」

 列車に向けて駆けだしたスリを捕まえんと、大人数人がこれを追う。

 車内にいた人々には騒ぎしか伝わっていないようで、いったいなにが起こったのかと不思議そうな様子で顔をのぞかせている。

 早駆けは連結器をするりとくぐり抜けて、なんなく隣の線路へ躍り出た。

 すぐ後ろに迫っていた大人たちは、腰あたりの高さに横たわる連結器に戸惑い、通り抜けられず足を止めてしまう。連結器の高さと向かい合う切妻の狭さに阻まれ、抜けられた者は一人もいなかった。

 逃げるスリの背に大人たちが口汚い言葉を浴びせる。悔しまぎれの罵声が早駆けには爽快だった。

 しかし追手を完全に撒けたわけでもないようだった。線路伝いに駅を出てもまだ追ってくる者がある。防寒着に身を包んだ二人組の男だ。善意に満ちているにせよ、好奇心に駆られているにせよ、ただの乗客にしてはあまりにしつこすぎる。おそらく私服の鉄警だろう。

 ――どっかで振り切らないと帰れねえな

 もし本拠に警官を連れ帰ろうものならどんな目に遭うか。考えただけでも恐ろしい。

 路地裏を駆け抜けながら、早駆けは近辺の地図を思い描く。その地図は一部が真っ白で曖昧だ。

 南部市駅一帯は再開発後と前の新旧の区画が混じる。再開発後の区画は路地が規則的に並んでいるが、再開発前の区画は複雑に入り組んでいる。再開発前の街区ならばよく知っている早駆けだが、再開発後の街区にはさほど詳しくない。愚連隊ならば知っていてしかるべきだが、まだ踏査が済んでいない箇所も多かった。そのためどこを進めばどこへ出るのか、一部の道のつながりが不明なままだ。地図の空白はその部分にあたる。

 ――知らねえところに迷いこまねえようにしねえと

 もし行き止まりへ入りこんでしまえばお縄だ。早駆けは見覚えがある古い街区へ足を向ける。


 縦横に交錯する路地。計画性もなく建て増しされた建築物。廃材を積み上げて違法に編まれた破屋。

 都市の谷間に広まるそこはあたかも樹海である。樹幹の代わりに建物が生え、柱や物干し竿が木の枝よろしく不規則に突きだしている。

 前方への注意を怠れば、木の幹ではなくビルの壁面や廃材にぶつかるだろう。気を抜いて走れば、落ち葉のように堆積したゴミに足を滑らせ、深い緑色の沼沢ではなく、どす黒い排水が流れこむ下水に体を浮かべる羽目になるだろう。

 こうした再開発前の路地裏に広がる光景は、早駆けにとって懐かしさすら覚えるものだ。 

 行政が消したい都市の裏側を、行政が見せたくない愚連隊の少年が行く。

 少年が吐き出した白い息が瞬時に霧散していく。路地裏を駆け抜けるその身体を無数の寒気が突き刺す。帝都の厳しい寒さの前にはぼろ外套など気休めにしかならない。熱気のこもる駅から飛び出したばかりの身であればなおさらだ。

 ときおり足を刺すような痛みを覚える。こちらは寒さによるものではない。古い路地にうち棄てられた木片やガラス片が、皮膚を容赦なく()いていくのだ。しかし立ち止まってもいられない。(こた)えて走る早駆けの身体から、次第に寒さと痛みの垣根がなくなっていく。

 男たちは依然と早駆けを追っている。彼らはときどき思い出したように、待て、止まれ、と声をあげるが、それでスリが止まるなどと考えてはいない。しかしいずれ追いつくものとは考えている。

 大人と子供の体格差。貧相な肉付きの子供と訓練を受けている警官の体力。裸足も同然の靴と分厚い靴。ぼろぼろの外套と厚い防寒着。

 少年がじりじりと追い詰められていくのは目に見えている。

 ――どうやって逃げきる?

 逃げる早駆けはそれしか考えられない。

 両者の差が確実に縮まっていく……

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