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スリ

 やせっぽっちの少年が歩廊の頭端で雑踏に目を凝らしている。彼はある通行人をこっそり指さして、隣に立つ学生風の男を見上げた。

「あのステッキ持ちなんかいいんじゃないですか」

「いいや、腰のところを見てみなよ」

「ち、腰弁か」腰に弁当を提げるような勤め人は青年の彼らのお眼鏡にかなわない。「腰弁のくせにステッキなんざ持ちやがって! 紛らわしいな!」

 やせっぽっちは憎々しげに言い捨てたが、またすぐに別の一行に目をつける。

「ならあっちの奥様連は……?」

「ちょっと数が多いね。三人がかりじゃ厳しいよ」

「む、じゃあ、あっちの派手な女連れはどうで?」

 数撃てば当たるとばかりに、やせっぽっちは次々と人を指さしていく。

 この少年の髪はぼさぼさで、薄暗がりの下では色つやよく見える。が、これはろくに手入れせず皮脂が固まっているせいだ。煤にくたびれたぼろ着をまとう風体といい、少年の姿は下層民の典型的なものだ。骨が浮き出たような手足が、そのみすぼらしさに拍車をかけている。

「だめだよ」

 と少年を何度も制止しているのは中背の青年だ。中学校か予科生風の黒い制服を着ていて、貧相な装いの少年と並ぶとちぐはぐな印象を受ける。青年は取り立てて特徴のない顔をしていた。

「え、なんでですか。前に女連れは気が緩んでいるから狙い目だって――」

「なんでだめだと思う?」

 少年がなにか抗弁しようとするのを、青年はまたやんわりと制して逆に問う。

「え、と……」

 答えに窮するやせっぽっちの瞳がゆっくりと泳いでいき、隣に立つもう一人の少年に向けられた。

 こちらの少年はぼろ着の外套を羽織っていて体型はわからない。しかし身なりはやせっぽっちと大差ない。服の下の体型も同じだと容易に推測できる。

 助け舟を求められたぼろ外套の少年はちょっと考えこんでから、

「男が警戒してるから――」学生風の男をちらりと見て、「ですか」と付け加える。

「目が据わってるくせにいやにぎょろついてて――」

「そうだね」控えがちな解答を受けて、制服の男が破顔する。

「連れの女が不倫相手なのか買った相手なのかはわからないけれど、うっかり知り合いに遭いやしないかと警戒しているんだろう。そんなのはへたに刺激しないほうがいい」

「なぁんだ、そんなことか」

「そんなことも答えられなかったじゃないか」

 がっくりと肩を落とすやせっぽっちに、ぼろ外套が呆れる。

「うるさい。てめぇがさっきから黙ったまんまだから、本当にもの見てんかどうか試したんだよ」

 同輩に見下されたと感じて腹を立てて、やせっぽっちの少年が強がって食い下がる。

 しかし制服型の青年が、「こら」と短く発すると、すぐに口を閉ざした。

 青年の口調は穏やかでこそあったものの、短い一言は場をおさめるというよりも、強制的に口を閉ざさせる効を発した。上下関係は自明である。青年は彼自身と少年二人からなる班の長で、二人に対しては絶対的な権力を有していた。

 青年は愚連隊〈(えびす)〉で〝素うどん〟と呼ばれている古株だ。これといった特徴のない顔つきや身体つきをしている。それがためか、愚連隊の天敵である警察に顔を覚えられにくいという奇妙な特徴を(そな)えている。そんな『つるん』とした特徴のため、具なしのうどんを意味する素うどんという名を隊長から頂戴(ちょうだい)するに至ったという。学生服を着ているが、学生がぐれているわけではない。そもそも素うどんは学生ですらない。質流れ品を着ているだけだ。

 素うどん班長のもとについている少年二人は、やせっぽっちを〝底抜け〟といい、ぼろ外套を〝(はや)()け〟という。戎に入って一年にも満たない下っ端の少年たちだ。底抜けの名は、底が抜けた桶を叩いたような、けたたましい笑い声をあげるのに由来する。一方の早駆けは、早く駆けるからとわかりやすい命名。


 三人は人々が錯雑と行きかう南部市駅の国際線歩廊に張っている。

 一口に張るといっても、見張り、縄張り、突っ張りといろいろあるが、いまはスリの獲物を求めて網を張っているところだった。といってもつとめに精励しているというよりも、素うどんが講師となって下っ端二人にスリのいろはを教えこんでいるさなかで、さしずめ実地訓練の色が強い。訓練とはいえスリはもちろん犯罪だ。しかし他に生き方を知らない彼らは、罪を犯すに際してためらいはない。

 愚連隊は非合法組織だ。主な収入を、スリ、強請(ゆす)(たか)り、盗み、籠脱(かごぬ)け、寸借、成りすましなどに頼っている。この他に親組織である誠道(せいどう)会の要請を受けて隊員を派遣し、御用聞き、小間使いや運びといった業務(しのぎ)の補助も務める。御用聞きは誠道会の協力者への定期訪問を、小間使いは小用の手伝いを指す。運びは運び屋、武器や密輸品の運搬業務だ。

 しかし親組織からの依頼はそう頻繁(ひんぱん)にはない。

 となれば、やはり主な収入源は自前のスリや強請り、詐欺などに偏ってくるが、その利益幅は隊員ひとりひとりの成功率に大きく左右される。組織としては失敗つづきで収入が目減りする事態を防ぎたい。

 詐欺は探鉱と同じで、脈を探し当てるのに手間と時間がかかるうえ、見つけたら見つけたで頭数もいる。また証拠を残せば、強請りや強盗と同じく捜査の手が入って捕まる危険度が高い。

 一方スリは街頭に繰り出せば身一つで下準備なしに取りかかれる。盗るのに失敗しても、相手が仕掛けられたのに気付かなければそのまま流してしまえる。現行犯でないと捕まらないというのもいい。見とがめられたとしても、即座に逃げだしてしまえばやすやす捕まりはしないからだ。それに獲物を品隲(ひんしつ)する目を磨いておけば、強請りや詐欺にも応用が効くので、ぐれた世界への入門に好個といえる。

 戎に入って日の浅い下っ端はまず、古株からスリのいろはを教えられる。


「いいのを探すってのもなかなか疲れるんだなぁ」

 一時的に人波が去った周りを見回しながら底抜け。南方への列車が発車して、見送りの人々も歩廊から引き上げてしまっていた。次の列車が到着するまではしばらくこの状態がつづく。国際線の歩廊は繁閑の差が大きい。

「もっとまくり上げるみたいに取っていくのかと思ってたけど……」

 底抜けが、歩廊を徘徊(たもとお)る紙屑拾いやゴミ拾いに侮蔑的な視線を向けながら言う。この物事をあまり深く考えない少年は、熱しやすいがそれ以上に冷めやすい。先ほどまで鼻息荒く獲物を物色していたのが、もうその方への熱意を損なっている。

「僕たちは職人技を持つスリ師とは違うさ。慎重に見極めないといけない。最初は慣れないだろうね。すぐに動けないと苛立(いらだ)ちもするだろう」

 愚連隊という性質上、短気であったり血の気が多かったりする古株が多いなかにあって、素うどんの温厚な気性は異色だ。それがかえって底の知れなさをうかがわせる。気が短い古株のときとはまた違う緊張をもって彼の下につく隊員も多い。

「素うどんさんも最初は慣れなかったりしたんですか?」

「そういうの聞くなよ底抜け」

「てめぇにゃ聞いちゃねぇ早駆け」

「ほんと底無しに抜けてるなお前は。人の昔を聞くなってぇのによ」

 互いに過去の詮索を避けるというのは、戎の暗黙の了解だ。いや戎だけではない。愚連隊も含む非合法組織はどこも似たり寄ったりだ。そんな組織に属するのだから、大なり小なり(すね)(きず)を持っていたり、平易でない過去を秘めていたりする者は少なくない。

 底抜けは好奇心のために暗黙の了解を破ってしまっていた。あまつさえ相手は古株の素うどんだ。温厚だからと安心して安易に訊いたのだとすれば、むしろ舐めていると見られかねない。早駆けはそうした底抜けの軽挙さに耐えきれず口を挟んだのだった。

「べっつに忘れちゃいねぇよ。だけどおめぇは俺を止める口なんざ持っちゃいねぇってんだ」

「問題はそこじゃねえよ」

「はあ? 話をすり変えるな。早駆けがだまってりゃ俺も何も言わねぇよ」

 底抜けがますます声を荒げる。

 同輩の早駆けに制止されるのが我慢ならぬ様子の底抜けだが、当の彼はそもそも暗黙の了解を破ってしまっていることをすっかり忘れている。彼はしばしば直前の話に引きずられ、土台を次々と乗り換えいく。

 そんな節操がない点を指して、底無しに抜けていると評する早駆けであるが、それでますます腹を立てて、当初の問題を置き去りにしてしまうような相手である。口論はたいがいが益体もないものとなる。けだしこの点において、底抜けは難癖をつける三下の才を有しているといえよう。それは強請りにおいて欠くべからざる能力だ。

 ――話をすり替えているのはお前だろ

 早駆けとしてはそう返したかったが、口をつぐんだ。すでに泥沼にはまってしまっている。言われっ放しは(しゃく)であるが、かかずらっては底抜けと同じだ。水かけならぬ泥かけとなりかねない。

「二人とも静かに」と素うどんが横から口を挟む。

「底抜け、君はもう少し慎重さを覚えたほうがいい」

 こうなると底抜けも黙らざるをえない。腹を立てているとはいえ、上に立つ者に堂々と反駁(はんばく)できるほどの(はら)も能もない。

「しんちょうさ?」

「そこからか」素うどんは小さくため息をつく。

「つまりだ底抜け、手や口を動かす前に、本当にそれでいいのかちょっと相手を見てみろってことさ」

「俺だって目はついてますよ?」

「なら、もう少ししっかり見るんだ。それはいいのを探すのも必要な力だ」

 いいの、というのはスリの獲物――仕掛けるのにいい相手――を指す。

「少しでも上手くまくり上げたいなら相手を見ないといけない。相手を見られるようになれば、目先に浮かんだことをすぐ口に出さなくもなる。さっきの相手が僕じゃなくて日ノ出だったら、手始めにまあ三発は殴られていただろうね」

 相手を見ろというのは、相手を選べということでもあるが、はたして底抜けに通じているのかどうかわからない。だから素うどんは誰にでもわかるような実例として、なんにでも当たることで恐れられている古株の〝日ノ出〟の名前を持ち出したのだった。

 こうして怒鳴り散らさず対応できるところが、素うどんが講師役に選ばれる所以(ゆえん)である。

「いいのを探すにしたって、行き当たりばったりで、実際に失敗して体で覚えてもらってもいいんだけどね。痛い目を見て覚えられるならそれも授業だ。失敗して捕まっても別にいいんだよ」

 そう言われて底抜けはぶんぶん首を横に振る。当事者に捕まったスリは私刑を受ける可能性は常にある。被害者の感情を考慮した警察が、軽い私刑ならば大目に見ることがままあるからだ。もちろんその後はスリの現行犯として警察に連行されるだろう。

 しかしそれを機に更生する者はほとんどいない。より正確には、更生できるほどの下地を持つ者がいない。かててくわえて非行少年を受け入れるほど世間も甘くない。

(ここ)にいる時点で、どうせ戻れるところはないのだから」

 そんな素うどんのつぶやきに、早駆けは彼の事情を見た気がした。といって個別の事情を垣間(かいま)見たのではない。漠とした境涯に思いいたっただけである。

 ――誰も彼も同じようなものだ

 早駆けも自身ではどうにもならぬ理趣によって、清い世界から押し出されて戎に流れ着いた身だ。素うどんや底抜けも似たようなものだろう、と彼は考えている。在来に居場所がなくなったからこそ、戎に籍を置いているのだ。

 隊員同士で過去を探り合ったりはしないので実際にどうなのかは知らない。ただ、みながみな同じ愚連隊にいるという一点において、人に明かしたくない過去を持つ同士として薄ら()のような連帯を持つ。そこでは個別の事情はさて置かれている。鑑みないというよりも、意識的に触れないようにしているといったほうがよい。なぜか。

 ――差がつかないようにするためだ

 早駆けはかねてよりそう見ている。個別の事情に触れてしまえば、戎に身を置くにいたった状況に格差が生じてしまう、と。

 俺はこんな悲惨な目に遭ってここにいる。なんでぇ、おめぇはましな方じゃねえか。俺のほうがもっと悲惨だぞ。いやいや俺のほうが。お前はその程度の理由でここにいるのか、ちゃんちゃらおかしいな。……。

 なんにでも優劣をつけたがる面々だ。不幸自慢が始まりかねない。そして主観のみで語られる比較には際限がない。尾を追ってぐるぐると回る犬のようなもので、当人は必死であるが、外から見れば滑稽なばかり。全体としては傷をなめ合うよりも頽廃した状況に陥っている。

 おそらくはそうした懸念から、互いの過去を探らないという暗黙の了解が生まれたのだろう。下っ端の早駆けが考えつくことを隊長や副長、古株――いや、裏社会の高位の人々が思い至らぬわけがない。

 仔細にこだわらぬ限り事情は一様に塗りこめられる。その上に成り立つ仲間意識だとか同胞(はらから)(よしみ)だとかに隊員たちは胡坐(あぐら)をかいて生きていける。

「早駆けもだ――」

 素うどんの矛先は早駆けにも向けられる。早駆けとしては自分も勘定に入っているのが面白くない。しかし差し出口を叩いて底抜けを怒らせたという自覚もある。

「君の言い分に問題はないし、指摘したくなるのもわかる。だけど言い方に問題がある。次からは気を付けるように」

 はい、と大人しくうなずく早駆けを見て、底抜けがけらけらと笑う。相手も同等に怒られたと見做(みな)して溜飲を下げたのだ。しかしそれこそ素うどんが早駆けを勘定に加えた狙いである。

 底抜けだけを叱責していれば、彼はきっと自分だけが不当に叱られたと解して、早駆けにいらぬ逆恨みをいだきかねない。素うどんはそうした不良少年の心理を把握して、これを上手く左右してしまう。

「こんなに口ばっかり動かしてても仕方がない。スリは身体を動かしてこそだ」

 素うどんが隣の歩廊を示す。いくらかの小集団が適当な距離を置いて並びはじめている。間もなく列車が入線するようだ。


 歩廊の集団はいずれも五、六人の似たような構成からなっている。

 年長の男はたいがい洋装で、帽子に外套で身を固めている。連れ添う女は和装と洋装が半々といったところ。和洋いずれもこの冬流行の金毛の襟巻きを身に付け、少し派手な化粧で装っている。子連れの一家となると、そばにおめかしした子供が二三人いる。これに大きな背嚢(はいのう)を背負った青年、あるいは大風呂敷持ちの女が付属する。荷物持ちの書生や女中を伴っていることから、それなりに持っている層だとうかがい知れる。底冷えのする晩冬の帝都を脱して、南方の温暖な地へ避寒に行くのだろう。

 速やかに隣の歩廊へ移った三人は適当な柱の陰を確保した。

「あの家族連れの中からいいのを探してみるといい」

 子へ注意が向きがちな親を狙うと成功しやすい。お付きの書生や女中は大荷物を持っているので、気付かれてもすぐに追って来られないだろう。

「んで列車が入ってくるときを狙うんですね」

「注意が逸れるからね」

 確認を取る底抜けに素うどんが同意する。歩廊の客を狙う場合は列車が到着する頃合い、つまり人々の注意が列車に向けられている際に仕掛けるのが鉄則とされる。

 つぎに財布をどこにしまっているのかに見当をつけなければならない。洋装の場合はズボンかコートの隠しが定番だが、外套を着ていれば内懐にしまっている可能性もある。

 さてどれを狙うか。あまりもたもたしていられない。早駆けと底抜けはじっと目を凝らす。

「おい、あれ」

 早駆けは底抜けの肩を叩いてある一群を指す。

 夫婦らしき年若い二人と、乳飲み子を抱える女中、両手に大型の鞄を手にした書生からなる五人組だ。

 おりしも旦那が女中になにかを言いつけて、隠しから財布を取りだして何枚か渡している最中だった。女中は赤子を奥さんに渡してから、紙幣を恭しく受け取って懐にしまいこむ。それから一家を離れ、柱の陰に立つ三人の横を通りすぎて、歩廊の付け根へ向かって行った。会話は聞き取れなかったが、主人が女中に弁当なり水菓子なりを買って来るよう言いつけたのであろう。

「ありゃよさそうだな」

 ともに始終を見届けていた底抜けがうなずく。素うどんもゆっくりと首を縦に振って二人の意に沿う。これで獲物が定まった。あとは列車が入ってくるまで待ちぼうけ。

 というわけにもいかない。稼ぎをあげるには一回の勤めで満足してはいけないのだ。なるべく多くいいのを見繕って仕掛けなければならない。

 下っ端二人の品定めに班長が所感を述べ、目星をつけた二三組を選定する。


 ぼーっ、ぼーーっ、と汽笛が二度、長く鳴る。列車が歩廊の先端にさしかかって進入しはじめた警笛だ。案内係が歩廊を行き来しながら、到着列車への注意、両数、各等級の乗車口案内、整列乗車への協力の旨を告げて回る。

 ほどなくして南へ向かう急行が推進運転で入ってくる。前から郵便車、荷物車、三等車三両、二等車二両、一等車一両の八両編成。

 始発列車の乗客を狙うのならば、その好機は列車が歩廊に入ってきてから客車の扉が開くまでの間だ。特に乗車列を成して乗りこむ寸前がよい。これならば仮に見つかったとしても、列に並んでいる前後の者はとっさになにが起こったのか理解できず、すぐに身動きが取れないからだ。列が形成される前ならばすぐに追ってくるかもしない。遅すぎて車内に入られてしまっては手が出せない。腕に覚えがあれば、車内に入りこんで座席に落ち着いた相手を狙う方法もあるが、下っ端二人にはまだ早すぎる。

「それじゃあ先に行くから。よく見ているように」

 手本を見せるべく素うどんが動きだす。

 青年は柱の陰を出て、ぶらりと気ままな足取りで獲物に近づいていく。人々はゆっくりと歩廊に入ってくる列車に目を向けている。そのすぐ後ろを制服姿の青年が通り、……過ぎていく。何事もなかったかのように。

「あれ、もうやっちまったのか?」

「そうさ、やっちまったんだろう」

 注視していた二人であったが、その動きを見抜けなかった。途中でくるりと反転した素うどんは何食わぬ顔で二人のもとへ戻ってくる。

「次は早駆けから。二等車のあの三人組を狙ってみるといい」

 と当たりをつけていた老夫婦を示す。指令を受けたからにはすぐに動かなければならない。肚をくくるよりも先に動きだしていた。

 中年の女中に付き添われている老夫婦は、いましがた長椅子から立ち上がったところだ。素うどんの見立てで財布の位置もわかっている。

 恐れることはない。

 そう言い聞かせる早駆けだったが、緊張から歩幅が小刻みになり、思うように先へ進めなかった。

 失敗しやしないだろうか。

 つまずきやしないだろうか。

 見とがめられやしないだろうか。

 種々の不安から焦りが生じる。獲物を定めたらあとは成功している姿だけを考えればいい。

 そう教わってはいるが、スリに慣れぬ身の少年は成功裡()を想像しづらい。ついつい失敗を考えてしまう。しかし小股ながらも歩は進んでおり、いまや老夫婦は目の前に迫っている。目線は財布のありか、よれた外套の腰に注がれている。

 手がそっと伸びる。積み木細工を優しく積み上げるように――

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